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キズナ  作者: 鮎川りょう
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3

 島津一平が最終電車でN駅へ着いたとき、すでに雨は本降りになっていた。間断なく降る激しい雨は、外灯に照らされ、輪郭のはっきりした雨粒を浮き上がらせている。所々へこんだ舗道も雨水が溢れ、雨靴なしで通れないほどの大きな水溜りができていた。

  

「ふざけんじゃねえよ」

 一平はわけもなく叫ぶと、ズボンの裾をまくって駅を飛びだした。

 無性に腹が立っていた。なぜ盲人の女が、強欲親父から五百万円もの金をせしめることができたのだ。河童人間みたいな男がいたからなのか。どうにも腹の虫が収まらなかった。あのとき警察官がいたから手を出さなかったが、もしいなけりゃ確実に河童を刺し殺していた。

  

「今に見てろ」

 降り続く雨の中を湯気が出るほど顔を上気させ、一平は走った。そうして荒川の支流の橋を渡り、古びた木造アパートへ辿り着いた頃には全身ずぶ濡れだった。

 部屋に向かいながら手で頭の雨を払い、その濡れた手でポケットをまさぐり鍵を取りだした。薄暗い常夜灯の光を頼りに鍵穴へ射し込むと――まるで手応えがなかった。

  

「あの野郎、また来やがったのか」

 乱暴に扉を開けた。外灯に照らされる暗い部屋に、男の影が窓辺に映っていた。ぼうっと雨を見つめている。

「おい、窓をしめろ。ぼけてんじゃねえぞ」

 電気をつけ、ずかずか歩いて、男の胸ぐらをつかむと窓を閉めた。

  

「臭えな。風呂、入ってねえだろう」

「今さら入っても変わらんよ。それよりも金を少し回してほしいんだ」

 と手を伸ばす腕に、彫られた本格的な入れ墨が見え隠れしている。

「この前五万円渡したはずだ。ホームレスなら、それだけで半年は凌げんだろ」

「飲んで、消えてしまったよ」

「このアル中め、てめえにやる金なんかねえ。とっととくたばりやがれ」

  

 吐きすてると一平は浴室へ向かった。言葉とは裏腹に、タオルを濡らして靴下すら履かない男の足を拭いた。かさかさしていた。汚れは落ちても、乾くと、すぐにまた白っぽい角質が浮き上がる。潤いがまったくなく、血の気もなかった。初めて会ったときの漲りは微塵も感じられない。

  

「てめえ、何で生きてんだ」

「わからんよ。考えたこともない」

「いくつになった」

「忘れた。数えても意味のないことだ」

 ふん、と一平は鼻でせせら笑い、タオルを浴室へ放り投げた。箪笥の引きだしを開けて靴下を男に手渡した。男は無言で受け取り、手に持ったまま何か思い巡らせているのか履こうともしなかった。

  

 男は常次。一平が胎内にいる頃から母親と暮らしていた。そのとき母親は二十歳、島津に捨てられ路頭に迷っていたらしい。捨てた島津も裕福な家庭で育った二十一歳。全盲で身寄りのなかった母親とは違い、医大の研修生として着々と医師の道へ突き進んでいた。

 だが島津には、盲人を蹂躙して楽しむという変わった性癖があった。いわゆるSなのだが病的なS。若い島津は全盲だった母親を奴隷のように弄び、性欲のはけ口として利用し続けた。

 やがて妊娠したとわかると無理やり中絶させようとした。母親は勘づいて逃げた。そこで常次と出会ったのだ。

  

 常次は、かつて人斬り常と呼ばれたほどのヤクザだったが、その頃は長い刑期を終えてすっかり丸くなっていたらしい。そのため常次は、何の見返りも求めずに母親を世話した。母親と一平の面倒を見続けたのだ。だから、物心ついた頃、一平は常次を父親だと思っていた。

「いくら欲しいんだ」

 一平は、室内着に着替えると常次に訊いた。

「十万円」

「何、十万円だと! ふざけるな、てめえ何か隠しごとしてんだろ。正直に言ってみろ。てめえが酒を控えてるぐらい、お見通しなんだよ」

 常次が目を瞑って黙り込む。ただそれは見破られたことを恥じているのではなく、また開き直っているわけでもなく、ささやかな祈りのような気がした。

  

 一平は知っていた。前科と刺青のため常次が定職につけなかったことを。道路工事の仕事ですら、半袖を着なくてはならない夏場は解雇された。だからといって自棄にならず、勤務先を変えては働いた。だがしだいに働く場所がなくなった。所属は下請けであっても、受注先は人一倍世間の目を気にする大手のゼネコンだ。元ヤクザの居場所なんかありやしない。当然のことかもしれなかった。

  

 そんな常次が、どうやって全盲の母親と一平を養ってきたのか。それを中学生になるまで一平は知らなかった。だが母親が急逝して、その秘密を知った。

 島津だった。常次は懲りない島津を強請っていたのだ。しかも、ときには自ら障害者を提供してまで脅しの材料にしていた。母親が二十六歳の若さで急逝したのは、たぶんその事実を知ったことによる自殺だ。受けた恩が同じ障害を持つ仲間の涙によってもたらされたものなら、同罪だと悲観したに違いない。

「どうせ人のためだとかいって、いい恰好するんだろ。持ってけよ。その代わり、二度と来るんじゃねえぞ。てめえは島津と同じ穴の狢なんだからな」

 一平は、畳の上に十万円を投げすてた。しばらくの沈黙の後、常次は「すまん」と金を拾い集めた。無造作にポケットへ押し込み、ゆっくり立ち上がった。

 一平は、その後ろ姿に声をかけた。

「傘を持ってけ」

  

「畜生め。なんで俺には被害者と加害者の血が流れているんだ。なんで、母親を死に追いやった男に育てられたんだ」

 その歪んだ叫びは、自然とナオミに向けられていた。

「全盲の女が幸せをつかむなんて、絶対に許せねえ。邪魔してやる。そうじゃないと母親が浮かばれない」

  


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