あの日、あの場所
クレムがナスタチウム邸を去った後の玄関は、静まり返っていた。
アイリスが居室に戻ろうと踵を返すと、コロンバインに力強く腕を掴まれた。
「アイリス?
夜会での話を聞かせてもらいたい事があってな。
悪いが私の部屋へ来てもらえるか?」
饒舌に、そして見た事のない笑顔をみせるコロンバイン。
握られた腕は、徐々に力が強くなる。
アイリスはそれに比例し、とてつもない恐怖を感じる。
「あなた!!!
そんなにアイリスの手を握ったら折れてしまうわ!
やめて、やめてちょうだい!」
なんとかコロンバインからアイリスを引き剥がそうとするが、クレマチスの力では太刀打ちができない。
そして突如大きく響き渡る、乾いた音。
音のした方向を振り向くとクレマチスは頬を叩かれたようで、床に倒れ込んでいた。
使用人たちは口々に「奥様!」と倒れ込むクレマチスを支えようとしている。
「お母様!!!! お母様ーー!!!!!!」
アイリスも気付いた時には叫んでいた。
(腹の底から激しい怒りが湧いてくる。
喉元を通って火が出てしまいそうだわ。)
「アイリス!来なさい!こっちへ来るんだ!」
コロンバインに掴まれた腕を引っ張られ、アイリスは執務室の方向へ引き摺られていく。
「嫌です!お母様が!お母様が!」
クレマチスの方へ視線を向けて叫ぶと、更にぐいと腕を引っ張られ体勢が崩された刹那。
再び乾いた音が鳴り響く。
アイリスも頬を、これでもかと言う力でコロンバインが叩いたのだ。
(許さない。許さない。許さない!!!)
(口の中から血の味がする。
頬を叩かれた衝撃で真っ直ぐ歩くこともできない。)
(悔しい。 悔しい。 悔しい。 悔しい。 悔しいよ。
私に力がないばかりに、お母様が犠牲になった。)
(力が欲しい。皆が犠牲になるのは嫌だ!)
アイリスの抵抗虚しく執務室へ引き摺られていく。
クレマチスは起き上がる様子も見られない。
大粒の涙が頬を伝っていく。
執務室の扉を乱暴に開けたコロンバインは、投げ捨てるようにアイリスを床に叩きつけた。
アイリスは床に倒れ込み、父であるコロンバインを睨みつける。するとコロンバインは倒れ込むアイリスの足を蹴り、アイリスの髪を乱暴に掴み顔を向かされる。
「アイリス。
私の事を睨むなど、お門違いもいいところだ。
腑が煮え繰り返る程の事をしおって。
操り人形の分際で!!!!!!!!!!!
私に楯突くなど!!!!!!!!!
百万年かかっても有り得ぬわ!!!!!!」
再び大きく揺れる視界。
どうやらまた頬を叩かれたらしい。
頬の痛みと共に床に再び倒れ込む事になり、体の痛みに顔を顰める。
「エリンジウム殿下との不仲が公になったのは、
全て貴様のせいだ。どうしてくれる?
ルドベキアの皇弟などに現を抜かしおって!!!!
お前の存在理由はなんだ?
王族に嫁ぐ事以外になんの取り柄があるというのだ。
この愚女がぁ!!!!!!!!!!」
倒れ込んでいるアイリスの体が吹き飛ぶほどに蹴り飛ばされ、壁や家具にぶつかる。
衝撃で意識が飛びそうになるが、腕に爪を立て必死に耐えるアイリス。
「さて、弁解をしてみせろ。
今後の後始末をどう考えているんだ?
この心優しい父に教えてみなさい?」
ゆっくりとアイリスに近づき、アイリスのドレスの胸倉を掴み上半身を引き起こされる。
アイリスはコロンバインを睨みつけ、口内で滞留している血をペッとコロンバインの顔に吐きつけた。
「お父様の、・・・言う通りに。なんでも、ゴホッゴホッ。なると、・・・思わないでください。」
この行為と発言が逆鱗に触れたらしく、最後に見たのはコロンバインが絶叫しながら振りかぶる拳だった。
意識が戻ると、そこはいつもの寝室ではなくまさしく独房そのものだった。
(ここは、・・・地下牢?私、前世に戻ったの?)
痛みのせいでぴくりとも身体を動かせず、床に倒れ込むことしかできない。
冷ややかな石でできた床は、アイリスの体温を奪う。
陽の光も見えない、蝋燭一本のみが照らす部屋。
視線のみを移すと先日、クレムに提供してもらった紺色の破けたドレスが見えた。
(ここで、何日が経ったんだろう。
あの日から、一体どれだけ眠っていたの?
お母様は?お祖父様は?皆は無事なの?)
そして脳裏に映る人物は1人の男性。
(クレム・ルドベキア殿下。
きっと血眼で私を探してくださっているはずだわ。)
(でも、ここがナスタチウム邸とは限らない。
なにか探らないといけないのに、身体が、動かない。)
(なにか、なにかないか。なにか。)
と思案しているとギィと扉が開く音がした。
音の方へと視線を向けるとこちらの鉄格子は近付いてくる音がした。足音は二つ。
コツ コツ コツ コツ コツ コツ
足音が止まる。
誰なのか確かめるために視線を上げる。
視線が交差すると、ねっとりとした甘い声で
「アイリス様ぁ。やっとお目覚めですの?」
と聞き覚えのある声。
「許せカルミア。
コイツは愚か者で、愚図で、人一倍馬鹿な奴だ。
俺たちの常識ではかる事なんてやめだ。
時間の無駄だからな。」
もう一つの聞き覚えのある声の主は、実兄であるテッセンだった。
あろうことか2人は身体を密着させ合い、カルミアの腰にテッセンは手を回しているではないか。
アイリスの驚いた表情に気づいたのか、カルミアは満足そうに言う。
「あらぁ。エリンジウム殿下には内緒よ?
な・い・しょ♡
私とテッセン様は愛し合っているの。
前から心を通わせているんだから!」
「カルミア、なんだ?誘っているのか?」
テッセンがカルミアの首元に音を立て、口付けているのが嫌でも鮮明に見えてしまった。
「いやん・・・テッセン様。
こんなに薄汚いところでは嫌ですわ。」
「そうだな。カルミア。
助けなんてお前には来ない。
そこで絶望し、くたばればいいさ。
国が変わるんだ。
お前やルドベキアに邪魔なんかさせるものか。
ここは、俺たちの国にするのだから。」
そう言い残してニヤリとテッセンが笑うと、出入り口の方へと2人歩いてく。
振り向きざまにカルミアが言う。
「では、可哀想なアイリス様。ご機嫌よう♪」
大きな扉が音を立てて閉まっていく。
緊張の糸が解け、再び意識を手離してしまう。
冷たい雨水に身体が晒される。
口渇感や空腹感に苛まれ、身体の痛みも限界だ。
まるであの日の、あの場所のように感じた。




