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星と波とエレアの子守唄  作者: 視葭よみ
可塑性のエフティヒア
162/163

オフェリエのために2

 夜も深い時分。

 ベッドに押し倒された女は抵抗せず虚空を眺めた。男は普段と異なる女の様子に片眉を上げる。


「どうした? 今日は素直じゃあないか」


「お願い」


「ん?」


「……私のどこが好きか、言ってくださいます?」


 さまよう瞳と震える声。

 男は鼻で笑うと嘲るような口調で女の耳元に囁いた。


「愚かなまでに従順なところさ」


 女は、そっと瞳を閉じて身体を男の好きにさせる。

 頃合いを見計らい、強く握りしめていた左の拳を解く。親指と薬指の先を触れ合わせて力を込めた。細く白い薬指が親指の根本付近に当たり、不慣れゆえか、掠れた音が鳴る――次の瞬間――いくつかの影が現れると男を引きはがして取り押さえた。


「寒い寒い潔冬の朝……」


「――は? な、んだ……何者だ、離せ!」


「……1人目の子は、暖炉に焼べられました」


 女の眦から涙が零れて生え際に流れ着く。誤算だった。これほど容易なことだとわかっていれば……――抑圧の反転を自覚しながら韜晦を続ける。


「潔冬の直前、暗い玄秋の夜……2人目の子は、産湯に沈められました」


「おい! 状況が見えていないのか?!」


「空が涙を流す玄秋の夜。3人目の子は……祝福されて生きながらえました」


 事前に命じていたとおり、喚き続ける男に布巾が噛まされる。

 女は、溢れ零れる涙を手の甲で拭う。決して難しいことではなかった。しかし、恐怖が身を竦ませ決断を鈍らせ続けた。


「春麗から朱夏への移り変わり、日が高い時分。4人目の子は、床に叩きつけられました」


 今宵、満月は澄み渡った夜空にある。果たして繰り返し空を昇っていく望の月に諦念を抱かされる宵を何度繰り返しただろう。

 今日で終わりにする……決めたものの、直前になっても恐ろしくて仕方がなかった。


「雪解けが進む潔冬の終わり。5人目の子は、へその緒が首に巻きついていたことにされました」


 生まれ変わっても自分にはなりたくないが、それでもどうか、あの子の母親でありたい――責任をもって解毒を果たしてみせる――もう選んだ未来を手放せない、手放しはしない。


「六人目の子は……生まれてきませんでした」


 静かに言葉を紡ぎ終える。

 女はゆっくり身体を起こすと、床に組み伏せられた男を見下ろしながら静かに尋ねた。


「ねぇ、どの子が1番苦しいと思いますか?」


 ベッドから降りて、呻き声を憚らず拘束から逃れようとする男の前へ。女は口元へ人差し指を寄せて歯擦音を聞かせる。


「もう誰もが眠りにつく時分です。お静かになさって?」


 そっと乱れた髪を耳の後ろへ流すと、月明かりに照らされて怯えた眼差しがよく見えた。憐れみを抱きながら頬に触れる。


「可哀想に……眠るのが恐ろしいのですね……」


 何か訴えるが、噛まされた布巾が邪魔をして言葉にはならない。否、内容はわかる。が、適える心算は微塵も無い。


「ご安心ください。私が子守唄を歌って差し上げますわ」


 月光の探照灯は、微笑みに宿る冷たい美しさを際立たせる。

 他に物音が消える。静謐の中、深く息を吸いこんだ。


「――綾なす波に誘われて」


 室内では絶叫が響いた。激しい感情が直接脳を揺らす。眩暈が吐き気を齎し、方角だけでなく上下前後すべてを乱す。死んだ我が子を前に悲嘆する女性ではなく、我が子を目の前で殺される母親の慟哭だった。


「炎にくべた言葉……集めて旅路を紡ごうか」


 すべて終わらせよう――そう考えるようになったのはいつからだったのか。

 物心ついた頃にはすでに唯一の後継者であることを理由にした暴力暴言に晒されていた。孤独に耐えることしか許されない日々を生かされ続けてきた。


「とこしえ待てず影は征く」


 優秀であることを示せたら、褒めて貰えると――解放して貰えるのではないかと期待した。入学すれば、結果を残せば、卒業したら、婚姻を結んだら、後継者を残せたら…………裏切られ傷つけられ続けたその双眸には、いつしか光は映らなくなった。


「凍りついた静けさは焦がれる地に綻ぶ花」


 抱いたときの、高めの体温を閉じ込めた小さな身体の愛おしさ。まだ上手く言えない言葉たち。揺れる小さな影と伸ばされる柔らかい両手。


「あせない調べに包まれて」


 細い髪がいたずらに風を含み、ふわりと広がる。

 庭師が剪定した花々の茎をリボンでひとつに纏めて差し出しながら浮かべる、この世に存在するどのような花よりも愛おしい笑顔を咲かせた少女が紡いでくれた言葉。


「ささやかな風にゆられよう」


 驚いて。嬉しくて。怖くて。どうしようもなく温かい何かが胸を満たす。美しさのあまり苦しくなり、頭が痛くなった。呼吸を忘れていたと理解したのは――


「重なる声があらわす……」


 涙が出ちゃったの


「空白に響む、つくもの星」


 ――小さな手が頬に触れてからだった。不器用に濡れてしまう温もりをこれ以上は汚さないよう自分の手で包んで離した。


「昨日は舞い降りた光抱き」


 私も貴女が大好きよ。

 あまりにも手放し難い大切なものが教えてくれたのは、陽だまりに包まれているような心地良さ――


「あなたはひとり眠るのでしょう」


 ――あの日だ。あの日、脆く繊細な花を自らの手で守りたくなってしまったのだ。


「夜の……まにまに、よすが得て」


 何も疑わず注がれた蒸留酒に舌鼓を打ち、ふたりで壜を半分にしたころに告げた。

 でしたら……ひとつ、お試しになりませんか? お父様か私か、命を賭けた遊戯を……。

 意味を図りかねたらしい瞳に微笑みかけた。


「涙雨がさらう心」


 ご安心ください。私にはお父様を助ける手段があります。……このハンカチの上にある、2錠の薬からどちらか一方をお選びください。お父様がお選びにならなかったほうを私が飲みます。

 ……目的はなんだ。一体、何のために?

 こちらの紙とペンを用いて、領地の裁量権を私へ贈与してください。

 莫迦なことを言うな、先に解毒を!

 すぐには死にませんわ。しかし、急いだほうがよろしいかと存じます。

 っ……何をしているのか、わかっているのか?!

 同じ言葉をお返しいたしますわ。


「……奏でて記憶を綴ろうか」


 誰も助けてくださらなかった……貴方も、監視しているだけで助けてはくださいませんでしたよね? 何年も何年も何年も何年も何年も……。

 それは……。

 私が死んだとて、貴方はどうせ今宵のことについては口を噤むのでしょう? 畢竟、私と同じ条件です。


「奮い立たせて、こだま聴く」


 ここで私が死ぬと数日以内にオフェリエは原因不明の病によって亡くなります。

 ……何を言っているの?

 あの子には夜眠る前に毒薬を飲ませて朝起きたら解毒剤を飲ませています。解毒剤の保管場所を知るのは私だけ……私が死んで、唯一の後継者であるオフェリエまでもいなくなるとどうなるのか、お分かりになりますか?


「悠久に流るるは……」


 お父様が亡くなり、私が死に、オフェリエまで居なくなると、この家に残されるのはお母様と私の夫です。あれがどのような男か、お分かりですよね? 私が死ねば、曽祖母様の御意向を遵守するため閉鎖を選んだ我が家門には後継者はおろか代理を務められる者すらおりません。ならば生殖期間である当代が責任を持って次代を


「……宿木知らぬ渡り鳥」


 激昂するように立ち上がった女の前に置かれたグラスを手に取り、静かに呷る。空になったグラスをもとに戻すと、代わりに懐から2種類の薬を机に乗せて微笑む。


「ちとせの灯に花が咲き」


 あの子の妹すら殺したのは貴女でしょう?

 …………。

 けれどね、私にも情がありますわ。お選びください。どちらかが解毒剤です。

 なんて莫迦なことを……。


「蝶はわらう宝に留まる」


 私の願いには、貴女は聞く耳を持ってくださいませんでしたわ。苦しくても悔しくても死にたくても、終わらせてくださらなかったの…………生まれてこないほうが幸せだった……けれど、私は……………………ならば、娘に不幸の味を教えた母親が、どうして楽に終わることを赦されるのでしょうか?


「重なる色が……あらわす……」


 ここで2人で死ねば、貴女の名は永遠に残りますわ――由緒ある名門伯爵家を途絶えさせた愚かな最後の当主として……曽祖母様ほどの才覚があれば或いは……時間制限は貴女の命が尽きるまでです。


「空白に響む」


 さあ、お母様。私をヒストリア伯爵にしてください。


「つくもの星」


 誰に捧げられるわけでもない清冽な言葉は…………あなたを還しましょう。息を風に、体を土に、心を火に、血を水に。あなたが星の身許にあらんことを願いましょう。冥の御約は流るる幾星霜に眠らず、輪をかけて誓いましょう…………星の誕生を言祝いだ。


「明日は光る風に迎えられ」


 繰り返さない――娘には同じことをしない、彼女には同じ経験をさせない……何度も胸の中で自分自身に言い聞かせた。

 本当に、私に出来ることかしら?……何度も自分自身に突きつけられた問いが、同じ場所で渦巻く。


「…………あなたはひとり……さめるのでしょう……」


 床に伏して動かなくなった男の瞼に触れて、見開かれた瞳を閉じさせた。

 目の前で取り乱す人間。浴びせられる言葉。指先が覚えている感覚。それらは――――



「主人様」



 ――――不意に少女の声が、彼女を現実へ呼び戻す。

 何度か瞬きをすると自らの右手の輪郭が明確になった。握る手の奥には朱夏を待ちきれずに美しく胸を張る彩り……花瓶に生けられた植物から声の主へ向き直った。

 彼女が用意したお茶を口に含むと、爽やかなレモンの香りが鼻腔をくすぐった。いまさら在ったことを無かったことにはできない、と言い聞かせるように香りが粘膜にしがみつく。

 許されようとは思っていないのだから罪悪感など抱いていられない。その先に何が待っているのか想像がついていても、進むしかない。


 執務室にひとり。

 映し出された白黒の命に視線を落とす――安堵する女は自嘲した。

 自身の双眸よりも力強く優しい色をした忌々しい晴天を見上げた。

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