16 雨漏り
雨の音で目を覚ました。まだ空は薄暗く、窓の外では夜明け前の雨が静かに降り続いている。寝返りを打ったレインは、足元で丸くなっていたチビが小さく身じろぎする気配に目を向け、それから天井を見上げた。ぽたり、と水滴が落ちる音がした。
「ああ、またか……」
起き上がったレインは、壁際に置かれた桶を少しだけ動かした。昨夜のうちに溜まった雨水が半分ほどまで達しており、油断すれば床へ溢れそうになっている。
「レイン、起きてる? ごめんねえ、また漏り始めちゃって」
台所の方から母の声が聞こえた。
「大丈夫。桶、替えておくよ」
「助かるわ。今年の冬までには直したいんだけどねえ」
申し訳なさそうに笑う母の声に、レインは曖昧に頷いた。修理代がどれくらいかかるのか、彼は市場で聞いたことがある。木材代と職人への報酬を合わせれば、日雇い仕事と裁縫だけで暮らす家には簡単に払える額ではなかった。
台所へ行くと、父は既に仕事へ向かう支度をしていた。何度も繕われた上着は色褪せ、袖口には新しい継ぎ当てがされている。椅子に腰掛けた父は、かじりかけの硬いパンを片手に持ったまま、もう片方の手で靴紐を結び直していた。
「今日は荷運びだ」
短くそう告げた父は、硬いパンを口へ運んだ。噛む音だけが静かな台所に響く。荷運びの日は朝が特に早い。よく見ると、父の目の下にはいつもより濃い隈が浮かんでいた。
「気をつけてね」
母の言葉に父は小さく頷くと、レインの頭へ大きな手を置いた。ごつごつとした指の感触は、子供の頃から変わらない。
「お前も無理するなよ」
「うん」
迷宮へ向かうことを知らない父の言葉に、レインは少しだけ視線を逸らした。父は家族のために働き、母もまた夜遅くまで針を動かしている。だからこそ、自分も何かしなければならないと思った。冒険者になった理由は、格好良さへの憧れだけではない。少しでも稼げればこの家の屋根を直せるかもしれない。母が寒い冬を心配しなくて済むかもしれない。そんな考えが、危険を承知で迷宮へ足を向けさせていた。
チビが肩へよじ登り、小さく鳴いた。
「大丈夫。今日もちゃんと帰るよ」
赤い瞳がじっとこちらを見つめる。レインはその頭を軽く撫でると、革鎧の留め具を確かめて家を出た。雨上がりの石畳は湿っており、南外郭区の路地には洗濯物を取り込む人々の姿が見える。
市場へ向かう途中、教会の前を通りかかったところで、聞き覚えのある声がした。
「あ、レイン君」
振り返ると、教会の掃除を終えたばかりらしいリリアが、小さく手を振っていた。
「おはようございます」
「おはよう。朝早いね」
「今日は当番だったんです」
柔らかな笑みを浮かべた後、リリアはチビを見て少しだけ目を細めた。
「その子、相変わらず大人しいですね」
「俺より賢いかも」
「それはどうでしょう」
困ったように笑ったリリアは、ふと思い出したように言った。
「そういえば、教会の古い記録を整理していたら、面白い話を見つけたんです」
「面白い話?」
「迷宮で見つかる特別なオーブの話です。昔は『神の試練の欠片』なんて呼ばれていたそうですよ」
レインは首を傾げた。
「魔石とは違うのか?」
「ええ。触れた人に新しいスキルを授けたとか、奇跡を起こしたとか、そんな伝承です」
「昔話じゃないのか?」
「たぶんそうだと思います」
リリアは少し考え込むように視線を落とした。
「でも、迷宮が今よりずっと謎に包まれていた時代の記録なので、全部が作り話とも言い切れないんです」
「俺には縁がなさそうだな」
銅貨数枚の収入に一喜一憂する駆け出し冒険者にとって、伝説の秘宝など遠い世界の話だった。リリアも小さく笑った。
「そうかもしれませんね」
教会の鐘が鳴り始める。朝の祈りを告げる音を聞きながら、レインは迷宮のある方角へ視線を向けた。伝説のオーブよりも、まずは今日を生き残ること。銅貨を稼ぎ、怪我なく帰ること。それが今の自分にできる精一杯だった。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。気をつけてくださいね」
肩の上でチビが小さく鳴いた。レインは手を振ると、湿った朝の空気の中を歩き始めた。




