憎悪と慈悲の狭間1
高密度で巨大な炎の塊が墜ちた現場は、航太たちの心を凍りつかせるには充分だった。
焼け焦げた大地から立ち上るのは、火葬場を思わせる甘く腐った肉の臭い。
そして、溶けた金属やゴムが混じり合ったような刺激臭。
死の瘴気が肺の奥まで染み込み、まるで地獄の門の前に立たされているかのようだった。
円形に広がる焼け野原は、色彩を完全に奪われた白黒の廃墟そのもの。
灰と黒い土だけが残る無慈悲な世界が、一切の希望を嘲笑うように横たわっていた。
あらゆる生命が焼き尽くされたこの場所では、時間さえも止まっているかのように感じられる。
その強烈な臭気と荒涼とした光景に、絵美は顔を歪め吐き気を堪えるように唇を強く噛んだ。
細い肩が、小刻みに震えている。
航太もまた、言葉を失う。
足元に広がる絶望の光景に、ただ立ち尽くすしかなかった。
数歩を進んだ、その時……灰に埋もれた大地に、わずかな動きが目に入る。
黒ずんだ大地から突き出た、かすかに震える物体。
それは紛れもなく、人の手だった。
焼かれた物体の下から、必死に助けを求めるかのように弱々しく指先が蠢いている。
「生きてるのか! すぐに、助けるぞ!」
ランカストの叫びが荒野に響き渡り、三人は慌ててその場に駆け寄った。
気持ちが急くあまり、黒い物体を掻き分ける手つきはぎこちない。
「航ちゃん、これって……人、じゃないよね?」
山積みのように折り重なった、黒い物体。
掘るにつれて、腕や足の形がある塊が見られるようになる。
「うそ……だろ。一ヶ所に纏まって、焼かれたってのかよ! なんだって、そんな事を……」
指先が黒い物体に食い込み、震えが止まらない。
人の身体であった物を、壊していく感覚。
震えが、止まらない。
戦場の凄惨さと、人の命の儚さが心を押し潰す。
黒い物体の下から現れた人物は、全身が煤と灰で真っ黒に染まっている。
皮膚は赤く爛れ、まるで生きたまま焼き殺された亡魂のように見えた。
顔を近づけると、か細い呼吸音だけが辛うじて聞こえる。
言葉を発する力はなく、指先だけが命の最後の抵抗を示すように微かに動いていた。
絵美は、その顔を思わず凝視する。
赤く爛れた皮膚の下に、微かに見覚えのある輪郭が浮かび上がった。
さらに灰を払い落とすと、白を基調とした装飾の施された鎧の残骸が確認できる。
部隊長にのみ与えられる、装飾のある鎧。
間違いない……見間違える、わけもない。
智美の捜索を冷淡に扱い、仲間を見下すような言葉を吐き続けていたシェルクードその人だった。
(よりにもよって、生き残ってたのが……この人? 見捨てたって、誰も文句は言わないんじゃないの? 智ちゃんの捜索を、適当にやったんだ……自業自得だよ)
絵美の胸に、抑えきれない憤りが黒い炎のように湧き上がる。
不謹慎だと分かっていても、その思いは心の奥底で激しく渦を巻く。
憎悪が、消える気配がない。
絵美の手が負の感情で震えていた、正にその時……遠くから、馬蹄の音が荒々しく轟き渡る。
ホワイト・ティアラ隊の先行部隊が、危険を承知で土煙を巻き上げながら駆けつけてきたのだ。
馬の背から飛び降りた一真は、灰に塗れた航太と絵美を見つけて叫ぶ。
「航兄、ミーちゃん! 無事か? 治療が必要なら、すぐに診るよ! とんでもない、攻撃だった。火傷は残る可能性もあるし、急がないと!」
白と灰が支配する地獄のような光景の中で、二人が生きている。
一真の声には、安堵と……そして、負傷の度合いを心配した焦りが混じり合っていた。
「一真……俺たちは、無事だ。たいした怪我も、してねぇよ。あの攻撃は、オレ達に向けられたモンじゃなかったからな……」
航太は言葉を切り、周囲を見渡す。
一真もまた、白黒の大地に視線を移す。
灰に覆われた、荒野。
気道が焼けつくような熱波がまだ渦巻き、呼吸すらままならない。
そんな場所で他の生存者を望むのは、あまりにも虚しい希望だった。
絶望が胸を締め付け、息苦しさに喉が詰まる。
「本当に、凄まじい轟音だった。離れた場所からでも確認できた、あの巨大な炎の塊……こんな絶望的な景色を見せられたら、何が起きたのかすぐに分かるよ。生きていてくれて、本当に良かった。でも……外見は無事でも、肺や気道がやられている可能性はある。アドレナリンが出ている時は気付かない事もあるから、後でちゃんと診せてね……」
一真は安堵の息を漏らしたが、すぐにその瞳が曇った。
目の前の惨状は、生還の喜びなど簡単に押し潰してしまう。
「辛うじて、生き残りが……一人だけいるよ。あんまり、助けてほしくないんだけど……」
絵美が、重たい口を開いた。
その声は凍てついた刃のように冷たく、普段の明るさは微塵も感じられない。
「ミーちゃん、どうしたのさ? こんな状況だから、気が滅入るのも分かる。けど、助けてほしくないなんて言い方は……」
絵美の視線の先には、シェルクードの無残な姿があった。
全身の火傷は皮膚を黒く炭化させ、呼吸は糸が切れそうなほど弱々しい。
その命は、すでに風前の灯火であることが一目で分かる。
「この火傷……このままじゃ、死んじゃうよ! 直ぐに、冷やさないと……ネイアさん、身体を冷やして! 水ぶくれは、潰さないように気をつけて!」
一真の顔色は青ざめるが、瞬時に行動を開始していた。
シェルクードの肩の下に丸めたタオルを差し込み、気道を確保する。
魔法で滅菌した簡易の管を取り出し、震える手でその口に挿入し始めた。
「確実に、気道熱傷を起こしてる! 窒息する前に……挿管するしかない! 挿管なんて、見様見真似だけど……でも、何もしなければ死んでしまう。今……俺にできることを、全力でやるんだ!」
一真は灰にまみれながら、必死に処置を始める。
火傷による気道浮腫は、放っておけば数分で呼吸を完全に塞ぐ。
時間は、残酷なまでに限られていた。
「ネイアさん、魔法で身体を冷やして! 身体には、触らないようにして! ミーちゃん、天沼矛で水を! 身体に水を掛け続けて!」
一真は、叫びながら指示を飛ばす。
ネイアはホワイト・ティアラ隊の隊員が氷嚢を持っているのを確認すると、即座に魔法を展開した。
氷嚢から流れる冷気が倍増され、シェルクードの身体が優しく冷やされ始める。
淡い光が、傷ついた肌を包む。
だが、絵美は動かない。
長い髪を風に振り乱し、ただ頑なに首を横に振るだけ。
「ミーちゃん、天沼矛で水を! 流水で冷やさないと、助からないんだ! 頼むよ!」
一真の声は、焦りと希望が交錯する叫びだった。
それでも、絵美は冷たく首を振る。
「この人……智ちゃんの捜索を適当に済ませて、批判ばかりしてたんだよ。捜索隊の、隊長なのに! 隊長がそんな態度だから、捜索隊全体がダラダラしてた。この人がちゃんとしていれば、智ちゃんは見つかってたかもしれない! そんな奴がこんな目に遭うのは、自業自得だよ!」
絵美の言葉は氷のように冷たく、深い憎しみに満ちていた。
普段の絵美からは想像できない憎しみの籠った声で、一真の心を切り裂く。
一真は一瞬、言葉を失う。
だがすぐに、声を絞り出した。
「その気持ちは、痛いほど分かるよ! でも……それじゃミーちゃんも、この人と同じことをしていることになる。助けてくれなかったから、助けない。それじゃ、ダメなんだ! 智姉なら、きっと怒りを堪えて助けてくれる。今は、命がかかってるんだ! 力を……貸してくれ!」
絵美の瞳が、激しく揺れる。
怒りと悲しみ……葛藤と憎悪が渦巻き、心を焼き尽くすようだった。
一真の言葉は深く胸に突き刺さり、絵美の信念を激しく揺さぶる。
それでもなお絵美は首を横に振り続け、灰色の荒野に立ち尽くしていた。
この世界そのものを、拒絶するかのように……




