運命の交響曲6 絶望の残響
アデストリアの乱から、数日後……アルスター国の城は、いつもより重く沈んだ空気に包まれていた。
灰色の空の下、王城の石壁は冷たく風さえも溜息のように中庭を吹き抜ける。
まだ幼いゼークは反乱の真相を知らされぬまま、父の護衛任務に付き従っていた。
父は王の側を離れられず、いつものように退屈を持て余していたゼークは静かな中庭へと足を踏み入れる。
いつもなら、ここは激しい金属音が響き渡る場所だった。
フェルグスとアルパスター……2人の若き騎士が互いの腕を磨き合う、活気と笑いに満ちた訓練場。
剣戟の響きが、青年たちの未来を祝福するかのように明るかった。
だが今日は、その中庭は死んだように静かである。
中央に佇むのは、ただ1人……首を垂らしたアルパスターだけ。
俯くその姿は、まるで世界の重みを一身に背負った亡魂のようである。
肩は落ち、銀の鎧は埃と血の痕で穢れていた。
神槍ブリューナクを握る手は、力なく垂れ下がっている。
深い悲しみ。
胸を引き裂く寂しさ。
堪えきれぬ苦しみ。
負の感情がアルパスターから溢れ出し、空気を重く淀ませていた。
ゼークの小さな胸に、嫌な予感が芽生える。
怯えが、足を止めた。
声を掛ける事すら、躊躇う。
だが草を踏む微かな音に気付いたアルパスターが、ゆっくりと顔を上げた。
血走った瞳は弱々しく、かつての燃えるような鋭さはどこにもない。
ゼークを捉えたその目は、まるで助けを求める亡者だった。
「お嬢ちゃんか……今日も、ファルミア様の付き添いか? 悪いが、暇潰しの相手になってやれそうにない。すまないな……」
その声は死にゆく者の最期の呟きのように儚く、掠れている。
いつもは力強く響いていたアルパスターの言葉が、今は冷たい風に散りゆく灰のように消え入りそうだった。
ゼークの心が、ぎゅっと締め付けられる。
「暇潰しの相手が出来ないって……そんなの、見れば分かるよ! そんな事より、一体どうしたの? その顔……まるで、心が死んでるみたいだよ? それに、フェルグスは? 今日は、一緒じゃないの?」
幼さゆえの無垢な鋭さが、言葉を尖らせた。
恐怖と心配で揺れる小さな心が、アルパスターの暗い影に吸い込まれそうになる。
ゼークは、知っている……この人は、いつも豪快な笑顔で逆境を力に変えていた。
なのに、今のアルパスターは……まるで、別人。
アルパスターは胸の奥に刺さった刃を吐き出すように、震える声で絞り出す。
「フェルグスが……フェルグスが、ヨトゥン側に寝返っちまったんだ! お嬢ちゃん……大切な友が敵になっても、オレは戦い続けられんのか? 敵になった男を、友人と言ってもいいのか? 心から信じていた友に、戦場で出会っちまったら……オレは、戦えんのかよ?」
声には怒りと絶望が混じり合い、自らを責める刃のように鋭い。
そして、その言葉は子供に向けるにはあまりに残酷だった。
敵になった人間が、慕い愛していた者であれば尚更である。
ゼークの小さな身体が、凍りついた。
心臓が締め付けられ、息が詰まる。
世界が一瞬、音を失う。
アルパスターの言葉と感情が、自分にも突き刺さってくる。
「ヨトゥン側って……寝返ったって、どういう事? フェルグスが、私達の敵になっちゃったって事? トゥンの兵隊に、なっちゃったって事? 嘘だよ……どうして? どうして、そんな事に!」
ゼークの叫びは、中庭の静寂を切り裂く雷鳴のようだった。
大きく見開いた瞳から涙が溢れ、幼い顔を歪ませる。
ベルヘイム近衛騎士の家に生まれたゼークにとって、フィアナ騎士団は英雄の集まりだった。
その中でもフェルグスは、遠い憧れの星。
黄金の鎧に包まれ、優しく笑う姿に淡い恋心さえ抱いていた。
それが今、崩れ落ちる。
粉々に砕け散る音が、心の中で響く。
このままベルヘイム騎士になれば、ヨトゥンの騎士となったフェルグスと剣を交えなければならない日が来るかもしれない。
その恐怖は、ゼークの小さな心を粉々に打ち砕いた。
「フェルグスと……戦う日が、くるかもしれないの? 私……そんなの、嫌だ! 嫌だよ!」
アルパスターの瞳にも、涙が滲む。
アルパスターは、思い出してた。
アデストリアの広場で、ブリューナクを振り上げた自分。
民を傷つけ、友に刃を向けた自分。
対峙したフェルグスは、神剣カラドボルグどころか普通の剣すら抜かなかった。
何があっても、俺たちは戦場で敵として剣を交えない。
お互いを縛る鎖があるならば、それを断ち斬る為の刃を振ろう。
かつて交わした約束を、フェルグスは貫き通す。
襲いかかるフィアナ騎士も傷つけず、ただ静かに民を導いていた。
それに対して、自分は何を成したのだろう?
民も友も傷つけ、心を傷つけた。
「民を守るのが正しいのか? 国を守るのが正しいのか?」
アルパスターの心は、答えのない問いの中で引き裂かれる。
拳は血が滲むほど握り潰され、声が震えた。
ゼークの嗚咽もまた、中庭に響く。
「どうして、フェルグスが……そんなの、嘘だよ! 嘘って……言ってよ!」
小さな手が、無意識に胸を掴む。
心が逃げ出さないように、必死に押さえつけた。
涙が、止めどなく溢れる。
自分の信じた憧れの人が、敵になるなんて……そんな世界、認めたくない。
アルパスターは、何も答えられなかった。
ただ瞳に涙を溜め、拳を震わせる。
投げかけた問いは、言葉ではなく魂の迷いだった。
2人の間に、言葉はもうなかった。
アルパスターの瞳には、涙と後悔と解決しない悩みが溢れ続ける。
ゼークの小さな肩は、絶望と混乱と悲しみで震えていた。
中庭を吹き抜ける冷たい風が、2人の間を無情に通り抜けていく。
やがて……どちらともなく踵を返し、沈黙の中で別れた。
残されたのは、互いの心に刻まれた深い傷。
そして、決して癒えぬ痛みの残響だけだった。
風が静かに2人の背中を押すように、冷たく吹き続ける。
英雄たちの時代は、まだ終わっていない。
しかし2人の心に刻まれた亀裂は、永遠に癒えることはないのかもしれない。
ベルヘイムに帰還したゼークは、静かな広間の中で父と向き合っていた。
父の声は低く、しかしどこか温かく響く。
「フェルグスの言葉を、ただ聞くだけでは足りん。その真意を、己の目で見極めろ。その上で、お前自身が何を為すべきか……それが最も肝要だ。何を決断するにせよ、力は必要だ。フェルグスを止めるにしても、共に戦うにしても……な」
その言葉は、まるで冷たい夜風を切り裂く炎のようにゼークの胸の奥深くまで届いた。
迷いと怒りと拭いきれぬ悲しみが渦巻いていた心の底に、灯がともる。
そうだ……強くなければ、何も守れない。
何も、変えられない。
父の瞳を真正面から見つめ返し、ゼークは静かに頷いた。
強く……なろう。
父をも、フェルグスをも越える力を。
たとえ、それがどれほど険しい道であっても……全てを救い得るだけの力を、この手に!
正しいことが、何か?
間違っていることが、何か?
今の自分には、まだはっきりと見えない。
たとえ世の誰もが否定したとしても、自分が信じた道を迷いなく進む。
胸を張って、歩けるだけの力を。
フェルグスが、かつての自分の英雄が……再び心を開き、本当の想いを語ってくれると信じられるほどの圧倒的な力を。
ゼークは無意識に、腰に差した白炎の剣の柄に手を伸ばした。
冷たい金属の感触が、掌に伝わる。
けれど今その冷たさは、決してゼークを怯えさせるものではない。
むしろ、燃えるような決意を呼び覚ます導火線のように感じられた。
強く……強く、指を絡ませる。
この剣が示す、炎のように。
私は燃え尽きることなく、ただひたすらに強く在る。
どんな闇も焼き払い、どんな絶望も切り裂いてみせる。
ゼークは目を閉じ、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと目を開く。
そこにあったのは、もう迷いの色ではなかった。
静かで、鋭く、揺るぎない光。
「父様」
小さな声だったが、これまでにない確固たる響きが広間を震わせる。
「私は……もう、迷わないわ」
父はわずかに目を細め、満足げに小さく頷いた。
ゼークは剣の柄を握ったまま、一歩前へ踏み出す。
その足音は決意そのもののように重く、力強く広間に響き渡った。




