17 迷宮への準備
迷宮へ行くと決めてから、二人はすぐに動き出したわけではなかった。ギルドでその話をした翌日も、その次の日も、レインは変わらず薬草採取の依頼をこなしていた。朝早く家を出て外郭区の隠し場所で装備を回収し、都市の外へ出る。その流れはいつも通りだったが、違っていたのはその最中ずっと頭の片隅に同じ考えが残り続けていたことだった。迷宮へ行くための準備をしなければならない、その事実だけが静かに積み重なっていく。
夕方、ギルドへ戻るとホールはいつも通りの喧騒に満ちていた。酒と汗の匂いが混じり、革鎧の擦れる音と笑い声が入り混じる。その中を抜けて受付で報告を済ませたとき、背後から声がかかった。
「レイン君」
振り返るとリリアが立っていた。軽く手を振りながら近づいてくる。
「準備、どうしますか?」
その問いは単純だったが、答えは簡単ではなかった。レインは少しだけ考えてから口を開く。
「必要な物を揃えましょう」
「はい」
リリアは迷いなく頷いた。その一言で方向だけは決まった。
翌日は二人とも依頼を入れなかった。朝の市場はまだ開ききっておらず、人通りもまばらだった。その入口で合流した二人は短い挨拶だけを交わして歩き出す。
「おはようございます」
「おはよう」
それだけのやり取りだったが、昨日までとは違い足取りには明確な目的があった。迷宮へ行くための準備だ。しかし歩きながら二人は気付いていた。何を揃えるべきか、その“正解”がまだ曖昧なままだということに。
レインは腰の短剣に軽く触れながら言う。
「武器はこれしかないです」
リリアも同じように自分の杖を見て答える。
「私は杖だけです」
しばらく言葉が途切れ、朝の雑踏だけが耳に残る。
「……足りないですね」
「足りないですね」
ほとんど同時に口にして、気まずさに少しだけ視線を逸らした。リリアが小さく笑い、レインも息を吐く。
最初に向かったのは武器屋だった。鉄の匂いが強くなる通りに入ると、リリアはわずかに肩を縮める。
「こういう場所、初めてです」
「俺も慣れてるわけじゃないです」
店内には剣や短剣が壁一面に並び、光を受けて鈍く輝いていた。店主はレインを見るとわずかに眉を上げる。
「また来たのか」
「見てるだけです」
短く返すと、リリアは棚の武器を一つずつ眺めていた。どれも今の自分たちには遠い存在のように見える。
「短剣って、こんなに違うんですね」
「値段も性能も違います」
レインは一本を手に取ったが、それ以上は続かなかった。結局何も買わずに店を出る。
次に向かったのは防具屋だった。革鎧や手甲が並ぶ中、リリアが小さく呟く。
「これでも結構するんですね……」
「命を守る物ですから」
その言葉にリリアは何も返さなかった。軽く見える革製の防具でさえ、今の二人には重い現実だった。
市場へ戻ると空気は少し変わっていた。朝より人が増え、屋台からは昼の匂いが流れ始めている。焼いた肉の匂い、煮込みの匂い、香辛料の刺激が混ざり合い、空腹を刺激してくる。その中を歩きながら、二人は必要な物を一つずつ整理していった。
「松明、ロープ、保存食、それから包帯」
レインが指を折る。
「包帯は多めがいいですね」
リリアがすぐに返す。その真剣さが少しだけ現実的すぎて、逆におかしく感じるほどだった。
雑貨屋ではさらに細かい道具を揃えた。乾燥肉や布袋、簡易薬品。どれも地味だが、迷宮に入るためには必要な物ばかりだった。リリアは包帯を増やそうとして、レインに止められる。
「持ちすぎても意味ないです」
「でも不安で……」
「気持ちは分かりますけど」
そんなやり取りを何度か繰り返しながら、二人は少しずつ“現実的な量”を探っていった。気付けば手には小さな荷物が増えていた。それでも生活を圧迫するほどではない。だが確実に、昨日までとは違う意味を持つ荷物だった。
「思ったよりお金かかりますね」
リリアがぽつりと呟く。
「これでも最低限です」
レインは短く答える。その言葉には少しだけ重さがあった。
夕方、市場の出口で二人は足を止めた。人の流れの中で一瞬だけ静けさが生まれる。
「これで……行けますかね」
リリアの声は小さい。レインはすぐには答えず、夕焼けへと沈みかける空を見上げた。建物の隙間が赤く染まっている。
「一階だけなら、多分大丈夫です」
その言葉にリリアは小さく頷いた。不安は消えていないが、止まる理由ももうなかった。二人は並んで歩き出す。向かう先はもう決まっている。
迷宮だった。
第一章はここまでです
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