第10話 ラベンダーの香りに乗って
屋敷の奥、木彫りの装飾が施された両開きの扉。ロレッタはその前に立っていた。
彼女の脳裏に、あの部屋での記憶が蘇った。
ステラの居なくなった物置部屋、その部屋を後にしようと扉に手を掛けたロレッタの耳に、居なくなったはずの彼女の声が届いた。
「そうそう、これを言い忘れていたわ。ロウェルとやらの部屋だけど、ここを出て直ぐの階段を登った後、右に真っ直ぐ進むといいわ」
はっと振り返ったロレッタだったが、やはりその部屋には誰もいない。
「今の声、それに、どうして部屋の場所まで……」
「言ったでしょう? 星は全てを見ているの。今のは面白い話を聞かせてくれた貴女へのちょっとしたお礼よ。
それじゃ、また会いましょう。ロレッタ」
昼間の星のように姿こそ見えないものの、確かにそこにある彼女の声。それはロレッタの耳元でそう囁くと、今度こそ舞台から去っていったのだった。
目の前の両開きの扉に、ロレッタは慎重に手をかける。木の扉が軋む音を立てながら、ゆっくりと開いた。
手入れの行き届いた、派手すぎない部屋。カーテンの開いた大きな窓から、暖かな陽の光が部屋中に広がっていた。
書類の詰まった棚、事務仕事用のデスクに作業椅子。シンプルに見えるが上質なベッド。そして何より目を引くのは、部屋の中心に置かれた鎧立てだった。
堂々とした鎧。よく磨かれ、陽の光を浴び輝く鎧。
一見ただのプレートアーマーにも見えるが、それにはエーテル技術が用いられた技巧が細部にまで凝らされている。手足の関節に沿った補助骨格は動力によって稼働し装備した者の運動を補強する上、肩や背中の小さい格納からは強力な砲や電磁シールドを展開することもできるだろう。
帝国の強大な軍事力を感じさせるそれは、代々受け継がれてきたこの家の決して失われてはならない心臓そのものであると、一目見たロレッタが肌で感じとれるほど丁重に飾り立てられていた。
「流石に、直接見ると威圧感が凄いね。西部中を支配した帝国の牙か……」
「こんな物が置いてあったら、その部屋で暮らす人はずっとその重圧に苦しむことになるだろうね……」
息を呑み、それぞれに呟くエリーとロレッタ。その背後から、鎧の軋むあの音が聞こえた。
「人の心象の奥まで土足で上がり込んで、観光気分か?」
ロレッタは振り返ると、開いたままのその扉の向こうに怪人の姿のロウェルがこちらを睨み立っていた。
飾り立てられた荘厳な鎧そのものの姿であるはずのその怪人は、しかしロレッタには酷く憂鬱そうに、物悲しそうに見えた。
「……今、少しわかった気がするよ」
ロレッタは慈愛に満ちた表情を浮かべ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「外の世界で、貴方は必死にもがいていたんだね。その鎧は何かを守るものだけど、とても重くて苦しくて、ずっと貴方を縛り付けていたんだよね」
その言葉を反芻するかのように、怪人は何も言わなかった。そして暫く間を空け、その口を開いた。
「俺の鎧は、鎖巻きにされていた。この家に、俺の父に操られて動く傀儡として、俺は生き続けて来た。俺の意見が形になった事なんて、1度たりともなかった」
そこには静かな怒りと共に、どうしようも無い諦観が混じっているのを、ロレッタは感じ取っていた。
「その鎧は重すぎるから、きっと今の貴方だけでは脱げないだろうね。だから――私が手伝ってあげるね」
ロレッタが、窓の方へと振り返る。徐ろに窓枠へと登った彼女は、窓ガラスをバンと開いた。
「――その鎧、一度全部脱いじゃおっか!」
窓から吹き込む、仄かなラベンダーの香りを纏った風に、ロレッタがその身を預け、
――窓の外へと、その身を投げ出した。
「……っ! 何をっ!」
オレンジ色のコートを靡かせて、窓から飛び降りるロレッタに、ロウェルが驚いた様子で叫ぶ。
彼女を追うように窓から身を乗り出した彼の目に、ロレッタが降り立った青い芝生が、そして、
――紫色のラベンダーが広がる、屋敷の中庭が写った。
中庭に降り立ったロレッタ。その肩に乗るエリーが呟いた。
「中庭……。訓練室でアイツが言っていた所だね」
「うん。……ここに、最後の戯曲への扉がある気がするんだ」
中庭を見渡すロレッタの目に、大きな切り株が写った。
「これは……」
一見ただの木の切り株に見えるそれの前に、白いガーデンチェアが並んでいた。それらは切り株の方を見て座れるように、葉の1枚も被らず綺麗に手入れされていた。
まるで出演者の登壇を待つ、ステージのようだった。
「ここだ。最後の幕への扉、ロウェルさんの心の奥へと向かう道は」
「待て……! やめろ!」
ロウェルの制止も虚しく、ロレッタはそのステージへと登る。
「諦観の中でも、決して諦められない何かがあるから。それを鎧の中にしまい込んで、重圧の中で動けず苦しんでいるんだ。
――貴方の鎧を、全部脱ぎ去る時間だよ」
高く掲げたペン先を、切り株の中心へ突き刺した。
その一点から、戯曲の世界にひび割れが広がってゆく。次の幕の為に、舞台が暗転してゆく。
暗転が、ロレッタを、エリーを、そして窓から手を伸ばす怪人ロウェルを、呑み込んだ。
ライトの消えた暗闇の中で、ロウェルが静かに目を閉じる。遠くなってしまった記憶を思い起こすように。
『きっと帝国1番の演奏家になって、あの劇場で演奏してね。ロウェル!
私、絶対に1番前まで観に行くから!』
その瞼の裏に、眩しいくらいに鮮やかな、赤い髪が浮かんだ。




