4章 放浪と夢 1
遠くに、ぼんやり灯りが見える。
結局、本流まで流された吾作は、震えながら土手の上を歩いていた。
吾作にとって雑草や石ですら視界を妨げる障害物でしかない。そのため、ねぐらを探すには道の中央を進むしかなかった。昼間であれば人の目も気にしなくてはならないが、今は人っ子一人いない。一面、暗い闇が広がっている。
「ホームレスの家のようにも見えるが、そうじゃない気もする。けれど何か喰わないと行き倒れだ」
水と一緒に胃の中のものを全部吐きだした吾作は、かなりの空腹だった。川魚を捕まえて食べればいいが、短剣を失くした今、それも叶わない。悪いことだとは知っていても、家の主が寝静まるのを見計らい、食料を拝借するしか選択肢がなかった。
板ぎれのまわりをブルーシートで囲んだだけの、粗末な小屋だった。風よけのために四方向へロープを張っているが、それも脆弱で、強風が吹けば板ごと飛んでしまうだろう。
鼻を嗅ぐ。味噌の香ばしい匂いがする。ぐつぐつ何かを煮込む音もする。吾作は、そうっとシートの継ぎ目から中を覗き込んだ。
蝋燭の灯りだけでうす暗かったが、それでも老人が、即席焜炉で何やら美味そうなものを温めているのが確認できた。それを見て、食べたい欲求を抑えきれずに腹が鳴る。ごくりと生唾も飲み込んだ。
その些細なアクションに、老人の背中がぴくりと反応する。
「誰だ!」
答えられるはずもない。すると吾作が返事をしないとみるや、反転するなり歩を進ませてきた。かなりの齢だが動きは機敏だ。
蝋燭に照らされた顔は汚れですすけ、いかにもホームレス然といった感じで目もとも空虚だが、眼光凄ませ迫ってくる。
(何だ、こいつ。ただのホームレスじゃないぞ)
吾作は反射的に後ろへさがった。
「待ちなさい」
老人がシート越しに呼びとめる。口調も柔に変わる。「あなたは人間でありますまい」
(なぜわかる……)
なら、正体を明かして食事にありつくか、それとも逃げるか。
吾作は逡巡したまま立ちどまる。シートがめくられて、老人が顔を覗かせた。
「おお、やはりそうでしたか」
老人が口元に笑みを浮かばせる。「心配は無用です。さっ、お入りなさい」と吾作を引き入れた。
危険がなさそうだと判断した吾作は、警戒しつつも老人に続いて室内へ入り込む。
味噌の匂いとは別に饐えた臭いもする。おそらくシートの継ぎ目から雨水が入り込み、板にカビが繁殖しているのだろう。もしくは薄汚れた服の臭いだ。
「よかったら、食事でもいかがですかな」
老人が鍋のふたを開ける。湯気とともに味噌を煮込んだ匂いが立ち上がってきた。その時点で警戒心は頭から消え去った。
吾作は勧められるままに、小皿に盛られた煮込みを食べ、スープも飲み干した。
「豚の臓物でしたが、お口に合いましたかな」
「ああ、おかげで身体が温まった。腹も満たされた。感謝のしようもない」
「それは何よりです。じつは、この近くに豚の屠殺場があって、そこの社長からたまに頂くのです」
と小皿を下げる手には、老人特有のしみが浮き出ていた。
「ところで」
吾作は抱いていた疑問を投げかけた。「動きも機敏で健康そうなのに、なぜこんな生活を送っているんだ。それと、あのとき、俺を見る前から人間でありますまいと言ったのはどうしてなんだ」
「知りたいですか」
柔和な目から、刺すような視線を当ててくる。吾作は言った。
「聞かせてくれないか」
「それを話す前に、まずこれを見てください」
老人は上着を脱ぎ、シャツのボタンを外した。そして反対の手で、一気にシャツを肘の上までまくり上げた。腕に入れ墨が彫られている。
「御覧の通り、私はヤクザでした。それも人斬り常次と呼ばれるほどの、かなり質の悪いヤクザだったのです。当然のように人も殺しましたよ。相手は、もちろん堅気ではありませんがね」
「年老いたヤクザが、みなホームレスになるわけじゃない。俺が聞きたいのは、何があんたをこのような生活に追い込んだかだ」
「ごもっともです」
と前置きしてから、常次は、ゆっくり事情を話しだした。
「先ほど人を殺したと申しましたが、四十八年前、二十七歳のときに私は三人殺めました。縄張りに端を発した、いわゆる暴力団同士の抗争です。殺害後一年ほど各地を逃げまわりましたが、結局自首しました。逃げ疲れたことも要因ですが、最大の理由はある人に懇々と説き伏せられたからです」
常次が、意味深な目を吾作に向けてくる。
「奇特な人もいるもんだな」
「ええ、見た目も考え方も、変わった人でした。なぜならその人は、二十年という長い期間、私と一緒に刑務所の中でも過ごしたからです」
話が読めなかった。
「ちょっと待ってくれよ。するとその人は奇特な人ではなく、あんたと同じ組織にいて、同じように人を殺した仲間ということになる」
「いえ、仲間ではありませんでしたし、人も殺していないのです」
ますます話が読めなくなった。どうにもつながらない。
「悪いが、そこの酒を少し飲ませてくれないか。その話を理解するには酒の助けが必要だ」
「一緒に飲みましょう。しばらく断っていましたが、私も飲まなくては話せそうにありませんから」
常次が、床に置いてあった日本酒をコップとお猪口に注ぎ、お猪口を吾作の前に差しだした。
「さ、どうぞお飲みください」
吾作は床に膝をつき、舐めるように飲んだ。




