中庭イベント発生中
――教室。
朝の光が、白い石造りの窓枠を静かに満たしていた。
外では風が木々を揺らしているが、その音すら遠く感じるほど、教室の中は整っていた。
規則正しく並んだ机。
一定のテンポで進む教師の声。
そして、誰もが姿勢を崩さない静かな空気。
「王国史における第三次領土紛争は、隣国との交易路を巡る利権衝突から始まり……」
(絶対テストに出るやつだこれ)
俺は早々に理解を放棄して、視線を横へ逃がした。
そこにいるのはアーデルハイト。
背筋は一切の乱れなく伸び、指先の動きすら洗練されている。
ノートには、寸分の狂いもない文字が整然と並んでいた。
(この人、授業受けるために設計されてないか?)
「失礼ね」
(今のは心の声だろ)
「顔に出ているわ」
(見えないのにどうやってやってんだよ)
そんなやり取りの最中、教室の空気がわずかに変わった。
後方の席。
そこだけ、ほんの少しだけ“質の違う静けさ”がある。
――編入生、ミレイア・ヴァルコット。
窓から差し込む光が、彼女の髪を淡く照らしている。
一見すれば、控えめで真面目な生徒に見えた。
だが。
(机の下、絶対やってる)
視線を落とすと、黒い板のようなものが一瞬だけ光った。
(やっぱりそれスマホだろ)
画面には簡潔な文字列。
【中庭イベント:昼休み】
さらに指が滑る。
【本を落とす→王子が拾う→会話発生】
(完全に台本じゃねぇか)
(攻略本持ち込み禁止だろこの世界)
ミレイアは小さく頷いた。
「よし、昼休みね」
(遠足の予定みたいに言うな)
――昼休み。
中庭。
石畳の中央には噴水があり、水面が光を砕いて揺れている。
生徒たちの声は賑やかなのに、その一角だけが妙に“舞台”のように切り取られていた。
王子レオンハルトはすでにそこにいた。
自然な笑みで周囲と会話し、視線の動きすら計算されているように見える。
(配置が完璧すぎる)
そして、ミレイア・ヴァルコットが現れる。
迷いのない足取り。
まるで“そこに立つことが決まっていた人物”のように。
そして――
ぽとっ。
本が落ちた。
乾いた音が石畳に響く。
「すみません……!」
ミレイアはすぐにしゃがみ、申し訳なさそうに顔を上げる。
その仕草は、完璧に“偶然の演出”だった。
王子が自然に本を拾う。
「大丈夫かい?」
「申し訳ありません……」
流れるような会話。
(はい始まった)
(これが“定型イベント”ってやつか)
その瞬間だった。
「……邪魔ね」
低い声が割り込む。
アーデルハイトだった。
彼女は落ちていた紙を拾い上げ、淡々と言う。
「落としたなら、拾いなさい」
一瞬、空気が止まる。
ミレイアの動きも止まった。
(今の、台本にない)
周囲がざわつく。
「今の、少しきつくない?」
「いや、間違ってはいないけど……」
空気が揺れる。
ミレイアは一歩下がり、声を震わせた。
「……こわい、です……」
(来たー被害者ムーブ第一形態)
周囲の視線が変わる。
だがアーデルハイトは動かない。
むしろ一歩前に出る。
ヒールが石畳を叩く音だけが響く。
コツ。
「怖い?」
静かに繰り返す。
「ただ落としたものを拾うように言っただけよ。それのどこが怖いの?」
距離が詰まる。逃げ道はない。
ミレイアの表情が一瞬だけ固まる。
そして、切り替えるように声を変えた。
「……わたし、不器用で……」
涙の質が変わる。
(第二形態きた!)
「すぐ落としてしまって……ご迷惑を……」
周囲の空気が再び揺れる。
だがアーデルハイトは即答した。
「なら、直せばいいだけでしょう」
静かで、揺るがない声。
「できない理由にはならないわ」
沈黙。
ミレイアは小さく息を吐き、屈み込んだ。
落ちた紙を一枚ずつ拾っていく。
動きは速く、正確で、無駄がない。
「……ありがとうございます」
アーデルハイトは興味を失ったように視線を外す。
「次からは落とさないことね」
それだけだった。
――あっさりと、終わった。
(え?)
(イベント壊れた?)
王子は何も動かない。
ただ静かに見ているだけだった。
ミレイアは背を向ける。
その表情は笑っている。
しかし目だけは、笑っていなかった。
そして去り際。
一瞬だけこちらを見る。
ユウの気配の“ほう”を。
ニコッ。
(なんか怖いんだけど)
やがて中庭は何事もなかったように喧騒を取り戻す。
水の音、笑い声、風の音。
世界は元通りに動き出す。
ただ一つだけ違うのは――
“予定された流れが、ほんの少しだけズレた”という事実だった。
アーデルハイトは静かに呟く。
「平和だったわね」
(どこがだよ)
ユウは確信する。
この世界は、確かに“決められた物語”のはずだ。
だが今日、その前提に小さなひびが入った。
(壊したのは……俺じゃない)
そう思いながらも、嫌な予感だけは消えなかった。
(ほんとに……俺じゃないよな?)




