第2章 追手の影
森に闇が降りた頃、突如悲鳴が響き渡った。
「熊だ!」
その言葉を発したのは一人の男。腰に挿す刀を抜く暇もなく、後方から唸り声を上げて折ってくる巨大な熊から何とか逃げようともつれる足を必死で動かして逃げていた。3メートルを超える巨大に反して走る速度は速く、距離が一気に詰まっていく。それでも希望を捨てずに男が走っていくのは倒木に腰掛けた1人の女性の所だ。顎のラインに切りそろえられたボブヘアーが紺色の軍服と良く似合っている。女性は腕と足をそれぞれ組んだ状態で動じることなくただ熊を見ていた。視線は鋭く、巨大な熊を貫く様である。その女性を守るように横から二人の若い男が鯉口に手を置いて現れる。
「俺達が行きます。レイン大佐は下がっていてください」
そう言われたレインだが、急に倒木から立ち上がると、颯爽と男達を抜いて熊に向かった。
「なぜだ?」
レインは全く刀に手を触れなかったが、追われていた男がなんとか逃げのび、熊が一定の距離まで迫った瞬間抜刀し、斬り込んだ。その太刀筋はまるで空を滑るように一切のブレもなく、周りの軍人達が刀を目で追えないほどに速かった。熊は思いもしなかった一撃に怯みながらもすぐに体勢を整えて襲いかかった。レインはナイフのような爪を簡単に避け、手にある一本の刀が風を切るような高い音を残して振り下ろされる。レインは熊が腕を一度振る間に2、3回は斬り込んでいた。爪を紙一重で的確に避ける姿は完全に熊を圧倒し、熊自身が牙を向ける相手を間違ったと理解する前にレインはたった1人で簡単に倒してしまった。自分の倍以上もある巨体はゆっくりと倒れ、レインは落ちついた息のまま涼しい顔で、未だ緊張したままの部下達を見る。
「ヒグマ一頭ぐらい1人で倒せ。お前達の訓練が足りてない証拠だぞ」
その言葉に、部下全員が口を開けたまま固まった。
「いや、それは大佐だけですよ……」
「人間が超えちゃいけない領域ですよこれは……」
レインは部下の発言を気にすることなく、牙の痕がついた部下の鞄を見る。
「熊の習性からして、餌が豊富なこの場所で人をむやみやたらに襲う事は無い。お前は取られた荷物を取り返すとかいうバカなことをしたんだろう。熊、特にこのヒグマという種は所有物に対する執着が異常なほど強いからな。襲われるのも当然だ。そもそも装備を取られるな。取られる前に追い払え。やられる前にやれ。お前の腰の刀は玩具か?」
破れた鞄を見つめる部下はレインの後ろに横たわる熊を見て硬直している。
「じ、自分も大佐目指して精進します……」
レインの人間離れした強さに圧倒されながらそう言うと、レインは満足げに頷いた。
「よし、皆今日は熊鍋だ!」
と、先ほどまでとは打って変わり、満面の笑みでレインは手を叩いた。
レインは軍における大佐という立場にある。25歳にして異例の昇級を果たし、共に入隊した仲間を部下に持つ程だった。上官ラシャルブレイヴからレインが麒法違反者追跡命令を受けたのはおよそ1週間前のこと。命令の内容は、国で処刑するため麒法違反者を生きたまま国へ連れ帰り、引き渡せというものだった。
「恐らく麒法違反者はイアンだ」
休憩を取っていた部下を見ながら、レインは隣に座っている爽やかな雰囲気の青年に声を掛ける。髪は短く、身長は170センチを超えている。穏やかで優しいが、どこか緊張感を持っていた。彼の腰にも、レインらが共通して持つ刀が挿されている。柄に手を置いたままなのは彼の癖だ。
「そう決めつけるのは早すぎませんか? まだ麒法違反者に会っていないのに」
倒木に腰掛けていた青年は目を伏せるレインに言う。
「麒法を破ることは、幻属と意思疎通もできない人間にはほぼ利点がない。幻属と親しい者でなければこんな大罪に身を投じるような事はしないだろう。となれば、幻属と意思疎通ができる者だと考えるのが自然だ。考えられるのはやはりイアンしかいない」
それだけ言うと、レインは目だけで周囲を見た。
「それに、今は部下が周りにいないんだからいい加減、敬語はやめろ。立場が違うとはいえ同い年だろう。正直面倒だ」
自然に笑顔になるクランに、レインは短く補足した。
「まぁ、ニールの前で敬語を使われないのはちょっと困るが」
それを聞いて、クランは納得したように苦笑した。
「ラシャルブレイヴ大将が遣わせた忠実な部下、だよな?」
「そうだ。任務をより円滑に進める為にだとか言ってはいたが、私の監視役にニールを遣わせたんだよ。私が勝手なことをしないようにするための、いわば足枷。そのおかげでこの体たらくだ。動きづらいったらありゃしない」
レインは遠くで楽しげに話している部下達を眺めながら不機嫌そうにため息をついた。
「マキノぐらいバカだったらどんなに楽か」
レインが目線を移した先には部下の前で面白おかしく踊っている一人の男がいた。目立つのは何と言っても190センチを超える長身だ。1人だけ頭が出ていて、誰が見ても一目でマキノを発見することができた。また、髪はレインよりも長く肩の辺りまであり、ハーフアップに結いあげているのも特徴的である。
ふざけて部下達から笑いをとるその様子は、複雑な状況など全く考えていない単純なものだ。クランもまたその姿を見て確かにと頷く。すると、
「あ、レイン大佐じゃないですかぁ」
と、別の青年が笑顔で歩いてきた。




