第1章 10_迫りくる悪意
感極まって、俺まで、とうとう泣いてしまった直後。
ソレは、まったく、俺の視界に入っていなかった。
俺の腕の中にすっぽり納まるマリエッタの向こう側に、ゾンビのように虚ろな顔をした男が、この時、ふらふら迫ってきていたことに――。
不審な男は、ハンチング帽を被り、擦り切れたジャケットを羽織って、その内側に、何か持っているかの右手を隠していた。
これの接近にハッと気づいたクロードが、
「危ないっ……」
と、急いで止めに入ろうとした。
――が、時すでに遅く、不審者は、
「オオオッ!!!」
と吠えて、暴れ牛のように、真っ直ぐこちらに突進してきた。
「えっ――」
直前でジャケットから出したその手に、恐ろしく不気味な光が閃く。
ドスッッッ!!
鈍い音と共に、ガクンッ! と、マリエッタの体が前後に大きく揺れた。
マリエッタの後ろ腰の少し上あたり、抱いていた俺の左腕にも、何か、ぬめりとした生温かいものが滴ってくる。
「……ええっ……!?」
俺はギョッとしてうろたえる。
悪役令嬢として「虎狼の金眼」と渾名された瞳は、不自然に大きく瞳孔を開いていた。
「……マリエッタ?」
そのうち、マリエッタは、カハッと大量の血を吐いた。
「――ッ!?」
俺は絶句し、硬直した。
しかして、それを見た周囲の観衆らが、「キャーッ」と、悲鳴やら金切り声やらを上げる。
「……忌々しい魔女め!」
不審者は、抱いていた俺の両腕の間を狙い定めたように、マリエッタの身体を背後から刺していた。
(嘘だろ……っ!? どうして、こんな……ッッッ!!)
「アアアッ……!!」
「マリィーーーーーーッ!?」
そんな俺らの絶叫をよそに、
「死ねっ! 死んじまえっ!!」
と、犯人は、マリエッタの背に突き立てた短剣を非情にもグリと捻じ込む。
マリエッタは、ゴフッと、さらに吐血した。
「マリエッタ!!」
叫んだところ、まもなく、俺も「ぐぅっ!?」と呻いた。
彼女とほぼほぼ密着状態だった俺の身体にも、その切先が触れたから、同じく痛みが走ったんだ。
(……く、そっ……!)
俺が負傷したのは鳩尾の下あたり――。
俺は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
ただ、「痛い」ってよりは、「悔しい」って感じだったかもしれない。
なぜなら、俺の方はずいぶんと軽傷だった。
凶器の刃渡りの長さがそこまででなく、マリエッタの身体が思いっきり盾になってくれていたから、致命傷になるほどじゃなかったんだ。
けれども、当のマリエッタは、俺より身長が20cmくらい低かったため、完全に心臓を貫かれていた。
「リ……、リシュ……さ、…………ま……っ!?」
わななきながら、マリエッタは喉から絞り出すように、俺を呼ぶ。
「……お、お……、おケ、ガ……は…………っ??」
「バカ! なんで、そこで俺の心配するんだよっ!! 君の方が、ずっと…………」
俺は泣いて怒ったが、マリエッタは、みるみる生気を失っていく瞳で、
「よか……っ……た…………」
と、悲しそうに微笑んだ。
「ええいっ、曲者めっ!」
すかさず、クロードが、不審な刺突犯を羽交い絞めにして取り押さえようとしたところ、犯人は、頑としてダガーを離さなかったので、その凶刃は、マリエッタの背からずるりと抜けた。
「ア……ッ」
瞬間、ぶしゅうっと凄まじく、マリエッタの背から真赤な鮮血が辺りに飛び散った。
ビシャシャッと広がる血飛沫は、あっという間に、石畳の路面を赤く染め上げる。これに、観衆は「キャーッ」と青ざめて叫んだ。
俺は、衝撃のあまり、声も出せずに立ち尽くしていた。
マリエッタは、俺に抱かれるまま、ぐったりとしな垂れ掛かる。
「この者を逃がすな! 捕らえよ!!」
コロー子爵が周囲の兵に命じると、
「ははっ!」
と、一斉に兵士らは動き、犯人が逃げられないように、剣を掲げて、ぐるりと包囲する。
集まっていた観衆らは、その混乱に、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
クロードは、速やかに殺人犯から凶器を叩き落とし、強烈な殴打と膝蹴りで悶絶させると、すぐに犯人を兵士らに引き渡す。そして、血相を変えて俺のところへやってきて、おそるおそる尋ねた。
「王子っ! お怪我は……っ?」
「俺のことは、どうでもいいんだよっ! ただの掠り傷だからっ」
そんな風に、侍従のことなんてぞんざいにして、俺は、慌ててマリエッタに治癒魔法を施した。――が、ちっともそっとも、回復してくれやしない。
「くそっ! クソッ! 何でだよっ!! なんで、全然、傷が塞がらないっ……!?」
ああ。これが本当にRPGだったら。HP1の状態でも、一発で回復するのに。
だが、この世界の魔法は、それほど単純じゃない。
よくよく考えたら、マリエッタは、収監されていた間に衰弱しきってしまっていたから、元から、生体治癒力が極めて乏しく、低下していたんだ。
加えて、重要臓器の大損傷に、この失血量。
魔法で、筋肉量が増やせないように、血液もまた、それを作る臓器がやられて、再生増殖量が流失量に追いつかないなら、いくら、魔力で回復促進させようとしても、上手く機能しない。
「う、れ、し……い……」
「……えっ?」
焦点の合わない目で呟くマリエッタに、俺は、怪訝に眉を顰め、甚だ戸惑った。
「あたく、し……、き、っと……こど、くに……、し、し、死ぬ、の、だと……」
「何を言って……」
「で、も……、あ、たく、し……、こう、して……っ、い、い、と……しいっ、……あな、た……様のっ……、う、腕、のっ……、な、か……でっ…………」
蚊の鳴くような声でマリエッタは言う。
その胸と背からは、ダバダバと、おどろおどろしく赤黒い血が溢れ出していた。
動揺する俺を前に、クロードも困惑した様子で叫んだ。
「王子! もう手遅れです!!」
「――っるせえっ! 俺は、この国の王太子で、あの魔王ダルケシウスを倒した、【太陽】の騎士だぞっ。俺の力は半端じゃねえんだっ。こんなことで……こんなことでっ、かけがえのない幼馴染みを死なせられっかよ!! だから、俺が助ける! 絶対、助けてみせるんだからっ……!!」
そう啖呵を切ったものの、俺は、まるで何をどうすれば良いか分からなかった。
「とて、も、あたた、かい……で、す。あな……た、様の……、お、手……っ」
「ああ、もうっ。いいから喋るなって!」
声を発する度、どぷどぷと血が流れ落ちる。
そんなマリエッタを叱り飛ばして、俺は、
「そうだ。止血! 魔法が効かないなら、普通に止血して、後で同じ血液、輸血すれば……っ」
と、急いで自分の上着を脱いで、それでマリエッタの患部を押さえて、流血を止めようとした。
王太子の無謀な抵抗を酌んで、クロードはコロー子爵に言った。
「早く、医師を!」
「今しがた呼びに行かせましたが、そうすぐには来ませぬ!」
コロー子爵も当惑の眼差しで答えた。
俺は、そんなのも耳に入らないぐらい、懸命に、マリエッタの傷口を押さえ続けていた。




