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雫物語 Rewrite  作者: クロプリ
二人の逃避行
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九つの首

 智美の絶叫が、戦場の喧騒を血の色に染めて切り裂く。


 その瞬間、航太の全身が氷の枷に囚われた。

 心臓が、一瞬止まったような錯覚に陥る。

 喉の奥で息が詰まり、視界が急速に狭まった。


(智美! くそっ、戦闘力の低い智美を一人にしちまった! 自分のことばかり考えて、周りの状況まで頭が回らなかった! だが、絶対に守ってみせる!)


 胸の奥底から、熱い衝動が沸き上がる。


 守りたい……いや、絶対に守りきるんだ。


 しかし理性と恐怖が、その感情を叩き潰そうとする。


 眼前には、カラドボルグを悠然と構えたフェルグス。

 その冷酷な瞳は、閃光の刃となって航太の魂を貫いていた。


 フェルグスほどの怪物に背を向けるなど、自殺行為に等しい。

 カラドボルグから一瞬でも視線を外せば、航太の首と胴体は赤い霧となって戦場に散るだろう。

 そもそもカラドボルグの動きを凝視して、それでも辛うじて躱すのが精一杯の閃撃だ。


 だが、心が……いや、航太の魂そのものが声を上げる。


(智美だけじゃねぇ! 全員で、元の世界に戻るんだ! こんなところで殺られるわけにも、殺らせるわけにもいかねぇ!)


 無意識に視線が絶叫の方向へ回りかけたその動きを、ゼークは既に読み取っていた。


 電光石火の速さで体勢を整え、フェルグスと智美を同時に視野に収める位置へ身体を滑り込ませる。

 白銀の月影を握る手は微塵も揺るがず、鋭い声が迸った。


「フェルグス! あの男は、一体誰なの? あんな気色の悪い化け物みたいなヤツを、配下に置いているわけ? 騎士の誇りは、どこに置いてきたのよ!」


 智美の傍らに立つ、細身の影。

 両手に細身の両刃剣を握りしめ、薄ら笑いが悪魔の嘲笑のように漂う男。


 智美の足元から流れ落ちる鮮血が、泥土を赤黒く染め上げる。

 その顔は苦痛に歪み、唇が小刻みに震えていた。


 動けなくしてから、ゆっくり仕留める……その冷酷な殺意が、細身の男の瞳から毒のように滲み出ていた。


 細身の男の指先が微かに動き、剣の切っ先が智美の喉元へ近づく。


「てめぇ……それ以上、智美に近付くんじゃねぇ! その首、吹っ飛ばすぞ!」


 航太の視界が、赤く染まる。

 自分でも信じられないほど大きな声が、戦場に響き渡った。


「スリヴァルディ……か」


 フェルグスは、煮えたぎる憎悪を帯びた低い声を吐き出す。

 その名は航太の心臓に呪詛の刻印のように焼きつき、吐き気を催すほどの嫌悪を呼び起こすことになる。


「ごめん、航太! フェルグスに気を取られすぎてた……智美のこと、気にしていたはずなのに、気づけなかったなんて!」


 ゼークは、瞬時に判断した。


 かつて自分が憧れたフィアナ騎士は、背後から卑劣に襲うような男ではない。

 ヨトゥン側に寝返ったからといって、その高潔さは失っていないだろう。


(あの卑劣な化け物から、仲間を救ってやれ……)


 フェルグスの瞳が、そう語っているように感じられた。

 静かで、しかし確かな信頼の光。


「フェルグス……私は、あなたを信じる。アルパスター将軍が信用し、私が心から憧れた聖騎士を!」


 ゼークは瞳に力を込め、反転。

 スリヴァルディに向かって、疾風のごとく突進した。


 白銀の月影が唸りを上げ、地面を蹴る衝撃で土が爆ぜる。


「風閃!」


 風華と対をなす、閃光の如き突進技。

 風と一体化したようなゼークの渾身の突きが、スリヴァルディの胸を貫いた。


 確かに、心臓を的確に貫く致命の一撃だった。


「無防備、無抵抗の人間……いやいや、ヨトゥンに必殺の一撃だぁ! そして指揮官様は、傍観を決めつけてらぁ! やってられんよなぁ!」


「な……痛みを、感じていないの? 確実に、致命傷のはず……」


 得体の知れない力を感じ取り、ゼークは咄嗟に白銀の月影を引き抜いて距離を取る。


「傍観を決め込んでる……だと? 貴様が、普通の武器でダメージを受けるわけがないだろう? それとも、心配でもしてほしかったのか?」


「はっはぁ! これだから、クールな奴は嫌なんだよなぁ! 何でも知ってるって顔を見るのは、反吐がでるなぁ!」


 叫びながら、スリヴァルディはゼークに向かって飛びかかった。


 スリヴァルディは、二刀流の魔術師。

 細身の躯から迸る力は、明らかに異界のものである。


 二本の剣が交差し、片手で握るゼークの白銀の月影を軽々と弾き飛ばす。

 金属同士が激突する甲高い音が響き、火花が夜空に散る。


 衝撃の余波でゼークの腕は痺れ、身体が吹き飛ばされそうになった。


 スリヴァルディは嘲笑を浮かべ、強く踏み込んで連撃を浴びせてくる。


 航太がフェルグスを横目で見やると、鋭い視線でスリヴァルディを冷たく睨みつけていた。


 フェルグスは戦意を失ったかのように静止し、ただ二人の攻防を無表情で眺めている。

 その横顔に一瞬、苦渋の影がよぎるのを航太は見逃さなかった。


「おい! あいつは、仲間じゃねえのかよ? なんでゼークが苦戦してんの見て、そんな表情になってんだ? それとも、挟み撃ちのタイミングでも伺ってんのかよ?」


「過去の……とはいえ、大切な友人だった女性だ。だが……なるほど、こちらの好機ではあるな。私が参戦すれば貴公らに勝機は無くなるが、ゼークを私の手で倒せるか。だがまぁ、二人がかりでスリヴァルディと戦ってみるといい。上には上がいることを、思い知ることになるだろうがな」


 フェルグスからの攻撃は、ない。

 今の会話で、航太は確信した。


 右腕の傷が激痛を訴え、血が滴り落ちる。

 左腕だけが、頼りだ。


 航太は全身の神経をスリヴァルディに集中させ、息を止めてエアの剣に力を伝達する。

 指先が、震え……そして、吠えた。


「ゼーク、伏せろ!」


 ゼークとスリヴァルディの剣が激しく交錯した瞬間、航太の叫びが戦場に劈く。


 右腕の激痛を歯を食いしばって耐え、利き腕ではない左腕で風の刃を放つ。


 風が渦を巻き、鋭利な刃が凝縮される。

 空気が引き裂かれる程の、低い唸り。


 それはフェルグスに放った一撃に比べたら、弱々しい刃だった。


 だがゼークが機転を利かせ、自らの動きでスリヴァルディの視界を完全に塞ぐ。

 風の刃の軌道が、ゼークの身体で隠蔽される。


「やあぁぁぁぁ!」


 身体を投げ出しながら、ゼークが白銀の月影を下から上に振り上げた。


 ゼークが、地面に倒れ込んだ瞬間……白銀の月影の動きに気を取られたスリヴァルディの首を、風の刃が完璧に捉える。


 空間を斬り裂く風の刃が、首を一瞬で刎ね飛ばす。

 肉が裂け、骨が砕ける湿った音。

 大量の血飛沫が弧を描き、首が回転しながら宙を舞った。


「がぁあああぁ! はっはぁ!」


 奇妙で甲高い断末魔が響き渡り、胴体が一瞬硬直する。


(やっちまった! だが、今はそれでも……)


 初めて意図的に殺した衝撃が、航太の心を鉄の鎖で締め上げた。

 吐き気と、罪悪感。

 しかしそれ以上に、智美の顔が脳裏に浮かぶ。


(仕方ねぇんだ! 智美とゼークを守るためには、必要だった。これは、戦争なんだ。綺麗事なんて、言ってられねぇ……そんな余裕は、オレにはねぇ! 躊躇えば、こっちが殺される! てめぇの手を汚さないで守れるものなんて、何一つねぇんだ!)


 感情を無理やり押し殺し、航太が智美の元へ足を踏み出そうとした……その時。


 衝撃的な声が、耳を貫いた。


「ハハァ! 首が、吹っ飛んだぁ! Myth Knightが不意打ちとは、なんとも情けないなぁ!」


 首のないスリヴァルディの胴体が、血を垂れ流しながら不気味に動き回る。


 次の瞬間……血が吹き出していた首の断面から黒い霧のようなものが噴き出し、肉が蠢きながら再生が始まった。


 航太の心臓が恐怖で凍りつき、思考が真っ白になる。


(何なんだ、この化け物! 胴体が、喋ってやがる! 頭は、明後日の方向に吹っ飛んだはずだろ? なんで、まだ生きてんだよ……再生してやがんのか? ホラー展開過ぎんだろ!)


 悪夢のような光景に、航太の魂は絶望の底へ突き落とされた。


「驚く程のことではない。奴の名は、九つの首のスリヴァルディ……九回、首を落とさねば死なんらしい。九回で本当に死ぬかどうかは、試したことがないので知らんがな」


 フェルグスの声は死の宣告のように冷たく、戦場の喧騒の中で響き渡る。


「驚くわ! つーか、試してもねぇのかよ! てかよ……敵に、そんな情報よこしていいのかよ? 試しに九回、首を斬り落としてやってもいいんだぜ!」


 航太の叫びは強がりながらも、恐怖と絶望で激しく震えていた。

 体力も痛みも、既に限界を超えている。

 右腕は痺れ、左手の握力も底を尽きかけていた。


 仲間たちは全員深手を負い、長期戦は絶望的。

 そして相手は、不死身に近い怪物。

 しかも、決して弱くはない。

 ゼークと、互角以上に渡り合える剣の腕を持っている。


 先制攻撃で、確実に仕留めたはずだった。

 それでも戦いが終わらない事実に、疲労と無力感がさらに増幅される。


 フェルグスはスリヴァルディを汚物でも見るような冷ややかな目で一瞥し、視線を逸らした。


「知ったところで、貴公らに勝ち目はない。命を軽々と投げ出せる者が、弱いわけがないのだ。どんなに、性根が腐っていようとも……な」


 フェルグスは航太を一瞬だけ見やり、再びスリヴァルディに冷たい視線を投げかける。

 その瞳の奥に、後悔と哀れみのような複雑な感情が一瞬だけ映った気がした。


「後は、任せる。私は、兵を立て直させてもらうとしよう」


 フェルグスは踵を返し、戦場を歩み去る。

 その背中は、孤独と冷徹さを深く刻み込んでいた。


 航太もゼークも、フェルグスを追う余裕など微塵もない。

 スリヴァルディと戦うだけで精一杯で、心の余裕など全く無かった。


「相変わらず、クールな奴だなぁ! 満身創痍の三人じゃ、遊び甲斐がねえんだがなぁ! 大将に任されちまったから、任されてやるしかないなぁ!」


 スリヴァルディの首は既に再生し、時間が巻き戻ったかのように完璧に元通りになっている。


 切断面から肉が盛り上がり、皮膚が張り直されていく。

 目鼻が形成されていくグロテスクな過程を、航太は生唾を飲み込んで見つめるしかなかつた。


 何事もなかったかの様に二刀を構えるその姿は、まさに死神の嘲笑である。

 常軌を逸した光景に、航太の心は混乱の嵐に飲み込まれていく。


(九回……か。九回、首を落とせば、本当に死んでくれんのかよ? だが今の俺に、そこまでやる力が残ってるのか? 仮に九回倒せたとして、それでも復活する可能性もゼロじゃねぇ!)


 航太は、意を決して声を出す。


「ゼーク……智美を連れて、逃げてくれ! この化け物の相手は、俺が引き受ける! 長距離の鎌鼬で適当に牽制して、キリのいいところで逃げるからよ……」


 震える左腕で、エアの剣を握りしめた。

 指が白くなるほど力を込め、心を整える。

 痛みも恐怖も、すべてを胸の奥に押し込めて……


 戦場はヨトゥン軍の咆哮に完全に飲み込まれ、混沌の渦が広がっていた。

 判断のわずかな遅れが、退路すら奪い去る可能性がある。


 それほどまでに、ゼークの部隊は圧倒的に押し返されていた……

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