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01 地底へ続く入口

第2章始まります

荷物はそれほど重くはない。それでも、これから向かう場所を思うと足取りは自然とゆっくりになる。都市の喧騒は背後に遠ざかり、石畳の通りには帰路につく人々の影が長く伸びていた。


「迷宮って、歩いて行くとどれくらいなんでしょうか」


リリアがぽつりと尋ねた。


「朝一に出たら昼前には余裕をもって着くぐらいだと思います。前に一度行った時もそうでした」


レインはそう答える。乗合馬車を使えばもっと早いが、二人にはその余裕はなかった。結局、選択肢は最初から一つしかない。歩くしかない。リリアは困ったような笑みを浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。


やがて都市の門を抜けると、空気の質が変わった。土と草の匂いが濃くなる。街道は整備されているが、人の数は一気に減る。商人の荷車が時折通る程度で、静けさの方が勝っていた。チビが革袋から顔を出すと、辺りを確認するように鼻を動かした。


「今日はずっと元気ですね」


リリアが言い、レインは答えた。


「こういう場所は好きみたいです」


朝の空気にはまだ冷たさが残っており、歩くたびに頬へ心地よい風が吹き抜けていく。遠くに広がる畑では農夫たちがすでに作業を始めており、鍬を振るう音が微かに聞こえていた。後ろから馬車が通り過ぎるたびに大きな砂埃が舞い上がり、街道の景色を一瞬だけ霞ませる。


「迷宮って実際にはどんな場所なんでしょうね」


リリアは緊張を滲ませた表情で、隣を歩くレインへそう尋ねた。


「話で聞く限りだと、大きな洞窟みたいな場所らしいですね」


レインは講習で聞いた内容を思い出しながら慎重に答えた。


「やっぱり中はかなり暗いのでしょうか」


リリアは不安を隠しきれない様子でさらに質問を続ける。


「たぶん地上よりはずっと暗いと思います」


実際に入ったことがないため、レインも予想で答えるしかなかった。


「……お化けとかは出ませんよね」


リリアは声を潜めるように恐る恐る尋ねる。


「それなら魔物の方がよほど怖いと思いますよ」


レインが苦笑しながらそう返すと、リリアも思わず笑みを浮かべた。


「それも確かにそうですね」


不安そうだった表情がようやく緩んでいく。その頃チビは革袋から顔を出しながら、周囲の景色を楽しそうに眺め続けていた。


「キュッ!」


小さな鳴き声を上げながら街道の景色を興味深そうに見つめている。


「チビは相変わらず元気そうですね」


リリアはそんな姿を見て、ふっと微笑みを浮かべた。


「たぶん散歩にでも来たと思っているんじゃないですか」


レインは肩をすくめながら冗談交じりにそう答える。


「これから迷宮へ行くんですよ?」


リリアは呆れたような表情を見せながらチビを見た。


「たぶんその辺は全然分かっていないと思います」


レインがそう言うと、チビはなぜか得意げに胸を張った。本当に理解しているのかどうかは本人にしか分からない。少なくとも不安そうな様子だけはまったく見られなかった。


二人は街道を歩きながら迷宮について様々な話を続けていた。ゴブリンはどれほど強いのかという話題も自然と出てくる。どこまで探索を進められるのかという予想についても語り合った。松明はどれくらいの時間使えるのかという確認も忘れていない。保存食が足りるのかという現実的な心配についても話し合っていた。そんな会話を続けているうちに時間は驚くほど早く過ぎていく。気が付けば太陽はかなり高い位置まで昇っていた。


「そろそろお昼の時間になりそうですね」


リリアは空を見上げながらそう呟いた。


「思っていた以上に歩きましたね」


レインも疲れを滲ませながら頷いた。


「でも、その……」


リリアは照れたような笑みを浮かべる。


「思っていたより楽しいです」


その言葉にレインは目を丸くした。そして同じように穏やかな笑みを浮かべる。


「それは俺も同じですね」


迷宮には魔物がいる。当然ながら命を落とす危険だって存在している。それでも未知の場所へ向かう高揚感が心の中にあった。冒険者として歩き始める期待も確かに存在していた。


「キュッ!」


チビが前足を高く掲げ、元気よく鳴き声を上げた。早く進もうと急かしているのが、誰の目にも明らかだった。


「はいはい、分かってるよ」


レインは苦笑しながらチビの頭を軽く撫でる。


「チビちゃんもかなり張り切っていますね」


リリアも楽しそうにその様子を見つめていた。そんな他愛もない会話を続けながら二人と一匹は街道を歩き続ける。そして昼前になった頃、ようやく迷宮にたどりついた。


街道を進むにつれて、建物は少しずつ減っていく。代わりに広い草原が視界を占めるようになった。風が強くなり、草が波のように揺れている。歩き始めてしばらくすると、リリアの足取りがわずかに重くなってきた。


「思ったより……遠いですね」


「まだ半分も行ってないです」


レインは淡々と答える。それでも止まる理由にはならない。二人はそのまま歩き続けた。日が昇るにつれ影は短くなり、街道の先にぼんやりと丘の輪郭が見え始める。その向こう側に、目的の場所があるはずだった。


迷宮――それは都市から離れた場所にありながら、誰もが知っている存在だった。世界各地に存在する、人類最大の謎だった。誰が造ったのか、いつから存在するのか、その答えを知る者はいない。人類が歴史を記し始めるよりも昔から存在していたとも言われ、長い年月をかけても最深部へ到達した者はいないという。内部は複数の階層に分かれており、階層が変わるたびに景色は大きく姿を変える。石造りの回廊が続く階層もあれば、無数の石柱が立ち並ぶ階層、水が広がる階層、地下とは思えない植物が生い茂る階層まで存在すると記録されていた。そして、そこには魔物が棲みつき、地上とは違い倒せば魔石を残し死体は灰になり消える。迷宮の奥では貴重な素材や希少な鉱石、時には未知の道具まで発見されることもあり、多くの冒険者が一攫千金を夢見て命を懸けていた。危険と夢が同居する場所、それが迷宮だった。


「怖くないと言えば嘘になります」


リリアが歩きながら言った。


「俺も同じです」


レインは短く返す。その言葉には強がりはなかった。むしろ当然の感覚だった。しばらく沈黙が続き、風の音だけが耳に残る。やがてリリアが小さく息を吐いた。


「でも、行かないと分からないんですよね」


「そうですね」


レインは頷いた。理解しているだけでは何も変わらない。それは薬草採取を続けてきた日々で嫌というほど分かっていた。行動しなければ、何も進まない。


夕暮れがさらに濃くなり、空の色が橙から群青へと変わり始めた頃、街道の先に低い丘の裂け目のようなものが見えてきた。そこには建物はない。ただ大地にぽっかりと空いた黒い穴と、その周囲に設けられた簡素な柵と受付小屋だけがある。人の出入りはあるが多くはない。中へ向かう者と、外へ戻る者が静かに行き交っている。地面の奥へ続く階段は、穴の縁から暗く沈み込み、先は見えない。


迷宮の巨大な入口を目の前にしたレインは、思わず足を止めた。リリアも同じようにその姿を見上げる。黒い岩肌にぽっかりと口を開けた入口は、静まり返っているにもかかわらず、不思議な威圧感を放っている。


「ここが……迷宮なんだ」


幼い頃から何度も耳にしてきたその名前が、胸の奥で静かに響いた。レインはギルドの資料室へ何度も通い、攻略記録や地図を夢中になって読み漁ってきた。文字を読むことは決して得意ではなかったものの、母が根気強く教えてくれたおかげで、時間をかければ読めるようになっていた。階層ごとの地図や出現する魔物の特徴、帰らなかった冒険者の記録や深層で見つかった希少素材まで、目につく本は片っ端から読み続けてきた。ページをめくるたびに胸は高鳴り、いつか自分もこの迷宮へ潜ってみたいと何度も夢を膨らませていた。その憧れ続けた場所が、今まさに自分の目の前へ静かに姿を現している。緊張よりも先に込み上げてきたのは、ようやくここまで辿り着けたという抑えきれない喜びだった。


「レイン君、どうかしましたか?」


隣を歩くリリアが不思議そうな表情を浮かべながら、立ち止まったレインへ優しく声を掛けてくる。


「えっ、あ……何でもありません」


慌てて返事をしながら歩き始めるものの、危うく見惚れていたことを知られるところだった。


「やっぱり緊張していますか?」


「初めてなので、少しだけ」


その返事は嘘ではないが、本当の気持ちをすべて口にしたわけでもなかった。革袋から顔を覗かせたチビが、小さく「キュッ」と鳴きながらレインの顔を見上げる。


「チビも楽しみなのか?」


そう声を掛けると、チビは嬉しそうにもう一度小さく鳴いて答えた。弱いテイマーだと分かったあの日には、一生迷宮へ潜ることなどできないのかもしれないと思ったこともある。それでも諦めきれず、資料室で本を開いては未知の景色や深層の魔物を思い浮かべる日々を繰り返してきた。強力な魔物を仲間に加え、誰も見たことのない景色を自分の目で見てみたいという夢は、今でも胸の奥で静かに燃え続けている。


入口へ続く石段の周囲には多くの冒険者たちが集まっていた。武器の手入れをしている者たちの姿もあちこちで見える。仲間と最後の打ち合わせをしている者たちも少なくなかった。迷宮から戻ってきたばかりなのか疲れ切った表情で座り込む者もいる。様々な冒険者たちが行き交う光景は圧巻そのものだった。


「……すごいですね」


リリアは感嘆したように小さく呟いた。レインも無言のまま大きく頷く。遠くから見たことはあった。


入口の両脇にはギルド職員たちが待機している。


「新人か?」


革鎧を身に着けた男性職員が二人へ声を掛けた。


「はい、今日が初めてです」


レインは緊張しながらも素直に答える。


「なら覚えておけ」


職員は迷宮の入口を振り返りながら静かに言った。


「迷宮で一番大事なのは生きて帰ることだ」


その一言に、レインの頭の中でバルトの声が蘇った。


――帰れる奴だけが明日も稼げるんだよ。


森でも迷宮でも、根っこは同じらしい。


「……はい」


レインも真剣な表情で返事をする。


「無理はするな、欲張るな、危険だと思ったら迷わず引き返せ」


職員は二人を見ながら強く言い聞かせた。


「魔物はまた湧くし素材だってまた手に入る」


職員は一度言葉を区切った。


「だが命だけは二度と戻ってこない」


その言葉にリリアは小さく息を呑んだ。


「分かりました」


真剣な表情で頷きながら答える。


「よし、それなら行ってこい」


職員は短く頷きながら二人を送り出した。


「必ず生きて帰ってこいよ」


レインは短剣の柄をしっかりと握り締める。


「それじゃあ、行きましょうか」


リリアが穏やかに微笑みながら一歩を踏み出すと、レインも静かに頷いてその後へ続いた。資料の中で何度も思い描いてきた迷宮へ、レインはチビとリリアを連れて、ついに自分の足で第一歩を踏み出した。


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