第1章 11_報い
あてがった上着は完全に赤黒く染まり、俺のシャツもベストも、既に悪役令嬢の血で濡れそぼっていた。
それどころか、重体の彼女を載せる膝の上なんて、黒ずんだ血液が煩わしくカピカピに張り付いたかと思いきや、すぐにまた、じくじくと冷たい厭な湿った感じへと、塗り替えられてしまう。
(全然、血が止まらない……!)
すると、マリエッタは、か細い手でふるふると俺の頬に触れた。
「――ッ!?」
その手は、ひやりと冷たくなっていた。
(ヤバい。これ、マジでヤバい……)
俺は目を白黒させて、マリエッタを見ると、彼女は、血みどろになった唇で、何事かポソポソと、譫言のようにつぶやいていた。
「何だ? どうした? マリーッ」
俺は、マリエッタの患部を必死で押さえながら、彼女の顔に耳を近づけた。
何を言っているのか、どうにか聞き取ろうとしたんだ。
けれども、マリエッタは、土気色の顔で、ニコと儚げに笑うばかり。
そうして、小刻みに震えながら、彼女は、チュ……と、弱々しく俺の唇にキスをした。
「……愛……して、お、り、ます……。リ、シュ…………さ…………」
言い終わらないうちに、マリエッタは、ガクリと事切れた。
長く黒い睫毛に縁どられた金眼は、漠然と空を見上げたまま、白茶けた路傍の石のようになった。
美神像のようだと讃えられた公爵令嬢は、血液も体温も失って、まったく本当に、物言わぬ彫像の如く動かなくなってしまった。
かくして、俺の唇に残ったのは、口紅かと見紛うほど鮮やかな、元婚約者のキスの痕。
だが、それは、口紅なんかじゃない。
とても鉄臭くて、ぬめぬめして、哀しくもしょっぱい、微かに生温かった彼女の血液の痕。
公爵令嬢マリエッタ=ラグランジュの、生きた証――。
彼女の血で緋色に染まった俺は、呆然として、わなわな震えた。
「な……、ん…………ッ……!?」
「――ハハハハッ! 思い知ったか、この悍ましい魔女めがっ」
狂ったように、殺人犯は高笑いする。
俺は、ギリと血なまぐさい唇を噛んで、イラっとする。
(何だよ、このテロリストめ! 何の恨みがあって、俺の幼馴染みをっ……)
そう涙ぐみながら、ギッと犯人を睨めつけたところ、俺は「あ」と絶句した。
(俺、コイツ、知ってる――)
思うや、俺は、たちまち、金属バットでどたまブン殴られたみたいな、大ショックを受けた。
<ああ! ニーナッ!! どうしてっ!? なぜっ?? なぜ、君が死ななければならない……ッッッ!!>
俺の脳裏に鮮やかに蘇ったのは、悲愴に嘆き悲しむ、若い男の叫び。
蒼褪めるアンジェルの前で、嘔吐痙攣して冷たく動かなくなったメイドを、愕然と抱きかかえて慟哭する、サヴァティエ家使用人の男の姿がよぎる。
(――コイツ、あの時、ヒロインの代わりに死んだメイドの、旦那だ)
あれは、王太子と悪役令嬢、2人揃ってヒロイン主催のお茶会に招かれた際、突如として起こる。
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<あたくしと殿下にかようにお粗末なモノをお勧めになるなんて! 貴女、何をお考えになってらっしゃるの?>
<……そんなっ! とんでもない言いがかりです!! 我がお嬢様は、殿下とラグランジュ様にお喜びになって頂きたいと……>
<もうやめて! わたしがいけないんです。このわたしが、お貴族様のご作法にあまりに疎すぎた所為で……っ>
<いいえ! いけませんっ、アンジェル様!! あなた様には何の落ち度もないこと、この私がご証明いたします!!>
<ダメよ、ニーナッ! 後で、わたしが、責任もって全部始末しますからっ>
<――うっ……! あああっ……!!>
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そんな風に、アンジェルが用意したお茶菓子を、アンジェル付きのメイドが食し、彼女はそのまま命を落としてしまうんだ。
なぜなら、それは、ただのお茶菓子でなく、悪役令嬢がヒロインを殺害しようとして、事前にスパイを使って密かにトリカブトの毒を混入させておいた、毒菓子だったから。
要するに、ゲームとしては、王太子が婚約者に幻滅して、一気にヒロインに心が傾く分岐点の1つだったんだ。
ただ、悪役令嬢は、最初から、自分はおろか王太子が誤って食さないよう、毒菓子を因縁つけて下げさせるつもりだった。そうすれば、ヒロインの性格なら、非礼を詫びて、自分1人で何とかしようとするって分かっていたから。
だけど、王太子――というか、シナリオ・リシャールは、当然、ヒロインを庇って、その菓子を強引に自分の口に運ぼうとした。ので、悪役令嬢は、婚約者の体調を気遣う風にブチギレて、菓子を羽根扇子で払い落とした。すると、それに反感を覚えたメイドが、「変なモノじゃない」と訴えたんだ。
言い換えれば、シナリオ・リシャールが余計なことをした所為で、全然関係ない人が被弾したとも言えるけど。
(あの時、マサト、天の声化してたけど、『なんか申し訳ないな』って思ってた。結局、『イベントだから』で割り切ったけど)
とはいえ、悪役令嬢としては、ヒロインによって、その毒菓子が件のお茶会に出された事実さえあれば良かった。
それでヒロインが死ねば御の字で、たとえ、不発で、代わりに別人が死んだとしても構わない――。
「嫉妬深い伯爵令嬢が王太子妃候補を暗殺しようとした」
――もしくは、
「平民出身の卑しいヒロインが我儘の果てに気に入らない使用人を始末した」
風に演出できさえすれば――。
しかして、分け隔てなく情け深いアンジェルは、皆に慕われていたので、案の定、姑息な悪役令嬢の悪事は、すぐにバレてしまう。
というか、これは、むしろ、気性が激しく自己愛の強い悪役令嬢の邪悪な本性が露見した瞬間ともいえた。(とかって、おそらく、マリーも、俺みたいに、シナリオ・スイッチで『その役』をやらされていただけだと思うけど)
なので、実質、ここら辺りから、悪役令嬢と王太子との決別~闇落ちが巻きで入ったともいえるかもしれない。
だからって、断罪後に、また絡んでくるなんて。
(嘘だろ? そりゃ、裁きが下ったからって、死んだ人間が還ってくる訳じゃねえけど。こんなところでも、あのシナリオが効いてくるのかよ!?)
自業自得というのか、因果応報というべきなのか――。
俺は、心胆寒からしめられて、頭の中が真白になった。
(だって、原作では、こんな流れじゃなかったはず――)
いや、マサトのゲーム・プレイのリシャール・ルートはギロチン・エンドだったから、正規の追放エンドは見てないんだけど。姉貴が攻略本ごとゲームを渡してきたから、その辺だけはちゃんとチェックしてたんだ。
そんなフクザツな俺の心中など露知らず、移送責任者として、コロー子爵が物言わぬマリエッタに歩み寄り、その呼吸の有無を確かめる。
「ご臨終のようですな」
と、首を横に振りながら、子爵は物静かに言った。
「あ……、ああっ……!!」
俺はガクガク震えながら呻いた。
無残に事切れた幼馴染みの骸をじっと見下ろして、その場から動けなくなってしまう。
そうして、子爵と侍従が目配せして、速やかに王太子を死した罪人から引き離した。それは、明らかに、王太子の玉体にこれ以上死の穢れがついてはいけない、という配慮に違いなかった。
けど、俺は、そんなことされても、ちっとも嬉しくない。
「フンッ!」
「ああっ! コラッ!!」
「貴様ッ……!!!」
かたや、殺人犯は、勢いよく己の腕を捕らえる兵士らを振りほどく。
「早く捕まえろっ!」
「神妙にせんかっ!!」
そう兵士らに追われながらも、私刑を断行した元サヴァティエ家使用人は、ぬらりくらりと逃げおおせる。瞬く間にマリエッタの血に染まった凶器を拾い上げると、その刃を自分の頸動脈にぴたりと吸い付かせた。
「やっと、やっと仇を討ったよ、ニーナ! これでオレも……君の元へ行ける!!」
天に向かって呼び掛けると、殺人犯は、再び「ハハハ」と高笑いをして、ザシュッと己の首を斬って自害した。
ドサリッ……。
男はその場に崩れ落ちる。
男は即死だった。
生臭いニオイがプンと俺の鼻を衝く。
眼前に広がるのは、2人分の血で出来た真っ赤な池だった。
そうして、俺は、ただただ、その惨劇を眺めることしか出来なかった。




