埃っぽい荒野に花が咲いたら:4 雨も降らない鳥も鳴かない世界
全てが本当に止まってしまった
これは生命のない朝
僕は何かを忘れているだろうか
ここが酷く荒れ果てた場所であることを感じながら
目の前に横たわる女の両腕を押さえつけて
息を荒げている
背徳感が気持ちいい時もある
しかし今込み上げてくるのは
拍車がかかりすぎて止めるという選択を完全に捨て去った「現在」
力強い車輪に背徳感は軽く踏み潰されて
僕はその残骸を横目に見ながら
あーやっちゃった
と自分でも驚くくらいの冷静さ
僕は今
どれくらい酷い顔をしてこの見知らぬ女を見ているのだろう
真っ直ぐ見つめ返してくる視線は怯えているようにも見えるが
本当は待っている
あーまたセックス
やりながら「くだらないなあ」と思ってしまう
女もろくに喘ぎ声を出さないものだから
「くだらないよなあ」
と僕が代わりに呟いておく
これはアルコールの代理として成り立つだろうか
いや僕らは今
命をもう少しこの地上に置いておくための緊急措置として
特段やりたいとも思っていないことをしている
少しだけでも気持ちいいと思えたら
とりあえずこの夜は乗り越えることができる
だからやることやったら早く出て行ってくれよ
どうして着替えにそんな時間がかかるのか
間違っても「その気になった」なんて言わないでくれよ
僕は一秒でも早くひとりになりたい
そして「くだらないよなあ」とぶつぶつ呟きたい
部屋を暗くすれば陽が昇るまでは眠れるだろう
それからどうしようか
復活して恐ろしく巨大になった背徳感に
なすすべもなく握りつぶされながら
あらゆる思考を停止させよう
◇
こんなところで歌が聴こえる
今日は風が強いなんて思っても
僕はここにはじめて来るのだから
やっぱり思考はめちゃくちゃなままだ
でも気持ちがいい
見知らぬ墓がこんなにずらっと並んでいると
少しだけ落ち着く
合わせて僕の住んでいる場所が小さく眼下に広がって
ちょっとだけ逃げ切れた気になってくる
でも誰かが歌っている
風に流される声がまだらに散らばって
ああ
もう世界がばりばりに千切られてしまったみたいだ
いったい
こんな荒野に何を落とそうとしているのだろう
君は長い髪を風になびかせて
僕の母校の制服を着ている
「どうしてこんなところで歌っているの?」
「ごめんなさい
私はお母さんとお父さんに歌っていたんです」
「その人たちは何をしているの?」
「私を見てくれていますが
ずいぶんと遠いところに来てしまいました」
「僕も
同じような感覚だ」
「あなたの大切な人が見つかることを祈っています」
僕は誰のものなのか分からないひとつの墓の前で
頭を打ち付けて死にたい衝動を涙に変えながら震えた
ここではいろんなものが常識から逸脱している
普通の呼吸の仕方では息ができない
喘ぐようにむせぶように息を吐き息を吸う
泣けば泣くほど気持ちが重くなっていき
僕は自分の大切な人たちがどのように死のうとしたのかを想像する
でもそれが誰のことなのかは分からず
そもそもそんなことがあったのかどうかも定かではない
ひとつ言えるのは
僕が求めてきた無限への衝動が死と近しいものだったということだ
死は真実だった
この地上には幻しかないというのは間違いで
確かなものとして死だけは存在していた
だがそれを真実だと認めようとするのなら
僕は同時に人間が死ぬということも受け入れなければならない
そしてそれが
この地上において唯一の永遠だということも
「君はどうやって死んでいくの?」
「私はきっと
お母さんもお父さんも完全に見失って
いつかそのことも忘れ去って
そのために死ぬこともできなくなるでしょう」
「それでは駄目だ
一緒に行こう」
「いったいどこへですか?
私は眠たくなってきました
先に行ってください
私はここで眠ろうと思います」
そうして彼女が眠りにつくと
僕は
同じように眠り続けているおびただしい数の人たちに囲まれて
今ここに立っていることを知った
◇
ああ
幻を信じて幻を追い続けてきたのに
けっきょく幻に裏切られて残ったのは自分だけ
どうして「自分」っていうのは消せないのだろう
それが無理ならせめて
人生を成功させているイケメンのなかに入り込んで
何もせずにこっそり外を見ていたい
たまにそのイケメンが人に言えないようなことをする時に
「あーやっぱりするよねそういうこと」
って思って安心したい
だけどそいつが幸せそうな顔をして誰かと話していたら
僕はきっと幻滅して寂しくなってしまうだろう
あーこいつも今自分が幸せだって思ってる
そういうの勘違いだから
どうして気付かないんだろう
よくもまあそんな幸せ絶頂な表情でセックスできるよね
そんなにその人が好きですか
それって違うんじゃないの?
空しくなったり悲しくなったりしないの?
それから自分の誕生日を祝ってもらって
二人でおいしいものを食べに行ったりして
もう僕は本当にやるせなくて泣き出してしまいたい
お前は本当に誰かを好きになったことがないからだとか
誰かから本当に愛されたことがないからだとか
そんなもっともらしいことを言ってはぐらかそうとされるんだよ
僕はそれが違うってことを知ってる
本当に好きになったことがあるから
本当に愛されたことがあるから
僕はこの地上生活が絶望的な何かでできていると知っている
◇
だから
それは
忘れてしまったこと
本当は持っていたってところまで分かっているのに
だんだん忘れてしまって今に至る
そうだ
香奈理子
君のこと
あんなに待ってくれていたのに
けっきょく僕はそこに行くことができなかった
それどころか決定的に離れてしまった
ああでも
それでも香奈理子
君はまだそんな顔をして笑ってくれるんだ
もうぜんぜん聴こえない君の声
今ではまったく読み取れない君の表情の意味
でもね
その笑顔が僕の全てを肯定していることだけは分かるんだ
だから
だから
きっと君は最後にこう言ってくれたはず
「またね」
僕はそれを覚えてすらいないけれど
その言葉が幻じゃないってことだけは
信じ続けてもいいって思えるんだ
◇
無くしたことに気が付いて
それをはっきり意識できたら
僕は「現実に戻った」と言えるだろうか
僕の意識はそれでも幻に囲まれている
だって世界全体が幻なんだから
そこで生きていくってことは幻を感覚器官で捉えるってことでしょ
幻だって意識できているかどうかっていうただそれだけ
そんな状態で今日も仕事だよ
何があろうと仕事が止まることはないから
僕は本当にぽっかりと空いてしまった自分を支えながら
ようよう仕事場まで行く
思いの外早く復帰した睡美名さんはやっぱり僕と同じデスクで仕事
まだまだ多くの傷を抱えながらも
それをひとつひとつゆっくりとでも治していこうと努力している
前とは全く違う笑顔で僕を見ながら
「どうしたの?
最近元気ないね」
なんて訊いてくれる
その言葉には昔はぜんぜんなかったひとつの重みがある
彼女は重力を意識するようになったから
もうこっち側の人間
僕と自分を同じ括りにして
同じ仕事場にいる他の人たちの
ある意味無邪気な目を見ながら
同時に彼彼女らに突き刺さっている酷い凶器を見ながら
ちょっと気の毒そうな顔をして
「あの人たちには分からないよね」
なんて言う
「生きるってこんなに辛いんだって知らなかった」
と言う睡美名さんはそれでも重みのある笑顔
だけれど
そうじゃないんだ
睡美名さん
僕もそう思っていたけど
僕らに付いている本当の傷に気が付くとか
もうそんな話じゃなくて
僕は
本当に無くしてしまったんだよ
自分のなかの
これまで一番大切にしていたものを
だから今はね
自分がこれまで自分だと思っていたものを
いっさいがっさい全部否定していきたいんだ
◇
木を前にした時見えるのは
それが発している無音の何か
そもそも音ではないから例えようもないのだけれど
はっきりとした映像というわけでもない
どちらかというと映像という感覚だけれど
分類するとそれはやっぱり音
あえて言うならば
鳥の声が見えているような
そんな感覚
もちろんそこに鳥がいるわけではないけど
僕は自分のなかに生まれるその感覚を
バードコールと呼んでいる
今になって分かるのは
僕のその特殊な感覚は
香奈理子と共にやってきていたということ
だから彼女がいなくなった今となっては
もうバードコールは聴こえない
聞こえてくるのは
人を死に誘う力を持った歌くらい
それって特別だと思われてるかもしれないけれど
現代においては至る所で聞くことができる
テレビを付けたり街に出たりすればすぐにデスソングの嵐
ユー●ューブなんて殺人サイトもネット上にはある始末
以前までは
どうしてこの人たちはこんな幻ばかり歌っているのだろう
なんて冷めたこと考えていたけど
実のところそこに流れているのは死という真実
それからたまに
ごくたまに
命という真実や感情という真実が流れる時もある
でもやっぱり
自分という真実だけは見つからない
僕はこれまでバードコールのなかに自分を見出していたのだと気付く
あれ
でもそれって本当に僕のことだろうか
香奈理子がいなくなって分からなくなったのに
僕は僕という意識を持ちながら生きている
「自分が分からない」ってよく言うけれど
僕にはそれがよく分からない
えーと
もうよく分からないから
とりあえず今の全てを捨てることにしたけれど
よかったら誰か見つけて下さい
◇
あ
カチ
カチカチ
カチカチカチ
って音が聴こえる
そうだそうだった
全ては止まっていたんだった
だけど全てはまた急に動きだすんだね
どんな拍子にそれが起こるかなんて誰にも分からないのかもしれない
だって僕は今まで
止まっていることすら忘れてしまっていたんだから
あー
あんなにくだらないって思っていたセックスなのに
なんだか今日はすごくしたい
声浴ノさん
どうして僕を見つけてくれたの?
とりあえずどこかのホテルへって思ったけれど
その日の声浴ノさんは僕の知っている尻軽ビッチじゃなくて
なんだかこう
とても高貴なものに見えたから
再会記念ということで
ちょっと高級そうなフランス料理を食べに行った
その後は僕の部屋に来てもらって
まだ少しだけ残っている香奈理子の跡のようなものを見てもらった
幻滅されるかな
と思ったけれど声浴ノさんはそんな様子もなく
ゆっくりと
それからしっかりと
僕を抱きしめるのだった
そうして
全てが動き始めた
「声浴ノさん
今まで何をしていたの?」
「ずっと探していたのよ」
「僕のことを?」
「うん
たぶん
あなたのことを」
高校生の時の彼氏はどうなったのだろうと思ったけれど
それは声浴ノさんにとっては違うのだと感じた
僕はバードコールすら聴こえなくて
幻に囲まれてただ死だけが本物だなんて思っている廃人なのに
そんな僕でも
今の声浴ノさんは間違っていないと思えた
たぶん僕は今
自分のなかの何かをひとつ捨てられた




