卒業式の満月
盛大な拍手や野次で健闘が称えられる中、ザハリアスは対戦したプロソディアスと握手を交わした。鳴りやまない歓声とともにふたりは練武場の中心から捌ける。
「いやぁ、あいかわらず見事なものだよね」
「有終の美を邪魔した罪悪感はありますよ」
「気にしなくて良いよ。手を抜かれるほうが嫌だから。勝てないことは対戦が組まれたときに察していたし」
「しかし、幼いことを言っている自覚はありますけれど、それでも勝ちたいと思うものではありませんか?」
「ははっ、学生らしさがあって良いね」
「……」
「何、その顔?」
「瞬間最大風速不愉快超えの先輩風を観測したので感心しています」
「あいかわらず楽しそうな思考回路で何より」
「お褒めにあずかり光栄です」
練武場の後方へ到着し、座席に並んで座りながらひとしきり笑うと
「なあ、ハル。努力家なところは眩しいけれど、君はどうも頑張りすぎるきらいがある。見ていて心配になるよ」
プロソディアスは右足で何度か音を立てて地面を踏みしめて見せた。対戦では敗北を喫したが、ザハリアスの右足を庇うような仕草には気づいていた。気づかれていると思っていなかったらしい後輩は一瞬だけ瞠目すると、苦笑する。
「仕方ないじゃあないですか。自分の居場所を維持するためには必要な努力ですから」
「努力を否定しているわけじゃあ」
「わかってます。でも、俺、剣は好きなので。あなたにとっての音楽のようなものですよ、きっと」
「……本当、眩しいよ。〝理想郷〟」
不調な相手に敗北しても、それが同年代最高水準の技術を持つザハリアスだとたいして悔しさを覚えられない自嘲とともに手を握ったり開いたりした。
不意に大きな歓声が上がった。対戦中に他学舎から季節風が到着した歓迎は聞こえていたが、ついに卒業生における指折りの実力者同士の手合わせが始まるらしい。
「抜け出すなら今のうちですよ」
「君はどうする?」
「え。行きませんけど。今から〝不壊不動〟と〝海の北風〟が試合するのですが?」
「それもそうだね、ごめんごめん」
プロソディアスは笑いながらその場を辞した。
その足で学術院の本館第7講堂へ向かった。しかしながら、室内にクロエ・アカキーア子爵令嬢の姿はなかった。事前に聞いた場所を間違えたかと不安になった、室内に学術院の卒業生の姿しかないことから、むしろ正しいのだと思いなおせた。結局、プロソディアスは続いて芸術院へ向かった。
芸術院の音響設備にはよく世話になった。武術院の人間が出入りすることに対して、当初は遠巻きに避けていた芸術院所属の生徒らだったがプロソディアスがただ楽器に触れて演奏していたいだけの同類だと察するなり独自性が強い生徒たちは彼らなりの友情でプロソディアスを仲間として受け入れてくれた。
そっとピアノに触れて感傷的になっていると、
「わざわざこちらにもいらしたのですか、ムジーク令息」
「やあ、フラナリー嬢。ご要望はあるかい?」
「アカキーア嬢には捧げない曲が聴きたいです」
スタシア・フラナリー伯爵令嬢らしい洒落が利いた言葉に対してプロソディアスは苦笑を零して軽く肩をすくめた。適当に1曲引き終えたプロソディアスは、聴いてくれていたスタシアを見上げた。スタシアは眦を下げると立ち上がり、歩み寄った。その手には小箱があり、
「寂しくなります」
そう言いながらプロソディアスに差し出した。
「これは?」
「学芸院所属の者たちから、貴方への卒業祝いです」
プロソディアスは受け取りながら礼を告げ、包装を解いた。
姿を現したのは実用的な意匠の万年筆だ。
「蓋を取ったら音が鳴るとか?」
「まさか……。そのような仕組みのものも存在しますが、ムジーク閣下や父君から白い目を向けられかねませんでしょう? もう一工夫していますわ」
そう言われて、改めて万年筆を観察する。万年筆の蓋には宝石が象嵌されており、縁は金属製らしい。本体の軸にはあまり見ない意匠の金属の装飾がある。試しに蓋の縁を軸の金属意匠に触れさせてみると……カタカタ……なんとなく音階はあるらしいが、まるで玩具だ。
「こういうことかい?」
「尾詮をご自身のほうへ向けて、同様に動かしてみてください」
促されるまま、期待せず、首を傾げながら尾詮を自らに向けながら蓋を動かしてみると――金属のような冷たさは否めないながらもグリッサンド奏法で可憐な音楽が奏でられた。
「なにこれ、どういう仕組みっ?」
「説明は遊んでからでよろしいのではなくて?」
「蓋のトルマリンは演奏を安定させるために嵌めていますが、万年筆本体の宝石は変えても問題ありませんので好きなものを象嵌してください」
スタシアはわざとプロソディアスの質問を無視して笑みを浮かべた。言外の主張は手品師の隠しているものを暴くなという沈黙の了解と同様のものだろうと察して、プロソディアスは無粋を謝罪した。
「ところで、クロエを見ていないかな?」
「あら。彼女でしたら、ヒストリア閣下の講演会の支援ではありませんか?」
「聞いていた講堂は卒業生に占領されていてね。しかし、ヒストリア殿の支援は殿下が担当されるのかと……」
「シプリアナ様は本部で総合対応ではありませんこと?」
「ああ、いや……まあ、そうか。そうだね」
「それでは、邪魔者は退散しますわ。〝赤い糸〟は運命の人を導いてくれるものでしょう?」
プロソディアスは、満足そうな表情で暇を告げた少女を見送った。
太陽が傾き、染め上げられる室内。最後にここで何を弾こうか――プロソディアスは椅子に座りなおして瞳を閉じた。
伯母が遺した、幻の楽曲。録音だけでなく楽譜すらも不在であるこの曲は、幼いヴァシレイアを腕に抱いた伯母は鼻歌でよく奏でていた。〝西方の悲劇〟で星の御許へ還った伯母に思いを寄せて≪葬送≫と仮題を付けて、今も忘れないようにしている。
一音一音、丁寧に鍵盤を辿る。途中、扉が慎重に開閉されたことには気がついたが、プロソディアスは最後まで演奏した。
「……その曲、いつか、完成したものを聴かせてほしい」
「そうだね、ヴィヴィかカルテットが天才音楽家になるのを期待しよう」
クロエは背後からそっとプロソディアスを抱きしめる。プロソディアスは婚約者の大胆な行動に戸惑いながらも戯けた口調で「何、どうしたの」と真意を尋ねた。しかし、少女は静かに告げる。
「貴方が優先するのは誰かのことばかりだから」
「そのような、違うよ。そのような心算は無い」
プロソディアスはクロエと向き合うようにして両手を握る。立ち上がり、代わりにクロエを座らせて自分は膝をつくと、
「自罰的な思想は持っていないよ。ただ、俺は君の人生の伴奏者でありたい」
「純粋に誰かの幸せを願うことができる人――私だってわかっています、アースのことですもの。けれどね、自分のことを蔑ろにしてしまっているのは受け入れられない。私だって貴方が好きなことをしている姿を見せて欲しいし、応援させて欲しいのです」
言葉に詰まったプロソディアスは困ったように微笑んで視線を下げた。すると、
「ほぅら……狡いように見えるなら、指摘しても憤慨しても構わないのに。結局ひとりで抱え込んでしまわれるではありませんか。聞き分けの良い振りをしてその実、子どもでいらっしゃる。子どもなのですから、誰かに甘えてもよろしいのですよ?」
「君が思うより私は欲張りだから。理由はそれだけだ」
「……」
不安にさせたのかと焦ったプロソディアスはクロエの手を握り締めて、
「前提として、私は君のことを愛している。言い換えると、家族のひとりとして大切に思っている。だから守りたいんだ。ここまでは良いね?」
「は、はい……」
「おや? そこから説明する?」
「いえっ、今は結構です」
「わかった、後でね」
「アース……!」
笑いながらクロエの反撃を往なすと、
「そもそもカルテットが生まれるまでは唯一の嫡男だったから、後継者として目されてたのは事実だ。入学前までは文武ともに相応の教育を受けていた。ただ、武術の技量はいつまでも年少者にすら劣るほどだった。小柄だったわけでも虚弱体質だったわけでも無いのに」
プロソディアスは、クロエをまっすぐ見つめた。
「君に出会って、君を大切にしたいと思えたからだよ。武術にも身を入れるようになったのは、腕が立たなければ君を守れないことがあるのだと気づけたからだ。君が私に気づかせてくれたんだ。いまさら薄情にはなれないし、物分かりが良くなれるわけでもない……君をこの家に縛りつける罪悪感はあるけれど、解放してあげることは出来ない。情勢は無関係とは言わないけれど、私の心情としてね」
「……」
「だから、畢竟、これは私の我儘になるのだけれど……」
プロソディアスは僅かに視線を泳がせた。不意に、両手が握り返される。改めて見上げると、少女は小さく首を傾げながら微笑んでいた。おもむろに肩の力が抜けたことに自嘲すると、意を決する。
「至らないところも嫌なところも見せるかもしれない。それでも、君を思う心は変えられないから、だから……これから先も君の隣に居させて欲しい」
クロエは手を離すと立ち上がり、窓辺へ歩みを進めた。窓を閉めて鍵をかけるとカーテンを閉めた。
「婚姻式ではもう少しかっこいい言葉が欲しいです」
薄暗くなった室内では少女の声に、拗ねたような伴奏が付けられる。表情がよく見えない分、相手の表情を想像しながら
「わたしの卒業まで残り2年です。それまでに……頑張れますか?」
「……今、だいぶ頑張ったんだけど」
「あら。このままではわたし、医学と契りを結びますわよ?」
室内の照明を点けながら「それは嫌だ」暗闇に溶けようとしていた少女を見つけて存在を確かめるように手を取った。
「アカキーア子爵に伝えて。どのような事情があろうと婚約者の変更は認めない、と」
「どうぞご自身で」
「父上を黙らせるのに精一杯なのに?」
「頑張れませんの?」
「感情論を説いても仕方ないじゃあないか」
プロソディアスは不満そうに言いながら窓枠に腰かけた。年上ながらも弟らしい言動が可愛らしくて思わず微笑むとクロエは金髪を指先に引っ掛けて婚約者の額に触れるだけのキスを落とした。
「感情ほど人を奮い立たせる強力な理由はあると思いますか?」
数秒ほど呆けていたプロソディアスは急に立ち上がると、婚約者を腕の中に閉じ込めた。
驚いたものの、彼がすっかり赤面しているだろうことは体温の高さと心拍の速さでわかった。クロエは何も言わず婚約者の背に手を回した。
――虚実以前に、人として何が最善か考えなさい。
幼い孫娘にソフロニア・アカキーアは告げた。正しさよりも善さを優先させるようにと言った名医が何を観てきたのか、成長した今も未だわからない。それでもクロエは婚約が締結されたその日を契機として良妻賢母よりもプロソディアス・ムジークの善い協奏者を志すことを決意した。
頻脈を聴きながら胸に頭を押しつける。自分の在るべき姿はまだ明確にできていないながらもこのさき何があろうと共に生きる覚悟が揺るが無い自信はあった。
もうすぐ満月が東の空に現れるだろうが、ふたりはそれを気にする余裕などなかった。




