兄の受難
スパティエ伯爵の執務室を出て間もなく、
「ヒストリア伯爵。殿下のもとへ向かう前に、ひとつ電話をかけてからでも良いですか?」
「はい。お忙しいところすみません」
「いえ。お気になさらないでください」
メロディは快くザハリアスの提案を受け入れた。
ふたりはその足で軍務棟の1階へ向かい、ザハリアスが電話をかけている間、メロディは内容を聞かないように少し離れた場所で待機した。
ザハリアスが発信すると間もなく、相手――エミリオス第二王子が受話器を取った。
「何かあったのか?」
「これからヒストリア伯爵とともに殿下のもとへ伺います。必要な準備を済ませてください。時間をかけたとしても、15分以内には到着します」
「……は?」
「それとも、俺は不在のほうがよろしいですか? 今からでも適当に理由をつければ」
「無理だ、無理。ふたりきりだと? は? 何を言っているのだ?」
「そうですか。でしたら、ご一緒に参ります」
「待て待て待て……待ちたまえ」
「はい」
「先日だ。つい先日。10日も経過していない。たった数日前に彼女を見かけたばかりだ」
「どちらでお見掛けされたのです?」
「学園だ、学術院の講演者として登校していただろう、知らないのか? ちっ……あの身の程知らずが、姉上が仲裁に入らなければ私が殴り倒していたところだった。今思い出しても腸が煮えくり返りそうになる」
「ああ、だから武術院のほうでは席を外さ」
「ハル。彼女のリボン、今日はどのような意匠か、わかるか?」
「ええ、はい――青地で、金糸の刺繍です」
「ああ、あれか。剣と天秤の刺繍だな?」
「……いえ、すみません。あの、手芸には昏いので」
「そうか、いや、構わない。円卓のときは大抵、家紋をあしらった刺繍のリボンを選ぶことが多いのだよ、彼女は。よし、それに合わせよう」
「左様ですか」
「さきほど15分はかからないと言ったな? 頼む、こちらの用意を整えるには15分は必要だ。不自然にならない程度に時間をかけてくれないか?」
「ここ、軍務の建物ですよ?」
「頼む」
「……わかりました。庭園を迂回すれば」
「あ……?」
「わかりました、庭園を歩くのは控えます。そうなりますと、12分が限界かと存じます」
「そこをどうにかしてくれ。15分だ、頼む。ハル、私は其方を信じている」
それだけ告げるとエミリオスは一方的に通話を切ってしまった。ザハリアスはそっと受話器を戻した。
軽く身支度を整えるためであれば10分も掛からないだろうに、とは思いつつ時間稼ぎの方法を考える。王城内の移動は明らかにメロディに分があるため順当な経路を進むしかない。遠回りするにも迂回経路としての庭園を禁じられては距離を延ばすのは困難だ。
「お待たせしました。荷物、お持ちしましょうか?」
「いえ、お気遣いありがとうございます。スパティエ殿こそ、足の調子は大丈夫ですか?」
「ええ。怪我ではなく、違和感があるだけですので」
わざと歩速を緩めると隣の少女は微笑み、それに合わせた。ザハリアスは懐中時計をすばやく確認して目的地である第二王子宮へ向かった。
「いずれにしろ、F2冬季越えは困難ですからね。歴戦の登山家ですら断念するほどだそうです。不可能ではありませんが強行しなければならない理由はありませんから自然と海路を想定することになります」
「まあ、帝国の首都を目指すには交通の便が悪いですからね。しかしながら、陸路が困難で海路は時間がかかることを理由に空を飛ばせるという発想は……学務の人間の考えることは理解の外です」
「ええ、本当に」
違和感を覚えさせないよう適当に話題を振れば、いずれの内容も苦も無く乗ってくれる。加えて、勝手に少女は歩速を緩める。13分が経過したころに目的の建物が見えてきたあたりでザハリアスは時間稼ぎの成功を確信した。
さらに数分ほどかけて到着すると、王子宮の使用人が恭しく出迎えた。
「ヒストリア閣下ならびにスパティエ令息。ご到着をお待ちしておりました」
使用人のひとりが花束をメロディに差し出しながら「エミリオス殿下より承りましてございます」と告げる。困惑しつつもメロディは花束を受け取った。
「殿下は花がお好きでいらっしゃるのでしょうか……?」
「……そっすね」
ザハリアスは努めて言葉少なに肯定を示しておいた。
まもなく使用人に案内されて居室へ到着すると、
「よく来た。ハル、ヒストリア、君らは、このような時間帯だが昼食は済ませたのか?」
15分間。
さんざ服装やアクセサリーに悩んだのだろう。首元のスカーフがわずかに歪んでいることから察せられた。むしろ、よく15分以内に収めたと感心する。
ザハリアスは、学園では見たことないほどの嬉しさをどうにか抑えこもうと苦心する王子へ冷静に答える。
「まだです。貴女は? 円卓終わりに父の執務室までいらしたのですか?」
「ええ、はい」
「要するに、まだ済ませていないのだな?」
「は、はい、殿下。おっしゃるとおりです」
「そうか。そうなのか。実は、私は先ほど公務の区切りがついたところなのだ」
「御寛ぎのところ申し訳ございませんでした。用件を済ませ次第、すぐにお暇いたします」
「あ、いえ、貴女は」
「その必要はない! 時間をかけて構わない! 重要なことだろう? ならば努めて丁寧に意思疎通を図るべきであろう。違うか?」
「……はい、殿下。仰せのとおりでございます」
「ちょうど軽食を用意させているところだったのだ。さあ、座りなさい」
エミリオスが強くベルを鳴らすと、商人たちによって着々とテーブルに多種多様な軽食が並べられていく。
用件を確認される前からだいぶ強い気概に気圧されているのか、メロディは意見を求めるようにザハリアスを見上げる。
「学園ではご友人と食事をとることが多いため、休みの間は自然とおひとりでお食事されることとなり寂しくていらっしゃるのではないでしょうか。ですから、閣下が、ごゆっくりなさったほうが殿下も嬉しく思われるでしょう」
「しかし、親しき仲だからこそ嬉しく思われるのではありませんか」
「……。決して否定はしませんが、それでも閣下。殿下をご覧ください。俺には、貴女を歓迎しているように見えます」
「スパティエ殿がいらっしゃるためでは」
「ありません。絶対にそれは違います。私見ですが、普段よりもずっと嬉しそうにしていらっしゃいます」
まるでスパティエの邸宅で飼育している動物たちの中でも、特に、遊びたくて仕方がない子犬とその子犬の圧に怯える子犬の様子を見せられている感覚だ。
「……とりあえず、座りませんか?」
誘導してエミリオスと向かい合う位置にメロディを座らせたザハリアスはそっと一息ついた。直後、双方から視線で訴えかけられ、どこに座るか悩んだのは余談である。
時間は掛かったもののエミリオスから学会参加の意思を受けとり、軽食を取り終えたメロディとザハリアスは暇を告げた。
丁寧に礼を告げるメロディと分かれ、ザハリアスは帰宅のため駐車場へ向かう。
すると、建物を出る直前、
「遅かったな」
「すみません、父上」
「気にするな。大方ヒストリアが地団駄を踏んだのだろう?」
「はい?」
「違うのか?」
「ええ、はい。あの……殿下の休憩と重なったので、そのため、時間がかかりました。ヒストリア閣下につきましては、グレイスよりも手が掛からない方でいらっしゃると思います」
「そうか……?」
「園遊会後、ここに住む、と主張して数時間居座るようなことはなさらないでしょう?」
スパティエ伯爵は納得まではしていないものの「ならば良い」と、車両の扉を開けて息子を促す。
「それから、これはスタシア嬢からだ。今月、エミリオス殿下も参加される夜会に使いなさい」
扉を閉める直前、早口に告げられ小包が差し出された。ザハリアスが承知の旨を応えるなり伯爵は背を向けて建物内へ戻って行く。
使用人の言葉とともに車両が走り出して父の背が見えなくなるまで、なんとなく車窓を眺めた。
******
残業が終わり、ちょうど講座の終了時間が近いと判断したコニーは戯れにメロディを迎えに行くことにした。カリオフィリス・デメテールが教師を務める芸術講座は強制解散させられることなく順調に回数を重ねていると風に聴いていた。補佐役として付けられた3名が上手い具合に対応しているのだろうと想像していると、コニーは廊下の先で何冊も厚い書籍を抱えて先を急ぐ金髪の少女を見かけた。
「スタシア嬢?」
「あら、カリス卿。ご機嫌よう」
挨拶を交わして「手伝うよ」コニーはスタシアが抱えている書籍のうち7冊を持ち上げた。
「ありがとうございます」
「講義がもうすぐ終わりだと思って迎えに行こうとしていたのだけれど、今日は長引くのかい?」
「ええ。佳境ですの」
「そうか。ならば見学でもしようかな」
邪魔をされないのであれば特段興味はない。スタシアは「是非に」と、微笑んだ。
件の部屋へ到着すると、まず、メロディが読書する傍らでカリオフィリスとフラナリー伯爵が議論している姿が視界に入ってきた。少し離れた場所ではヒメリノス夫人がどこかへ電話をかけて話し込んでいる。
「カリオフィリス先生、見つけてきました」
「本当かいっ? すまないね、ありがとう、フラナリー嬢!」
手近な机上に持っていた書籍を置き、「ありがとうございます、カリス卿」とコニーの運んだ書籍を受けとろうとする。コニーはひとまず同じように書籍を積んだ。
スタシアはそこから4冊ほど抜き取ると、ヒメリノス夫人の傍に運び、手振りで何らかの意思疎通を図った。続いて、残りをすべて抱えて移動するとカリオフィリスとフラナリー伯爵の傍に重ねておいた。さらに、そこから2冊を選び取るとスタシアはメロディの隣の席に腰を落ち着けた。
「メロディ様、こちらの43ページと……ありました、784ページの、こちらです」
「ありがとうございます、スタシア様」
「さきほどの疑問は解消されましたか?」
「いえ。考えても上手く纏められませんでした。お手伝いいただけますか?」
「もちろんですわ」
コニーは改めて室内を見渡す……壁の彫刻や並べられた金属製の彫像、カーテンに描かれた風景画、そのほか床に散らばる芸術の破片。言葉が見つけられず、ひとり腕を組んで難しそうな表情を浮かべるシモン・ソフォクレスのもとへ歩み寄った。
「やあ。大変そうだね」
「……学者の専権事項ではなく、もはや国民性なのでしょう」
視線を向けると、いつの間にかメロディとスタシアの背後からカリオフィリスとフラナリー伯爵も会話に参加していた。
シモンはため息をつくと立ち上がり、メロディとスタシアが広げる書籍を閉じようと手を伸ばすが、少女たちに阻止された。
「ヒストリア伯爵閣下、お迎えですよ。本日はこれで終わりです」
「あと30分だけ……」
「最後に、こちらの解釈について説明させてください」
「1時間前も申し上げましたが、次回でもよろしいのではありませんか?」
「でしたら、ヒメリノス夫人への質問は次回へ持ち込みます。しかし、ここだけは……」
「お願いします、シモン様……今、とても大切なところなのです」
円卓が心配するような事態ではないゆえに苦労しているらしい……コニーは他人事のように苦笑した。他方、さすがにもう時間が遅すぎる。それはシモンも承知の上なのだろう。
「フラナリー嬢、父君は貴女を迎えにいらしたのです、議論を膨らませるためではありません。明日も学園で講義があるのですから、本日はお帰りください! カリオフィリス殿、彼女たちは帰り支度を進めなければなりません。気を引くような話題を提供するのは後日にしてください! ヒメリノス夫人、先ほどから伯爵殿からの連絡をお伝えするたびに――あら、そうですの――で済ませるのはお控えください! ヒストリア伯爵、貴女は15分前にもあと30分だけと時間延長を希望されましたが、本来の終了予定はとうに過ぎております。貴女こそ明日も職務がありますよね?!」
声を荒げるまではしないものの、シモンは余裕なく主張する。
「でしたら、本当に、ここまでにします。ここまで理解したら終わりにします」
メロディからおねだりされたシモンはついに両手を机について無言で項垂れる。慰めのつもりか何のつもりか「15分あれば十分だよ。外国語の慣用表現についてだけだから」「そういえば、シモン殿。外国語は得意ですよね? この表現を君ならどのように解釈するだろう?」カリオフィリスとフラナリー伯爵が言葉を続ける。
「……でしたら今度こそ15分で済ませてください。
解釈につきましては、芸術に関する理解が伴う必要があるのでしたら私よりもカリオフィリス殿の説明が適していると思います。芸術家として名を馳せていらっしゃると同時に、複数の言語に明るいでしょう?」
「んー、愛の言語も合わせたら12かなぁ」
「愛の言語といいますと?」
「えー? 君はカリス卿から教わらないといけないんじゃあない?」
平然したカリオフィリスの返答には、さすがに言葉を失った。天井を仰ぐシモンの隣でどうにかコニーは苦笑する。メロディから小首を傾げられると、
「悪いけれど、外国語には不得手なんだ。ペークシス次期伯爵夫人なら、詳しいのではないかな? 出産から間もないから、電話したり呼び出したりせず手紙で聞いたらどうだろう?」
「手紙のほうがよろしいのですか?」
「うん。証拠が残るからね」
コニーは可能なかぎり穏やかな表情と優しい声色で答えた。「さあ、15分だけらしいからね。もうひと踏ん張りだね」講義の追い込みを促す。彼らが思索に取りくみ始めたのを確認したコニーはすぐに身を翻し、ヒメリノス夫人の傍へ歩み寄った。合図で通話を中断してもらうと、
「ヒメリノス夫人、電話をお借りしても? 10分だけです。スタシア嬢も夫人のご意見を求めているご様子ですから」
ヒメリノス夫人は相手といくつか言葉を交わすと受話器をコニーに渡して講義に混ざった。
コニーは慣れた手つきで自ら操作して電話を掛けた。
「……。本官はコンスタンティノス・カリス中佐。軍務省作戦本部参謀第5席であります。至急、ルキアノス・ペークシスの所在を確認したく連絡した次第。……はい。承知しました、待機します」
コニーはそこまで述べると受話器を耳に当てたまま軽く送話口を手で押さえた。しゃがみこんで机に体を預けてあきらめの境地にいるシモンと不意に目が合うと、困ったように微笑みかけた。
「……大変そうだね?」
「なぜ外部の者を巻き込むのですか」
「外部というのは交友の中を含まないよ。ちなみに、この講義は内密かな?」
「いいえ、違います」
「わかった、ありがとう。ところで――ごめん」
コニーはシモンにひと言だけ断りを入れた直後、送話口から手を外した。
「やあ、ルーク。走らせて悪かったね。良い運動になったかな?……もちろん、君に酒を贈ろうかと。え? 違うよ、祝い酒じゃあない。賄賂だ。……はははっ、夫人の前ではしばらく飲めないだろうと思ってさ」
シモンはぼんやり旧友らしい相手と話しているコニーをぼんやり眺めた。そういえばルキアノス・ペークシス次期伯爵とコンスタンティノス・カリス貴公子は年齢が近く幼いころから交流があったはずだと遠い記憶を整理していると、
「シモン殿、今月は忙しいかな?」
「はい?」いつの間にか再び送話口を手で押さえるコニーは「酒は苦手? それともソフォクレス閣下の許可が必要?」質問を重ねた。
「……いえ、問題ありません。機会があれば参じます」
「良かった、ありがとう――かわいいのはわかった。それから金蔓が増えたよ、おめでとう。シモン・ソフォクレス殿もいらっしゃるそうだ。じゃあ、予定は適当に合わせよう。うん?……ああ、そう、頼みがある。
数日以内に、ヒストリア伯爵閣下からディアネイア様宛ての手紙が届く。それを、細君の目に決して触れさせずに回収して欲しい。俺らにとってはだいぶ重要書類なんだ。……えー、シーリングスタンプで判断できないかな。それか、筆跡。…………史上最年少局長殿ですら難しいなら是非もないよ。……わかった、君は内容を確認して構わない。近いうちに、一緒にデメテール閣下の顔を拝みに行こう。……承知した。ああ、最後にひとつ。ヒメリノス大佐に伝えてもらえるかい? 夫人は今から15分後に駐車場にいるから一緒に帰宅するほうが良いだろう、と。以上だ。では、また今度」
コニーは受話器をもとに戻すと、シモンの隣で同じようにしゃがんだ。
「カリオフィリス殿に正面から関わろうとするのは徒労だ。彼は身内でなければ扱いきれない。ゆえに国外逃亡を図っていたようだからね。ひとまず証拠をデメテール伯爵閣下に渡せば多少は落ち着く可能性がある」
「……はい。ありがとうございます」
「他に何か気になるのかい?」
「ペークシス次期閣下がルキアノス殿であることに疑問はありません。しかし、細君にディアネイア嬢を……彼女を?」
「意外だよね」
「ルキアノス殿とディアネイア様については……園遊会で張り手や腹部への拳など、印象に残っている物事が、あまりにも」
「はははっ、基本的にあれらはルキアノスに非があるからね。そういう意味ではお似合いなふたりだよ」
シモンの困惑が解けない隣でコニーは朗らかに笑った。
それからおよそ10分後、粘ろうとした面々に対してコニーが有無を言わせず講義を終了させた。野生動物の狩猟のように背後から追い立てるように廊下へと追い出し、代わりに部屋の鍵を掛けた。
フラナリー親子、メロディ、カリオフィリス、ヒメリノス夫人の4名は講義の続きを話しながらふたりよりも少し先を歩く。
シモンはコニーから鍵を受けとりながら礼を告げた。
「こちらこそ。予定が固まり次第、連絡する。美酒を嗜もう」
「はい。是非」
「この講座はまだ続くのかい?」
「ええ、もうしばらくは」
「はははっ。対策を立てなければ苦労が続くだろうね」
「どのような分野でも新しい扉を開けるのは構わないのですがね……自分で開けるのを躊躇する扉があるとは思いませんでした」
シモンは窓越しに鍵を月明かりに翳し、苦笑する。まもなく溜息とともに鍵をポケットに押しこんだ。
「私でよろしければ1から丁寧に教えて差し上げましょう♪」
何処から何を聞いていたのか、いつの間にか足を止めて傍にいたカリオフィリスは意気揚々とシモンに提案する。他方、意図を理解できず目を瞬かせて困惑の視線を彷徨わせたシモンは、やがてコニーを見上げた。
「失策ですよ、次期公爵殿。主語の範囲が不明瞭です」
視線を向けられた当人はそれだけ伝えて軽く肩をすくめた。




