第4章 レインとイアン
イアンは女軍人の執拗な追跡から逃れようと必死だった。激しくぶつかり合うベリトルと刀。その度に腕には強い振動が伝わっていた。経験したことが無いような衝撃に耐えながら、イアンは半ば叫ぶように言った。
「このままじゃ、カミーとはぐれちゃう! ベリトル、何とかならないの?」
「この私が何の装置も持たない人間におされるとは。訓練でここまで強くなったのか」
ベリトルは現状が信じられないのか、イアンの声が聞こえていないようだった。
「ベリトル!」
一刻も早くこの場から逃げたいイアンはもう一度声を上げた。
「何とかカミーに合流する! カミーに乗って距離を取るしかない!」
互角どころかレイン優勢な状況下ではカミーの足の速さを生かしていくしか方法がない。激しい戦闘で体力ばかりが削られ、既にイアンは両腕のしびれを感じていた。
このままじゃもたない。何とかカミーに合流しないと。でも、どうやって? 今は何とか反応できてるけど、このままじゃ合流する前に殺されてしまう。
イアンにとって、死をこれほどまでに強く感じたのは初めての事だった。少しでも手を緩めれば刀が深く自分を切り裂く。体から大量に出血し、感じたことが無いような痛みに襲われ、カミーにも会えずにここで息絶えていく。頭をよぎる恐ろしい光景と共に、死の恐怖がじわじわと心に侵入してくる。死にたくないという想いが強いほど、余計にイアンを焦らせる。いつしか額から汗が伝い、手足は震えてすくみそうになるが、それでも戦えているのはベリトルのおかげでしかなかった。
「イアン、焦るな!」
ベリトルはカミーに合流できるように立ちまわっている事はイアンにも理解できていたが、女軍人は行かせまいと行く手を阻む。
「大丈夫。私に任せろ」
ベリトルが何度もイアンに言葉をかけるが、死は確実に迫って来ていた。息が上がり、ベリトルを振るう腕に力が入らなくなってくるのを嫌でも理解してしまう。
ベリトルと刀がぶつかり合い、力が拮抗状態で動きを止めると、刀から押し切ろうとする力が伝った。イアンもまたその力に負けまいと押し返す。二人は武器を隔てて押し合った。痛いほどに伝わってくる殺気。押し負けた瞬間、死に捕まってしまうという恐怖。絶対に退くことは許されない。
互いの距離が一気に近づき、イアンは初めて相手の顔を間近で見た。直後、我が目を疑った。見覚えのある顔。蘇る明瞭な記憶。そんなはずはないと必死に否定しようとしても、否定できるものが見つからない。別人だと思おうとしても、心の中は確信で満ちていた。頭の中に浮かぶたった一つの名前。見間違えるはずがないたった一人の女性。
「まさか、レイン、さん?」
自分で聞いたことが無いほどに戸惑い、弱々しいその声は明らかにイアンの混乱を物語っていた。優しさなど微塵もなくても、その目つきが殺気を帯びていても、それがレインであるとイアンにははっきりと分かった。かつてイアンに文字の読み書きを教え、辛い日々を送るイアンを慰め、励ましてくれた優しい女性。
「イアン、集中を切らすな!」
ベリトルの叱責に一瞬反応が遅れたイアンの手元から、レインはベリトルを弾き飛ばした。ベリトルは宙で回りながら大きく放物線を描いて落下し、地面に深く突き刺さる。それを見越していたかのようにレインは声を上げると、樹の陰から突如男が飛び出した。イアンが反応するより先に男はイアンの膝を蹴って尻もちをつかせ、すかさずレインが刀を振り上げて狙いを定めた。
一方で、イアンの頭の中を占めていたのは死の恐怖でも、生への執着でもなかった。
「レインさん、僕だよ」
蘇る過去の記憶と、現実への戸惑いだった。
どうして、かぞくでもないのにぼくにやさしくしてくれるの?
暴力に晒されてきた幼い頃のイアンが、文字を一通り学んだある日レインに尋ねた一つの疑問。慰めて欲しいわけでもなく、ただ純粋に浮かんだ疑問。それに対し、レインはイアンを抱きしめて言った。
私はイアンが好きだから一緒にいるのよ。
刀を振り上げたレインを前に、心の奥底で何年もイアンを支え続けていた彼女の言葉が不意に蘇った。慈愛に満ちた言葉。たった一言で救われるようだった。胸が温かくなったあの言葉。だからこそ口からは今にも泣き出しそうな声が出た。伝わるはずがない声が。
「どうして……?」




