ゼークの覚悟3
馬の背に揺られながら、航太はゼークの険しい表情を横目で盗み見ていた。
冷たい風が頰を切り裂くように吹き抜け遠くの地平線がぼんやりと霞む中、馬の蹄の音だけが規則的に響く。
仲間たちの馬が並走し、誰もが沈黙を守っていた。
戦いの予感が、空気を重く淀ませている。
そして……意を決して口を開いた航太の声が、冷たい風を切り裂く。
「なぁ、ゼーク……今度戦うフェルグスってヤツは、どれくらい強いんだ? ゼークでも、苦戦するぐらいヤバイのか?」
ここ数日間で、航太は乗馬を驚くほどに習得している。
最初は、馬の背にしがみつくだけで精一杯だった馬の扱い……今では疾走は流石に難しいが、歩いている馬なら意のままに操る事が出来ていた。
神剣を腰に携え馬を駆るその姿は、まるで生まれついての騎士のようにも見える。
風に髪をなびかせ瞳に決意の炎を宿した航太は、この異世界で少しずつ騎士として成長を遂げていた。
ゼークは、一瞬だけ鋭い眼差しで航太を捉える。
だが、すぐに前方へと視線を戻した。
その横顔は、どこか遠くの記憶を追いかけるようにぼんやりとしている。
馬の首筋を優しく撫でながら、ゼークは航太の問いに静かに答えた。
「強いよ……ううん、強すぎる。神剣カラドボルグは……その神剣は、雷を纏いながら一瞬で虹の果てまで届く長さまで伸びると言われるの。そして、フィアナ騎士の中でも上位騎士だったフェルグスがその刃を振るう。純粋な剣技でも勝てるか分からないのに、神剣カラドボルグを意のままに操ってくる。それでも私は、フェルグスに勝たなきゃいけないんだ……」
最後の言葉は自らを戒めるように囁く声で、風に溶け消える。
ゼークの声には普段の冷静さとは裏腹に、かすかな震えが混じっていた。
ゼークの指先が、馬の鬣を優しく撫でる。
その指の動きに、不安を押し殺そうとする気持ちが見て取れた。
「やっぱりゼーク、なんか変だよね? 伝令さんの話を聞いてから、なんか別人みたいじゃない?」
絵美は頭の上で揺れるガーゴに視線を投げながら、ポソリと呟く。
ガーゴは小さな翼をパタパタと動かし、軽薄な声で応じる。
その姿は、まるで風に舞う小さな悪戯精霊のようだ。
「神剣を持ってる相手だから、ただビビってるだけでしゅよ~。情けないでしゅね~。気合い注入、してやりましゅよ~。おりゃー、でしゅ!」
頭から飛び出したガーゴの足を航太は素早く掴み、そのまま絵美の頭にリリースする。
ガーゴは、クッションの上で跳ねたように弾む。
頭の上でバランスをとる為に暴れた結果、絵美の髪に絡まっていく。
「このアヒル野郎! ちっとは、空気を読みやがれ!」
「てか、頭に投げ返すな! ちょっとガーゴ、痛いんだけど!」
航太と絵美とガーゴのいつものやり取りに、普段なら仲間たちもクスリと笑うはずだった。
だが今日はゼークの重い空気に引きずられ、誰もが黙り込んでいる。
風が旗をはためかせ、馬の息遣いが静かに響くだけ。
戦いの影が、皆の心を蝕んでいた。
「最近、みんな冷たいでしゅ~! ホロリ……と、泣いてみるでしゅ!」
ガーゴのわざとらしい泣き真似も、虚しく風に溶けていく。
誰も反応せず、ガーゴはしょんぼりと絵美の肩に移動した。
智美は航太と絵美を横目に、ゼークの馬にそっと自分の馬を寄せていく。
智美の瞳にはゼークを思い遣る優しさに揺れ、柔らかな光を湛えている。
「ゼーク……心配事があるなら、ちゃんと話してね。私、いつでも聞くから。上司と部下って関係だけど……でも、私は勝手に仲間だって思ってるから」
その声は、凍てつく戦場の空気を溶かすような温かさだった。
ゼークは小さく笑顔を見せ頷いたが、唇は固く閉ざされたまま。
ゼークの瞳には深い不安と迷いが渦巻き、普段の自信と誇りが影を潜めていた。
ガイエンとの戦いで見せたあの不屈の闘志は、今や脆いガラスのように見える。
智美の胸は、ゼークのそんな表情に締め付けられる思いだった。
馬の歩みを合わせ、智美は声をひそめて航太に囁く。
「航ちゃん……ゼーク、大丈夫かな? 私、本当に心配で……」
「まぁ……オレ達と違って、ゼークは歴戦の騎士だ。大丈夫だとは、思うけどな……」
航太は言葉に詰まり、遠くの地平線を見つめた。
風が砂尘を巻き上げ、視界をぼやけさせる。
「戦場は、簡単に人を変える。ガイエンも、戦争で人生を変えられてた。フェルグスって奴とゼークの間に、何かあったのは間違いねぇだろうな。心に、何か刺さってるモンがあんだろうけど……聞けそうなら、さりげなく探ってみるか? 難しいかもしれんけど……」
航太は智美の心配を少しでも和らげようと思ったのだが、心の底の迷いが声に滲み出ていた。
ゼークの精神的な強さは、自分など足元にも及ばない。
そう感じているからこそ、踏み込むことに躊躇いがあった。
だが智美の潤んだ瞳を見ると、そんな本音は飲み込むしかない。
思案する航太だったが、突然開けた景色に視線が釘付けになった。
小高い丘の頂上近く、ヨトゥン軍の陣営が黒々とした影となって広がっている。
無数の旗が風に翻り、まるで死を予告するかのように不気味に揺れていた。
空を覆う雲が低く垂れ込み、雷の気配さえ感じさせる。
「あれが、フェルグスの……ヨトゥンの部隊なのか?」
航太の声が、思わず震えた。
威圧感が、半端ない。
時代劇や映画でしか見た事なかった陣営が、実際に目の前に広がっていた。
ヨトゥン軍とフェルグスの部隊を示すマークが付いた旗が、風が吹くたびに大きく翻る。
囲いの中を動き回る兵士たちの影が、蟻のように小さい。
その小ささが、部隊の規模の大きさを無意識に知らせてくる。
「敵意が向けられてるのを、感じるね。殺意みたいなの、感じる。こんな敵意、普段の生活じゃ向けられる事ないから……怖いね」
智美の声も、かすかに震えていた。
ただ見てるだけなら、壮大なスペクタクル。
だがその陣から殺意のような強烈な感情が溢れ、肌を刺す。
これから、殺し合いをする……その覚悟が、フェルグスの陣営から感じ取れた。
死と隣り合わせの恐怖が、航太たちの足をすくませる。
馬の足取りさえ、重くなったように感じた。
「止まれ! ここに、我々の拠点を置く! 準備に取り掛かれ!」
ゼークが低く、緊張感のある鋭い声で号令をかけた。
ゼークの声は普段の冷静さを保ちながらも、どこか張り詰めている。
ゼーク軍は小高い丘の頂に陣を構え、静寂が一行を包んだ。
テントが張られ、篝火が灯され始める。
陣営が整うと、皆はそれぞれ沈黙の中で食事を取った。
日は既に西に沈み、空は血のように赤く染まっていく。
突撃は翌朝に設定され、この夜は旅の疲れを癒す休息の時間となった。
だが航太の心は、休息とは程遠い。
指揮官の迷いは、部隊全体に暗い影を落とす。
ゼークの異変は、戦の勝敗を左右するかもしれない。
智美の顔を思い出し、航太は重い足をゼークの元へと動かしていた。
「なあ、ゼーク。今回の戦い……いやフェルグスって敵の大将と、何かあるだろ? オレにだけでも、話してもらえねぇか? 智美も絵美も……兵達だって、指揮官がそんなんじゃ不安で戦えねぇだろ?」
食事を終えた後、航太は意を決してゼークに切り出す。
篝火の炎がゼークの顔を赤く照らし、影を濃くする。
ゼークは一瞬だけ迷いのある視線を航太に投げたが、直ぐに目を伏せた。
そして静かに頷くと、航太だけを自分のテントに呼び出す。
自分自身の気持ちを、確かめるように……
「入るよ……」
航太がテントの幕をくぐると、ほのかな柑橘の香りが鼻をくすぐった。
それは戦場の血と汗の匂いとは対極の、穏やかな香り。
ガイエンとの戦いの中で感じた、安心する香り……航太の心は一瞬、凪いだ。
テント内は簡素だが暖かなランプの光が柔らかく広がり、毛布や地図が整然と置かれている。
「ごめんね。外だと、何だか話づらくて……」
ゼークの声は、まるで力を失ったかのように弱々しかった。
いつもの揺るぎない指揮官の姿は、そこにはない。
ゼークはハーブティーを淹れる手を少し震わせながら、座るよう促す。
「いや……オレは、全然構わねぇさ。むしろ、すまねぇな。決戦前夜に、押し掛けるみたいになっちまって……」
ゼークの淹れてくれたハーブティーを一口啜り、航太は軽く息を吐く。
「そんで急に本題で悪いが、フェルグスって敵の大将と何かあるんだろ? 強いってのは分かったし、そんな相手と戦う不安は勿論あると思う。けど……それだけじゃ、ゼークの変化は説明つかねぇ! 古参の兵達は不満があるかもしれねぇが、一応オレは部隊の2番手だ。事情さえ知ってりゃ、何か対処できる事もあるかもしれねぇ!」
航太の声は、思わず熱を帯びていた。
ゼークの部隊の一員として、少しでも支えになりたい気持ちも強い。
ゼークは長い沈黙の後、ゆっくりと息を吐いた。
その瞳には、深い闇が宿っている。
ハーブティーが入っているティーカップに視線を落とし、ゼークは静かに語り始めた。
「別に、隠す様な話じゃないんだけどね。航太にだけは、話しておくよ。ごめんね、少し長い話になっちゃうけど……」
外の風がテントを揺らし、遠くで兵士たちの低い話し声が聞こえる。
ゼークはハーブティーを啜り、目を閉じて記憶を遡るように紡ぎ出す。
ハーブティーの湯気が立ち上る中、ゼークは語り始めた。
なぜ自分がこんなにも悩み、迷っているのか。
その理由を、まるで心の奥底から引きずり出すように……
ゼークの声は、静かに過去の扉を開けていく。
フェルグスとの出会い。
フィアナ騎士と過ごした日々。
そして、裏切りと喪失の物語。
ゼークの瞳には涙がにじみ、航太はただ黙って聞き入るしかなかった……




