深紅の契約 〜燃え落ちる希望と目覚める神剣〜
ヨトゥン兵が化けた村人たちによって、矢継ぎ早に放たれる煽動の言葉。
村最強の騎士ゲインが裏切ったという絶望が、村全体を飲み込んでいく。
全ての村人が、冷静さを失っていた。
現実は、無情である。
エストの口から迸った叫びは、雷鳴のように村を震撼させた。
その声は村人たちが辛うじて保っていた理性の最後の糸を、鋭い刃で切り裂くに十分である。
幼いエストの心は、あまりにも脆かった。
押し寄せる恐怖と混乱の中で、状況を冷静に見つめることなどできはしない。
もしあの時、ティアの手をしっかりと握っていれば……
もしあの時、血が薄れていくことに気づいていれば……
もしあの時、周囲を冷静に見渡せていたなら……
ティアは、そこにいた。
アリアに抱かれて、身を潜めている。
「あなた! ティアちゃんは、無事よ! クロウ・クルワッハの魔法だわ! おそらくティアちゃんが見えていた人にだけ、幻術をかけたのよ! だから、わざわざこの場に現れたんだわ!」
「そう言うことか! 確かに、村人を混乱に陥れるには効果的だったな。もはや、止められないかもしれん!」
先ほどまで、ティアがバラバラになって倒れていたはずの場所。
そこには、血も遺体も何事もなかったように消えている。
「ティア!」
エストの叫びが、涙と共に村人たちに届く。
「ゲイン! 幼い少女の心をズタズタに切り裂いて、それで満足か! 金か? 地位か? ここまでして、ヨトゥンに寝返りたかった理由は何なんだ!」
エストの声を掻き消すように、アリアとティアの前に立つヨトゥンが化けた大柄の騎士が怒号の中でも通る声で叫んだ。
「違う! ティアは、生きてる! 待って、みんな!」
しかしエストの全力の叫びは、怒号の波に簡単に飲み込まれる。
「おい、ちょっと待て! エストが何か言ってないか?」
「知るか! とにかく、ゲインをどうにかしないと……我々が殺されるぞ!」
「そうだ! 幼い子を殺すのも、躊躇わなかったんだぞ! 全員でかからなければ、全滅するのはオレ達だ!」
煽られた村人たちの声は大きくなり続け、もはやエストの声は届かなくなっていた。
村人たちからアリアとティアを隠すように立つ村の騎士を装った男が、エストと目が合うと口角を上げる。
エストの背筋は凍りつき、得体の知れない恐怖に身体が震えた。
「エストちゃん、ティアちゃんを連れて逃げなさい! 巻き込んでしまって、ごめんなさいね。所詮は、魔法で変えられた姿……私が、捕まっていなければ!」
アリアの手の中にある宝具が金色に輝き、大柄の村の騎士に化けたヨトゥンの姿を露わにする。
「ちっ、赤枝を守護する魔法使いか! 遊んでおられるつもりか、クロウ・クルワッハ様は!」
「その通り、雑魚には興味ないんだとよ。その程度で、クロウ・クルワッハ様の直属の兵が務まると思うなよ」
ヨトゥン兵の姿に戻った村の騎士は、もう一人の化けたヨトゥン兵に胸を貫かれ……そして、再び村の騎士の姿に戻った。
「団長の奥方も、裏切っているぞ! エストを守ろうとした騎士が、魔法でやられた! 気を付けろ!」
村の騎士に化けたヨトゥン兵が、偽りの真実を風に乗せて放つ。
混乱が、さらなる混乱を生んだ。
疑惑が、波及する。
もう、後戻りはできない。
村最強の騎士に刃を向け、英雄を支えてきた魔法使いまでもが敵に回ったのだ。
「魔法でサポートされたら、我々に勝ち目はないぞ! アリアを捕えれば、ゲインの動きを封じられる。まずは、アリアだ!」
どこからか飛ぶ大声に従い、村人たちがアリアに殺到する。
「やめろ! オレが裏切り者だと思うのなら、オレだけを狙え! こんな卑怯な作戦に、踊らされる様なお前達じゃないだろ!」
必死に叫ぶゲインの言葉は、村人の波に掻き消された。
一瞬にして村人たちは野獣と化し、アリアを血に飢えた群れのように取り囲む。
「もはや、犠牲を出さないで切り抜けるのは不可能か……アリア! 今、助ける!」
赤枝の剣閃が、村人に牙を剥く。
もはや、後戻りはできない。
「あなた、誰がクロウ・クルワッハを村に入れてしまったの? あの化け物を村に入れなければ、ここまでの状態にはならなかったはずよ」
「おそらく、クレイサーだ。ティアを人質にとられて、どうしようもなかったんだろう。なるほど……お前が施した結界も、中から破壊されたか。そうなったら、奴のやりたい放題だな……」
剣を構え、かつての仲間を牽制するゲイン。
アリアを狙う村人に向かってのみ、その刃が猛威を振るった。
「きゃあああぁぁ!」
ゲインの背後から、アリアの悲鳴が上がる。
胸を貫かれたはずのヨトゥン兵が立ち上がり、アリアを羽交い締めにしていたのだ。
「手柄をたてないと、殺されちまうんでな……アリアは捕らえた! 早く、ゲインを抑えろ! 余裕を与えたら、全員殺されるぞ!」
「ちぃ、アリアを離せ! 相手がヨトゥンなら、手加減なしだ!」
ゲインが村人たちに背を向け、ヨトゥン兵に狙いを定める。
剣舞が腕を斬り、足を薙ぎ払う。
その瞬間アリアの身体に村人の手が伸び、背後のヨトゥン兵ごと壁に押し付けられた。
人垣は黒い嵐のようにうねり、アリアを飲み込んでいく。
「くそっ……ヨトゥン如きの策に、ここまで! だが、アリアを巻き込むわけにはいかん!」
戦慄の舞が始まる……
閃光の剣舞が通った道に、血が噴き飛ぶ。
花吹雪の様に、儚く寂しく……
悲鳴と絶叫が、鮮血の舞を更に色濃く染める。
剣の主の涙の雫と、血吹雪が混じり合う。
「きゃあああああ!」
耳を劈く女性の絶叫で、剣舞が止まった。
「ゲイン、そこまでだ! それ以上やるなら、アリアを殺す!」
村人の持つ剣が、鮮血で汚れている。
アリアの脇腹から、紅い液体が溢れ出していた。
「何を……している! アリアは、無関係だろ! 少なくとも、オレとは違って何の疑いもないはずだ! それを……」
アリアを助けようと動き出すゲインを、力ない瞳で静止する。
その視線の先には……ガイエンがいた。
次は、我が子が狙われる。
最後の力を振り絞って母としての役割を全うしようとする気持ちが、痛いほど伝わってきた。
ガイエンだけは、守らなければ……
「父さん! 母さん!」
ガイエンの叫びが、空を切り裂いた。
怒り狂った村人たちの壁が、幼い命の存在を認識する。
「ガイエン! お前は逃げろ! ヨトゥンの陰謀なんぞに、巻き込まれる必要はない!」
絶望が胸を締め付ける中、ゲインの力強い声が響き渡る。
「ガイエン、教会へ行きなさい! 神父様なら、あなたを守ってくれる。そして……」
ゲインの言葉に続き、アリアの声が村人たちの咆哮の隙間を縫うように微かにガイエンに届いた。
弱々しくも力を与えてくれるその声は、アリアの命の最後の灯火。
その言葉の先は野蛮な雄叫びにかき消され、永遠にガイエンの耳に届くことはなかった。
「お願い、やめて! ゲインさんとアリアさんが、何をしたっていうの? アリアさんは、ずっと私の事を励ましてくれていた。どうして、こんな酷いことをするの?」
ティアは、エストに……そして村人たちに、涙ながらに叫ぶ。
しかしその声は、嵐の中の囁きのように儚く消えていった。
群衆の狂気は、もはや止めようのない奔流と化している。
ガイエンの逃げる時間を稼ぐため、村人を傷つけていくゲイン。
黒い波に飲まれ、膝から崩れ落ちるアリア。
ガイエンは一瞬、ティアの震える姿を捉えた。
混乱の中で、唯一の光のように見える。
誰にも届かなかったティアの声は、ガイエンの耳には確かに聞こえていた。
エストは自分の発した言葉が引き金となった混乱を、ただ茫然と見つめている。
その瞳からは、拭うことも許されない雫が流れ落ちた。
ガイエンは、幼馴染の少女の悲痛な表情に心が揺れる。
それでも……
ここにいては、父さんと母さんの足枷になる。
次の瞬間……ガイエンは歯を食いしばり、教会へと全力で駆け出した。
背後から響く両親の声が、刃のように心を切り裂く。
もう、分かっている!
事の顛末は、分かっているんだ!
だから、何も聞こえてくるな!
ガイエンの心は、叫んでいた。
それでも、聞こえてくる。
絶望の声が。
「アリア!」
ゲインの声が、天を貫くように轟いた。
そして……
「ぐああぁぁぁ!」
魂が引き裂かれるような、断末魔の叫び。
悔しさと、不甲斐無さ……犠牲者を出してしまった後悔が混じり合った、父の最期の声だった。
父の命が尽きた瞬間、ガイエンの足が一瞬止まりかける。
その直後……
「きゃああああぁぁ!」
アリアの絶叫が、世界の終わりを告げるような悲鳴となって響き渡る。
ガイエンの心は粉々に砕け、涙が溢れ出す。
ガイエンは、振り向くことができなかった。
振り向く勇気など、なかった。
ただ教会へと、走り出していた。
胸の奥で、哀しみと怒りが熔岩のように煮えたぎっていた。
教会に辿り着いた瞬間、ガイエンは両手で顔を覆い涙を拭う。
涙を拭いた瞳で教会を見たガイエンは、目の前に広がる光景に息が止まる。
「えっ……」
教会は、燃えていた。
炎は天を焦がし、漆黒の煙が渦を巻いて立ち上る。
神聖なはずの場所は、すでに地獄の業火に飲み込まれ終焉を迎えつつあった。
「嘘、だろ……」
絶望が全身を貫き、ガイエンは膝をつく。
両親の死、燃え落ちる希望……すべてが一気に押し寄せ、ガイエンは地面を叩きながら声を限りに泣き叫んだ。
嗚咽は風に乗り、灰と煙に混じって空に消える。
どれだけ、泣き続けたのか……
涙が涸れ果て最後の一滴を拭った時、教会は完全に崩れ落ち灰の山と化していた。
風が吹き荒れ、灰が舞い上がり、焦げた臭いが鼻を刺す。
「教会……母さんの言ってた場所が」
虚ろな目で呟きながら、ガイエンはよろめく足で廃墟の中へ踏み込んだ。
アリアの最後の言葉が、亡魂のように彼を導いていく。
すると……
燻る炎の奥から、血よりも深い赤い光が閃いた。
それはまるで運命の誘いのように、ガイエンを引き寄せる。
操られるように近づくと、そこには一振りの深紅の剣が突き刺さっていた。
教会を焼き尽くす業火の中にあっても輝きを失わず傷一つないその刃は、まるで生きているかのように脈打っている。
ガイエンは震える手で、剣に触れた。
だが子供の細腕では重く、持ち上げることもできない。
「くそっ……」
何もかも……何もかも、嫌だ!
最後まで……世界は、自分を拒絶し続ける。
黒き大地に、ガイエンの涙が流れ落ちた。
枯れ果てたと思った涙が、瞳の奥の奥から絞り出されてくる。
振り絞っていた力が限界を迎え、剣から手が離れそうになった。
その瞬間……突然、全身に力が漲る。
剣がまるで羽のように軽くなり、ガイエンの手の中で輝きを増した。
力が、溢れてくる……
「まさか、オレの哀しみと、怒り……分かってくれるのか? オレと共に、歩んでくれるっていうのか?」
その剣ヘルギは言葉を発せず、ただ赤い刀身を妖しく激しく光らせる。
それはまるで復讐の焰を宿した神器が、新たな主との契約を結んだ瞬間であった。




