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降り立ったのは池のほとりの遊歩道だった。ぽつんぽつんと木製のベンチが据えられ、池との境には木をかたどった石の柵が設置されている。柵の下には水面に沿って薬草には適さないツル科やイネ科の草花が密生していた。
吾作は支柱をよじ登り、ベンチの上に飛び乗った。
対岸に木々に囲まれる奇妙な建物が見えた。屋根は中央から四方向に並べられた黒瓦で、壁は白い漆喰。その壁を覆うように赤い柱が伸びていた。生活感がまったく感じられないので、たぶん住居ではなく御堂だろう。小人の吾作には広すぎるが人の出入りもなさそうだし、侵入さえできれば絶好の隠れ家になるはずだ。
ベンチから降りた。赤みがかっていた空が暗さを増し、急激に夕もやにつつまれていく。
家の中とは違い、ここらは昼と夜では様相が一変する。たとえ水辺に生息する蛙であっても、容易ではない相手。もし襲いかかられたら倒せたとしてもかなりの痛手を覚悟しなくてはならない。それが猫であれば、その先に見えるのは死だ。なら闇に覆われる前にねぐらを探そう。吾作は対岸の御堂へ向かった。
御堂がぼんやりかすみだした。警戒しながら歩いているせいか、急げば急ぐほどに辿り着かない。右へ大きく迂回してようやく橋へ差しかかると、その手前の草むらに、絶対に遭遇したくない敵の猫がいた。
「―――まずい」
吾作は身体を硬直させて立ちどまる。
しかし猫は目を閉じ、ぴくりとも動かない。恐々近づくと、何者かに腹を喰いちぎられ死んでいた。周りにおびただしい肉片が散らばり、生温かそうな血も飛びちっている。
「何てことだ!」
何の目的で誰の仕業なのか考えもつかなかったが、殺戮は今しがたと見て間違いない。それにしても、最大の敵と位置づけていた猫をこうもあっさりしとめたのは何者なのか。人間であれば歪んだ好奇心で殺しても、腹を喰いちぎったりはしないはずだ。
吾作は最大限の注意を払って通りすぎようとした。が、徒ならぬ殺気を感じて思いとどまる。前方の木陰に、こちらを凝視する目を察知したのだ。うす闇に光る、かなり凶暴な目。灰色がかった体毛と、虎を思わせるしま模様の尻尾の獣だ。
たぶんアライグマ、吾作の全身に冷たい汗が走った。
獣はいきなり尻尾を立てて威嚇してくる。今にも飛び掛からんばかりに牙を剥きだしにしてきた。だがそれも、たぶん食事を邪魔されないための威嚇。吾作が睨み返しつつ後ずさりすると、一瞬追いかける素振りを見せたものの、再び肉を食べはじめた。それを見て、一目散に逃げだした。
闇雲に草むらを通り抜けたせいで、方角を迷い、あろうことか女子学生集団のいる道路に出てしまった。そんな状況の中、吾作は脱力感から不用意に小石につまずき、そのうちの一人に見つかった。彼女は、つかの間きょとんとさせた後、隣の友人の肩をおずおず掴んだ。
「何か、変なのがいる」
友人は吾作をまじまじと見つめ「嘘、小人よ!」と奇声を上げた。たちまち数人に取り囲まれた。
一難去ってまた一難。吾作はまずい展開になったと思いながら、すっと横に移動し、強引に囲いをかいくぐる。その際、勢い余って濡れた路面に足を滑らせた。
そこは池の水を放流する滝つぼのような水源。川へ送り込まれる水の飛沫がダイナミックに飛び散っている場所でもある。吾作は転落し、あっという間に激流に呑み込まれた。
激しく川底へ叩きつけられ、身体をぐるぐる回転させられると、どちらが上か下か、右なのか左なのかもわからなくなった。まして四方がすべて闇だ。どの方向に行けば水面に出られるのか見当もつかなかった。
初冬の冷たい水温に身体の熱が奪われていく。もがき疲れると、時間とともに生への意識が薄らいだ。抗うこともできずにしたたか泥臭い水を飲んだ。限界を超えて、いよいよ呼吸が苦しくなる。とうとう潰えるのかと迫りくる死を観念した。一方で、こんな所でむざむざ死んでたまるかと奥底の心が叫ぶ。
ふっと我に返った吾作は、目を見ひらき泡を注視した。その泡の浮き上がる方向目がけて必死に泳いだ。
何とか川面に出ることができた。吾作は咳き込みながら大きく息を吸い込んだ。だが、ほっとする間はなかった。穏やかな下流と違って、水源近くの激流にはさまざまな危険が潜んでいるのだ。流れに身をまかせてしまえば、たちまち障害物に激突して一巻の終わりになる。
案の定、凄まじい勢いで流されていく。寒さに震えるだけで、まったく制御がきかない。
ただ思いのほか水量が多く、また河川が整備されていたことによって、水が危険物のクッションになり衝撃が緩和された。大自然の川と違って、ごつごつした岩がなかったことも幸いした。それでも流れの速さは変わらない。吾作はときに横転されながら下流へ流された。
しばらくすると流れが緩やかになり水量も少なくなった。吾作は、体力、気力ともに消耗していた。水温による体温の低下は免れないうえ、次から次に襲いかかってきたアクシデントに精神も崩壊寸前だった。
前方に土砂が堆積してできた中洲が見えた。吾作は水を掻き分け、やっとの思いで上陸する。途端、飲んだ水を大量に吐いた。これでもかというぐらい吐いた。
少し落ち着くと、へなへなその場にしゃがみ込みながらも布袋の中身を点検した。ナス科の葉と火薬の燐は瓶に入れているからいいとしても、非常食用の濡れたクッキーはすてた。食べて腹を壊してしまえば元も子もない。次に、腰に装備していた短剣をまさぐる。ケースは残っているものの、本体はなくなっていた。これで敵と遭遇したら逃げるしか道はなくなった。
月の光が、揺れる川面に反射する。吾作は辺りをじっくり眺め、どこへ行けばいいのか考えた。
この川は、大きな川へつながる支流で間違いない。なら流れにまかせて行ける所まで行くか、それともここで陸に上がり安全なねぐらを見つけるか、迷った。
でもそれが何になるのだろうとも思う。どちらを選択しても食べ物とねぐらを探すだけで、その日暮らしのホームレスと何ら変わりがないような気もするからだ。
小人であれ人間であれ、目的がなければ生ける屍と同じ。吾作は、自身のちっぽけな見栄のためにナオミを見限った愚かさを悔やんだ。




