紫の瞳に映るもの
カーテンを閉ざして仄暗い情報調査室職務室内。
室員たちは、学務省の伝手で借りてきたガラス容器を机上に並べて様子を見守っていた。
シャーレの中の液体に浸したふたつの小さな布切れのうち、片方だけ寒色の光を帯びたのを確認して
「片方だけ光らなかったということは……」
ティルクーリは前傾から体を起こして独り言ちた。
その隣で同じように体を起こしたストラトスは「しかし、これが事実だとしても……いえ、事実だとしたら、証拠はありませんよね」意見を求めるように、とくに年長者たちを見遣った。他方、ティルクーリは「壁掛けの織物が湿っていたことだけでは足りないってこと?」ストラトスに疑問を投げかけた。
「血液が付着したかどうか確かめられないなら、水を掛けたわけでは無いと言い切れない」
「ただ水が掛けられたのだとすれば、リンゴが使用されていた説明がつかないよ」
「例えば、弟が食べてから姿を消した可能性を否定できないだろ」
「それは、そう……だけど…………」
ティルクーリは納得しかねる様子だが語尾を小さくしたが、ツァフィリオが引き継いで
「リンゴの成分が検出できれば、誰かが食べた可能性は否定できないけれど、使用されたことは立証できるんじゃあないか?」
この意見に対してストラトスはカーテンを開けながら「うん、濯がれても残っているなら」と答えた。自分の意見の正しさを主張したいのではなく、事件を慎重に検証したいだけらしい口調だった。
「件の壁掛けはどこにある?」シリルが端的に問うと「来月末がネフォス夫妻への返却期限です。まだ実物は捜査資料として保管されているはずです」ツァフィリオが資料を片手に答えた。
この問答を受けて、ローガニスはメロディに視線を向けると
「壁掛け、再鑑定を依頼してみます? それとも、この少年――当時14歳なら今は17歳ですかね――彼を探すほうを優先しますか?」
「並行して進める。鑑定依頼のほうは頼めるか?」
「もちろんです、閣下。ただ、〝系譜の儀〟を優先されたら時間が掛かるでしょうね」
「是非も無い。この布地と証拠品のタペストリーでは大きさも異なるから薬剤の確保も苦労するだろう」
「来月末までには完了してもらえるようお願いしてみますね」
メロディは補佐官の言葉に一度だけ首肯すると
「今回も人探しだが、バルトロマイとは条件が異なる。人口が多い都市部から当時未成年だった被害者の弟が自力で捜索を掻い潜り姿を消すことは困難だ。周囲の者による何らかの協力があったと思われる」
と、総括するように告げた。その視線は、今回の〝φ〟の内容がツァフィリオの文字で纏められた掲示板のうち、一角……事件関係者一覧へ向けられていた。
「遺族の連絡先、デルフィニア・ラディの連絡先でしたら当時の捜査資料に添付されています。しかし、ニッツァ・マラコンとデニス・テッタラについては空欄です」ツァフィリオが机の上に広げた書類の紙面を指差しながら捕捉するように告げる。
「デニス・テッタラは凶器になった拳銃の管理不備でなんやかんやあったから裁判所から請求すればいけるよ。ニッツァ・マラコンは……えー、数年前の交通記録から地道にやんなきゃいけないのー?」
「第3王立学園学術院卒、第519期生で23歳」シリルは、ニッツァ・マラコンに関する記載情報から必要なものだけを読み上げた。
「お。すずらんの会に来てるなら、友人筋から追えるか。
そうなると……あまり警戒させないためにも憲兵局からの協力は今回は無し、だよな?」
ローガニスはシリルに期待の眼差しを向ける。シリルは渋い表情を浮かべつつ、
「普段の職務、15パーセントなら肩代わりする」
「40」
「……20」
「じゃあ38」
「わかった、25」
「乗った!」
ひとつ拍手すると、
「よし、3人で〝うらおもて〟して! ひとりになったほうがシリルと一緒にラディ女史への接触と鑑定依頼のお手伝い。ふたりのほうが、俺とニッツァ・マラコン、デニス・テッタラ両名への接触」
新任3人の〝うらおもて〟を見守りながら
「夫妻には接触しないのか?」
「あ、いえ。します。自分が担当します」
シリルの言葉に対して「ひとりで?」メロディがさらに疑問を重ねると、
「ええ。20歳前後なんて17歳とそれほど変わりませんから」
シリルは返答して、ふと目が合ったローガニスに対して「補佐官殿もお珍しく御多忙のご様子ですので」わざと恭しい言葉を用いると、
「象牙の塔の引き籠もりの皆さまは言葉が通じないことがあるんだよ」
なかなか分かれかたが決まらない3人を眺めたまま言い返した。
決まりやすい人数のはずだが未だ決まらないらしい彼らを余所に、メロディはそっとシリルの傍へ移動した。
「ねえ。今回の〝φ〟なのだけれど、わたくしだけ所在ないの」
「ゆっくりなさればよろしいかと思いますが……前回はご負担が大きかったと思いますし、今回の事件は大事にしないためにも少人数で動くほうがよろしいのは共有認識ですよね? 新緑祭で9の月が終わるまでお忙しくいらっしゃるのですから、たまには羽を伸ばされてはいかがでしょう?」
「……ずっと忙しいわけでは無いの。わたくしの〝制食期間〟は8の月の終わりだから、それまでの間に」
わざと咳払いでメロディの言葉を遮るとシリルは「論点を、どうぞ」はっきり告げた。メロディは悪びれる様子なく
「なぜ第3王立学園のほうを避けたのかしら。ローガニスの職務を肩代わりすると約束してまで」
「何を気になさってその疑問が生じたのかわかりかねますが、新任らに経験を積ませる法を優先させたところ、今回の〝φ〟ではうまく役割が分けられなかったのです。苦渋ですよ、あいつのサボりを助長させかねませんからね」シリルは自席から数着の上着を抱えてメロディに見せて「それから、部長記者殿の上着、いくつか借りてこれましたよ。お望みのものに近いのは――」そこまで言ったとき、
「――お? オマダ・シリルなのはティルクーリだねぇ」
ローガニスが新任らの決戦を見届け終えたらしい。
メロディは急いで「臙脂のものが良い」と告げた。
「承知しました。他のは返却しておきます」
「ええ、ありがとう」
いくつか必要なことを共有したローガニスによって「ってことで、本日の〝φ〟はこれで完了っ。解散!」散会の言葉を合図に、新任3人は揃ってカップを呷った。
「待って。先日、お願いしたことについてなのだけれど」
メロディは焦って呼び止めた。
意見を求めるように黙りこむと、
「草案は拝見しました。その、個人的には、年齢が近いほうが当事者意識を得やすいとは思います。しかし、少年少女、男性女性という呼びかたでは、なんだか……」
先陣を切ったティルクーリが言い淀むとストラトスが「堅苦しいような感じがあるような感覚はあるよな」補足するように続けた。
「そう、堅苦しい!……です。ので、何か、こう……」
「仮名を設定するのはいかがですか? 実在するわけではないと断りを入れておけば、臆断されにくいとは思いますから」
「承知した。ならば……被害者の少女、彼女の弟、彼らの両親。一家の隣に住んでいた若い男女、近くに住んでいた被害者の両親の知り合いの女性。7名の名前が必要だという認識なのだが」
「おひとりで7名分、考えられます?」ローガニスの問いに対して、メロディは咄嗟には肯定を示せなかった。すると、
「よし、みんなでちゃちゃっと決めよう! 男3女4、どうやって決めれば良いんだろうね?」
そのような調子だったが、まもなく完了した。
今度こそ解散してそれぞれが自席へ戻る直前、メロディはローガニスに「イーレクトゥロア男爵の件について、確認させてほしい」と告げた。
「確認も何も、然るべくして難航していますよ」
見上げて言葉の先を促すと、
「筆跡から手紙を書いた人間は複数だろうということが判明したことで、差出人が同一ではない可能性も生じているようです。他方、男爵は沈黙を守っていますね。27年前に姉君が姿を消して以来、すくすくと見事なまでの憲兵嫌いに育ったのではありませんかね」
「彼の姉が消えたというのも、失踪事件か?」
「当時は、誘拐のほうが可能性が高い、とだけ結論されたようですよ」
「……他には?」
「その前に、何を考えていらっしゃるんです?」
「わかっている、職務が優先だ」
「答えていただけますか? 閣下ー?」
深入りしては不利だと察したメロディは逃れるように執務室へ身体を滑り込ませて扉を閉めた。
一息ついて、ソファーに腰を下ろす。目の前には白い万年筆がある。
万年筆ならいくつか所有しており、誕生日にも貰ったことはある。いままでは使いやすさだけを気にしていたが、最近は意匠にも目を向けられるようになりつつあった。
象牙のような優しい白。滑らかな手触りと繊細に彫られた1羽の兎――ただ静かに、深く鮮やかな紫の瞳を見つめた。




