01 ネズミと少年の朝
朝靄の残る都市南外郭区を、一人の少年が足早に歩いていた。石畳は所々欠けており、昨夜降った雨の名残が小さな水溜まりを作っている。冷たい朝の空気の中、レインは肩に擦り切れた革袋を提げ、周囲を警戒するように視線を巡らせた。通りを歩くのは早朝から働く労働者ばかりだった。荷車を引く男たち、収穫した野菜を運ぶ農民、洗濯桶を抱えた女たち。誰も十五歳の少年に注意を払わない。それを確認して、レインは小さく息を吐いた。
「……大丈夫そうだな」
呟いた直後、革袋の口がもぞりと動いた。黒い鼻先がひょこりと顔を出し、続いて赤い瞳が周囲を窺う。艶のある黒毛に覆われた手のひらサイズの小さな体。その首には細い青いスカーフが巻かれていた。ダンジョンラットのチビだった。テイマーが使役する魔物には、所有者を示すための目印を付けることが多い。首輪や腕輪を使う者もいるが、レインにはそんな金はない。母親が余った布で作ってくれた青いスカーフが、チビの目印だった。
「キュ」
「出るなって。見つかったら面倒だろ」
チビは不満そうに髭を震わせる。レインは苦笑しながら袋の口を軽く押さえた。世間ではダンジョンラットは害獣として嫌われている。衛兵からは駆除対象と見なされ、冒険者たちからも最弱モンスターとして馬鹿にされる存在だ。だがレインにとっては違った。気付けば幼い頃から隣にいた家族同然の相棒であり、誰よりも信頼できる仲間だった。
木造住宅が並ぶ通りを抜けると、やがて人通りの少ない裏路地へ入る。そこは使われなくなった倉庫や空き家が並ぶ一角で、朝でも薄暗かった。レインは周囲を確認すると、崩れかけた石壁の陰へ回り込む。壁際には雑草が生い茂っていたが、その奥に古い木箱が半ば埋まるように置かれていた。誰も気に留めないような場所だ。レインは木箱をどかし、さらに下の石板を持ち上げる。すると浅い穴が現れた。中には油布に包まれた荷物が隠されている。
「よし、無事だな」
レインは安堵したように呟いた。家には冒険者用の装備を置いていない。置けるはずがなかった。父も母も、レインが冒険者をしていることを知らないのだ。もし革鎧や短剣を見つけられれば、危険な仕事をしていることなどすぐに分かってしまう。心配性な母は泣いて反対するだろうし、父も許さないはずだ。だから装備はすべて、この秘密の隠し場所に保管していた。
レインは油布を解き、中古の革鎧を取り出す。何度も修繕した跡があり、肩当てには深い傷が残っている。それでも今の彼にとっては大切な財産だった。腰に短剣を差し、革鎧を身に着ける。最後に穴の中を確認し、何も残っていないことを確かめると再び石板を戻した。木箱を元の位置へ戻し、雑草を軽く整える。これで誰かが見ても気付かないだろう。
「行こうか、チビ」
「キュッ」
革袋の中から元気な返事が返ってくる。レインは小さく笑うと、再び大通りへ向かって歩き出した。朝日を受けた巨大な城壁が視界の先にそびえ立っていた。その内側にはおよそ五万人もの人々が暮らしている。もっとも、同じ都市に住んでいるからといって暮らしが平等なわけではない。北には豪奢な屋敷が並ぶ貴族街があり、中央には商人たちで賑わう商業区が広がる。そして南には労働者や貧しい者たちが集まる外郭区があった。
レインの家も、その外郭区の片隅にある。決して裕福とはいえない。むしろ、貧しい家庭だった。
だからレインは冒険者になった。一攫千金を夢見たわけではない。ただ少しでも家計を助けたかった。そしていつか、両親に楽をさせてやりたいと思っていた。
もちろん、レインだって迷宮に潜りたかった。
迷宮の深くまで潜れば、地上で薬草を採るよりも、はるかに大きな稼ぎを得られる。
けれど、今のレインにはその実力がない。
迷宮に挑むには、まだ早い。
だから今は、薬草を採る。魔物を狩る。少しずつ力をつける。
いつか迷宮の深くまで潜れるようになれば、もっと稼げる。
そうすれば、両親にも楽をさせてやれる。
それが、レインの目標だった。
やがて冒険者ギルドの建物が見えてくる。二階建ての石造りの建物は朝早いにもかかわらず活気に満ちていた。剣士や槍使い、弓兵、魔術師たちが次々と出入りし、それぞれの装備を鳴らしながら仲間と談笑している。その中でレインの姿はあまりにも頼りなく見えた。身に着けている革鎧は中古品を修繕しながら使っているもので、肩当てには深い傷が残り、革紐も何度も結び直した跡がある。腰の短剣も安物で、刃には研ぎ直した痕が目立っていた。
ギルドの前を通りかかった冒険者たちが、レインの革袋から覗くチビを見て鼻で笑う。
「おい見ろよ」
「またネズミ連れのテイマーだ」
「まだやってたのか」
「すぐに死ななきゃいいけどな」
嘲笑混じりの声が聞こえてきたが、レインは反応しなかった。慣れている。テイマーへの評価は低い。多くの冒険者は半ば外れ職だと思っている。魔物を育てるには金がかかる。経験値は本人と魔物に分散されるため、テイマー自身は強くなりにくい。苦労して育てた魔物も死ねば戦力を失う。効率だけを考えれば、自分自身を鍛えた方が早い。だからテイマーは不人気職だった。だがレインは知っている。少なくともチビは、誰よりも頼りになる相棒だということを。
革袋の中でチビが小さく鳴いた。レインはその感触に安心するように口元を緩めると、ギルドの重い扉を押し開いた。途端に酒と汗の混じった独特の匂いが鼻を突く。依頼掲示板の前では冒険者たちが声を張り上げ、受付では職員たちが忙しそうに書類を捌いていた。今日もまた、危険と隣り合わせの一日が始まろうとしていた。




