外伝 間諜ナタリーさん その一 宿屋にて
『ヨハン様の結婚式の話を知ってるか』
『ヨハン様の結婚式?そう言えばアンジュ公爵家のお姫様が帝都に向かったとか言う話は聞いたな』
またあの話。
『お前、遅れてるな。ヨハン様とそのお姫様との結婚式の顛末を知らないのか?』
『結婚式で何かあったのか?』
『そのお姫様、なんと結婚の誓いを断ったんだと』
『本当かよ』
『本当も本当』
『でも何で結婚式の場で断るなんて事したんだ?ヨハン様がよほど気に入らなかったとか?』
『それがさ、なんと偽物だったんだと、そのお姫様。それもマリー姫の肖像画にそっくりだったそうな』
『ヨハン様は激怒したんだろ。王国と戦争になるのか?』
『親戚なのに王家とも犬猿の仲らしいぜ、アンジュ公爵ってのは』
『なのに皇帝陛下に恥かかせたのか?』
『何、陛下はあの通り盆暗だけど、ヨハン様はカンカンで、公爵に決闘状送るらしい』
『ホントかよ。戦争になるならこっちも売れそうなの買っときゃなきゃな。良い儲け話ありがとな』
給仕をしながらこう言った商人の噂話や、怪しそうな人物を調べたりするのが私の仕事。この宿には他に連絡係が二人いて5帝国マイル離れた隣の宿まで、偉いさんの手紙や収集した情報を書いた書付などを運ぶ。
さっきの噂話は街道を行きかう商人達の間でここ数日話題になってる。元々帝都での出来事の噂だからわざわざ帝都に知らせる事はない。
もしアンジュ公爵と戦になるなら、軍はここを通ってケルンに向かう。それとも南まわり。
ガタっと大きな音を立てて変な恰好をした人が立ち上がると大慌てで食堂から出て行った。
『ビアンカ、ちゃんとお勘定貰った?食い逃げじゃないでしょうね』
『ちゃんと貰ったわよ、ナタリー。それに泊まりのお・きゃ・く』
『そう、それなら良いわ』
ビアンカはこの前入ったただの女給。組織とは関係ない。
『それにしても変な恰好してたよね。宿の食堂でヘルメット被ってるなんて』
『そんなの、人それぞれじゃない。それに私顔見たけど、女の子みたいだったよ~、声も高かったし。それとも美少年かしら?』
私、ビアンカのこのなよなよとした喋り方が嫌い。
『私の所からは顔は見えなかったけど、女の子だったの?確かに背はそんなに高くなかったけど」
「さ~あ?私、ほとんど喋ってないし~分からないわ。なんか皮鎧みたいなのも付けてたのよ~。そのくせ顔はすっごく綺麗なの。美少年だったらどうしよう」
「あんた美少年好きなの?」
そんな無駄話をしてると、少し離れた所で食事をしていた商人らしい男が先程の二人に声を掛けたのに気が付いた。
『お前さんの情報は不十分だ。お前さんらが大損するのが可哀想だから忠告してやる。戦争を見込んで仕入れるのは止めとけ。アンジュ公爵家と帝国は戦争にならない』
『どうしてそうはっきり言えるんだ?』
『帝室はアンジュ公爵と戦争をする準備をしてない。なんと帝室はフェーン商会に1万グルデン返済したんだと。俺はフェーン商会の人間に直接聞いたんだ』
『なるほど、戦争する気なら戦費を集めなきゃならない。借金をするならともかく返すわけないな。しかし帝室のどこにそんな余裕があるんだ?』
『俺の聞いた話だと花嫁の持参金だとさ』
『ちょっと待て。その花嫁は替え玉でイワン様はカンカンだと』
『そこがちょっと違うのさ。その替え玉の方が結婚を拒否したらしいぜ、偽名で結婚出来ないとか何とか』
『だけど、なんで結婚してないのに帝室が持参金を勝手に使ってるんだ?それじゃアンジュ公の金を帝室が盗ったって事にならないか?』
『それがさ、その1万グルデンはアンジュ公爵家側が随行員の身代金として帝室に払ったんだと。楽師や料理人、挙げ句に召使いまで全員分の身代金なんだと』
え、召使いの身代金まで払ったの?
『召使いの分までか。でも誰が払うって決めたんだ?』
『払うって決めたのは替え玉だとさ』
『替え玉が持参金をどうこうするのはおかしいだろ』
『それが出発する時、アンジュ公爵が公爵令嬢として準備した物一切が替え玉のものだって言ったんだそうな。だから10万グルデンも自分の物だって主張したんだと。確かに持参金は花嫁の財産だし、結婚すればそのまま帝室に渡る。結婚しない場合誰の物になるかなんて誰も考えてないわな』
『だからと言ってポンと1万グルデンか?太っ腹なのか、それとも価値が分からないのか、泡銭だからか?』
いいえ、きっとその人は凄い人に違いないわ。陛下やヨハン様と堂々渡り合って、平然と大金を使って召使いを守るなんて。
『帝室が1万グルデン受け取ったって事は、帝室はその10万グルデンがその娘の物だって認めたって事なのか?』
『それが帝室は最初その娘が替え玉だって事自体隠そうとしたらしい。密かに実名でやって良いから結婚をさせようしたんだけど、今度はヨハン様が拒否したんだと』
『そりゃそうだ。仮にも次代の皇帝が替え玉と結婚するわけにはいかないわな』
『仕方ないからランベルト様と結婚するって話になったらしいんだけど、その話が漏れて、アンジュ公爵が自ら替え玉だと暴露したって話だ』
え、ランベルト様が?
『何故暴露したんだ?』
『ランベルト様が皇帝陛下の子だってのは皆知ってるけど、身分としては廷臣で相続権もない。替え玉だってばらさなきゃ公爵家の後継者が帝国の廷臣の妻って事になる。それは不味いって事じゃないか?』
『そりゃそうか』
『持参金から別に1万グルデン教会に寄進して口封じしてたらしいだけど、それも無駄になったって話。それでこんな裏話も漏れてきたってさ』
『だけどヨハン様が激怒してるって』
『公爵家から来た花嫁が替え玉だったって世間にばれて恥かいたからな。でも帝室としては公爵家とは交渉でかたを付けたいらしい。その替え玉の娘がランベルト様と結婚すれば、持参金の残金8万グルデンが文句なしに手に入る』
『公爵家は持参金の事は何も言ってないのか?』
『公爵家にとっては8万グルデンはそれほどのものじゃないって事じゃないかな?』
『ところで、事情通さんよ。その替え玉の人がどんなお方か教えてくれませんかね。8万グルデンの持ち主で、1万グルデンを平気で使えるお人の事は知っておかないといけませんよ』
『まず、絶世の美人と名高いマリー・ド・アンジュ嬢に瓜二つって言うんだから凄い美人だわな。替え玉にも関わらず、帝室と堂々交渉したり、1万グルデンをポンと使える胆力は相当の物。しかも本職は傭兵だそうな。帝国に入る直前に襲撃されて自ら馬車の上に上がって銃で騎兵を迎撃したとか』
やっぱり凄い人なんだ。
『本当にただの替え玉なのか?』
『さあな。他人の為には2万グルデン使ったのに自分の為には1グルデンも使ってないんだと』
『何言ってるのか分からない。オルレアンの乙女の再来か?』
『本当にそうかもな』
『そんな事よりその人の名前を教えてくれないか?』
『アネット・ロンだとさ』




