九つの首2
「分かったわ! 智美は連れていく! 航太も、戦況を見極めて必ず逃げるのよ! 相手を倒せる程のチャンスが来ても、それは逃げ出すチャンスと思うこと! いいわね?」
ゼークの瞳は、血と汗に濁りながらも鋼のように真っ直ぐだった。
命を懸けた決意が、その視線に重く宿っている。
航太は喉の奥で熱い塊を飲み込み、無言で力強く頷き返す。
胸の奥で……二人を守りたいという想いが、激しい決意として渦巻いていた。
意識の糸が細く切れかけた智美を、ゼークは肩を貸しながら優しく立たせる。
智美の小さな身体は羽のように軽く見えるが、大切な人だという重みがゼークの心にズッシリとのしかかった。
ゼークの足音が土に反響し、瞬時に後退を開始する。
砂埃が舞い上がり、戦場の闇に溶け込もうと動く。
「逃がす訳、ねぇだろうがぁ!」
スリヴァルディの咆哮が、獣の遠吠えのように戦場を震わせた。
獲物を失う怒りと、歪んだ愉悦が混じり合った笑み。
そんな感情が、その顔を醜く歪める。
双剣を閃かせ、獣のような低姿勢でゼークと智美の背中へ飛びかかった。
足元から土が爆ぜ、殺気の波が空気を切り裂く。
「空気を読みやがれ、女好きの変態化け物野郎が!」
航太の叫びが、喉を裂くように響いた。
右手の激痛を歯を食いしばって押さえつけ、航太は左手に従えたエアの剣を全力で一閃。
目に見えぬ風の刃が、真空の弧を描きながらスリヴァルディの喉元を狙う。
風が唸りを上げ、地面の小石が舞い上がる。
スリヴァルディは双剣を交差させ、風の刃を粉砕した。
金属の軋む耳障りな音と、風の爆ぜる乾いた破裂音が重なる。
青白い火花が、空間に舞う。
その瞬間、航太は既に間合いを詰めていた。
左足を軸に身体を低く沈め、回転しながら剣を横薙ぎに振り抜く。
左腕の筋肉が悲鳴を上げ、肩が引きつる。
「邪魔を、するなぁ! お前から、血の海に沈めてやってもいいんだぁ!」
エアの剣の一撃を躱わしたスリヴァルディの声は、純粋な殺意に満ちていた。
双眸が血走り、唾を飛ばしながら叫ぶ。
「戦隊モノの、悪役かよ! だせぇ野郎だな! 最近は悪者でも、結構カッコイイのも増えてきてんのにな! お前は、だせぇし……弱そう」
激痛に顔を歪めながら、航太は嘲るように笑った。
声は掠れて息は荒く、肺が焼けるように熱い。
それでも、その瞳は燃えていた。
心の奥底では、恐怖が這い上がろうとするのを必死に押し殺す。
智美とゼークを守る……その想いだけが、航太を奮い立たせていた。
スリヴァルディの顔が、憤怒に真っ赤に歪んだ。
血管がこめかみで脈打ち、双眸が狂気の色を帯びる。
嬲りたい女性を逃し、愉悦を邪魔された。
屈辱と怒りが、煮えたぎるように全身を駆け巡る。
「貴様ぁ……その命で、今の言葉を後悔させてやらぁ!」
標的を航太に切り替えた瞬間、スリヴァルディの双剣が本物の嵐となった。
左の剣が上段から薙ぎ払い、右の剣が下段から斬り上げる。
連続した剣閃は音を置き去りにし、空気を引き裂く。
風圧だけで航太の髪が逆立ち、頰を切り裂くような痛みが走る。
「左腕一本でも、てめぇ如き充分だ! 来やがれ、変態野郎!」
航太は右腕を庇い、左手でエアの剣を握り直す。
だが……右腕の痛みが、徐々に薄れていく。
無意識に右腕へ視線を落とすと、淡い青い光が患部を優しく包み込んでいた。
智美の……草薙剣と、天叢雲剣の力。
智美の弱々しい感情が、航太の肉体に温かく宿っていく。
胸の奥が熱くなり、目頭が熱を帯びた。
「智美、お前……まず、自分の足を治せよ! オレは、大丈夫だから……」
聞こえるはずはないのに、思わず声が出る。
「航ちゃん、ファイト。ゴメンね、足手纏いで……」
かすかな声が風に乗って、背後から幻のように聞こえた気がした。
智美の優しさと必死の想いが、航太の心を強く締めつける。
「足手纏いなもんかよ……力、貰ったぜ! ゼーク、智美を頼むぞ! コイツは、ここから一歩も前には行かせねぇ!」
ゼークと共に逃げているであろう智美を一瞬だけ思い、航太は力強い笑みを浮かべた。
心の中で、自己嫌悪と感謝が激しく交錯する。
(浮かれて絶望して、気合い入れては疲労と痛みで諦めて……そんで、また力をもらって立て直してよ。どんだけガキなんだよ、オレは! 情緒不安定過ぎんだろ! でも……もう、逃げねぇ。智美とゼークは、絶対に守る! それだけは、絶対に決めたぜ!)
スリヴァルディの双剣が、再び嵐のように迫った。
航太は、左腕一本で受ける。
そして弾き、捌く。
剣と剣が激突するたび、左手の握力が限界を迎え、指の骨が軋む音がする。
斬られた場所から血が吹き出し、地面を赤黒く染めていく。
汗と血が目に入り、視界が白く霞む。
息が肺を焼くように熱く、足が泥のように重い。
それでも、航太の心は折れなかった。
智美の笑顔、ゼークの信頼……それらが、胸の奥で燃える最後の灯火。
じりじりと後退を強いられ、足が土を深く抉る。
後ろに下がるたび敵陣の気配が薄くなるのを感じながらも、気づく余裕はない。
「トドメだぁ! 雑魚がぁ!」
スリヴァルディが全身の体重を乗せ、双剣を同時に振り下ろす。
剣圧だけで周囲の土煙が渦を巻き、地面が震える。
「散々下がっちまったが、一歩も前には行かせねぇって言っただろうが! 最終的には……だがな!」
その瞬間、風が舞った。
航太の周囲を流れる大気が、意志を持ったように双剣に絡みつく。
目に見えぬ風の鎖が剣の軌道をねじ曲げ、動きを一瞬封じる。
風の唸りが、耳を劈く。
「なん……だぁ?」
スリヴァルディの目が見開かれ、初めて動揺の色が浮かぶ。
航太は素早くエアの剣を右手に持ち替え、構えを低くする。
青い光が、右腕を癒してくれた。
指先まで、力が漲る。
智美の想いが、痛みを忘れさせるほどの温かさで全身を満たす。
「右腕……動くのかぁ!」
スリヴァルディの防御反応が、僅かに遅れる。
「喰らいやがれ! これが、本日最高の一撃だ!」
剣を突き出すと同時に、風の流れが収束した。
鎌鼬などという、生易しいものではない。
圧縮された風の弾丸が、砲弾のようにスリヴァルディの腹部に吸い込まれる。
衝撃音が爆発し、血しぶきが飛び散る。
スリヴァルディの身体が宙に浮き、疾風の速さで後方へ吹き飛ばされた。
地面を滑りながら土を深く抉り、数十メートル先でようやく止まる。
腹部に刻まれた深い風の傷から、鮮血が噴水のように噴き出していた。
痛みと屈辱で、その顔がさらに醜く歪む。
(さて、押し返したはいいが……こっから、どうする? 正直、この化け物を倒す手段を考えられる程の余裕はねぇ! だが、立ち止まってる時間もねぇぞ。時間を稼ぎながら、ゼーク達とは逆方向に逃げるしかねぇか。智美、ゼーク……逃げ切ってくれよ!)
航太は自らの背後に、強烈な突風を発生させた。
風の奔流が背中を押し、身体を高速で前方へ射出する。
航太はスリヴァルディの真横を、風の矢となって駆け抜けた。
風の轟音が耳を聾し、視界が流れる。
「なんだぁ? そっちは、オレの兵が沢山いるんだぁ」
「えっ?」
風の勢いが弱まり、航太が着地した場所……そこは、ヨトゥン兵の密集陣形の只中だった。
灰色の甲冑に身を包んだ巨躯のヨトゥン兵たちが、槍と斧を構え航太を包囲する。
数十の殺気が、一斉に航太に向けられた。
金属の擦れる音と息遣いが、一気に航太を包み込む。
「ははは……どもども。いや、ちょっと道に迷っちゃいましてねー。お邪魔の様なので、直ぐに出て行きますね。お気遣いなくー」
疲労の極限に達した航太の判断は、すでに鈍っていた。
智美とゼークを守りたいという一心が、状況認識を完全に曇らせている。
スリヴァルディという最大の脅威に気を取られ、敵陣の中心に飛び込んでしまった事実に気づくのが遅すぎた。
心の奥で、焦燥と後悔が渦を巻く。
「さすが、空気を読めるヤツは違うなぁ! 自ら、死地に赴いてくれるとはなぁ! 死にたいなら、直ぐに楽にしてやらぁ!」
スリヴァルディが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「一つ、確認しとくがなぁ……貴様、その剣とゲッシュの契約はしてるのかぁ?」
「ゲッシュ? なんだ、そりゃ? わりぃが、頭弱いんでな……難しいコトは、分からんぜ!」
航太の答えを聞いたスリヴァルディは、笑う。
不適な笑みが、悪魔の嘲笑へと変わった。
双剣の刃が、血を吸って鈍く輝いている。
勝利を確信した残虐な喜びが、その全身から滲み出ていた。
「契約してないなら、どうでもいい話だぁ! フェルグス如きに苦戦するのも、よく分かるなぁ! さっさと貴様を殺して、若い女の生き血でも吸いに行かないとなぁ!」
「ふざけんなよ、変態野郎! わけ分かんねぇコトばっか、言いやがって! テメェだけは、ここで倒してやんぜ!」
航太は歯を食いしばり、エアの剣を振り続ける。
しかし強い言葉とは裏腹に風圧はもはや弱々しく、剣をわずかに逸らす程度にしかならない。
逆に、スリヴァルディの反撃が容赦なく襲いかかる。
左肩を浅く斬られ、肉が裂ける焼けるような痛みが走った。
右の脇腹を抉られ、熱い血が腹部を伝う。
血と汗が混じり、視界を赤く染めていく。
息が、苦しい。
膝が震え、足元がふらつき倒れた。
心の中で、絶望がゆっくりと這い上がってくる。
(まだ……何も成してもねぇ! せめて、智美とゼークの無事を確認するまでは……倒れるわけには、いかねぇんだ! 弱い心を捨てるんだ、情緒不安定野郎!)
エアの剣を杖代わりに、航太は必死に立ち上がった。
「寝てるんだなぁ! 雑魚がぁ!」
「ぐわっ!」
雷鳴のような一撃が、航太の胸を薄く切り裂く。
剣閃の余波だけで肋骨が軋み、鮮血が弧を描いて土煙の中に飛び散る。
激痛が全身を貫き、視界が真っ白になった。
航太は膝を突き、再び倒れ込む。
意識が朦朧とし、世界が白く揺らぐ。
土の冷たさが頰に触れ、血の味が口に広がぅた。
(ゲームみたいに、最初は弱い敵から……んで、絶妙なピンチを潜り抜けて、成長する。そんな世界を、想像してた。けど、敵も味方も命懸けの戦場で……そんな都合良く、いく訳がねぇんだ。どんなに特別な存在だって、死ぬ時は死ぬ。そんな世界だ。だがよ、最後まで諦めねぇ! ここで諦めたら、智美やゼークの心に、深い傷を残しちまう。優しい……優しすぎる奴らだからな! 死ぬにしても、こんな分かり易い場所で死ねるかよ!)
絶望が心の底から這い上がり、胸を締めつけてくる。
涙が、血に混じって頰を伝う。
それでも航太は必死に目を凝らし、活路を求めた。
震える指で、エアの剣を手繰り寄せる。
一撃でも多く、攻撃を繰り出す。
スリヴァルディを、一秒でも長く足止めする。
そして一歩でも多く、ゼーク達の逃げた反対側へ……
今の自分に出来る、最大限を……
エアの剣を握り、航太は動き出そうとする。
「航太、そのまま倒れていろ!」
雷鳴のような声が、戦場全体に響き渡った。
力強い、絶対的な威厳を帯びた声。
血で染まった瞳で、視線を動かす。
そこには、アルパスターが立っていた。
紅の空を背に、アルパスターの姿は一筋の光のように輝いている。
その佇まいは圧倒的な存在感を放ち、戦場の空気を一変させた。
ヨトゥン兵たちの動きが、凍りつく。
スリヴァルディの顔に、本物の動揺が浮かぶ。
「なんで貴様が、ここにいるんだぁ!」
スリヴァルディの声は、戦場の風に溶けていった……




