85.逃げられない理由
しゃがみ込んだアイザックの手が、ミアの顎を掴む。ミアは顔を背けようとするが、アイザックの手に込められた力で、動かすことを許されない。険しいミアの表情とは対照的に、アイザックはニヤニヤと楽しそうに笑っている。
「どんな気分だ?」
アイザックが顔を近づける。ミアは目を細めて、アイザックを睨みつける。
「こんな風に悠長にしていていいのかしら?」
ミアはあえて高圧的に告げた。
アイザックがイラついた様子で顔をしかめる。
「悠長? 何を言っているんだ? 自分の身を心配したらどうだ?」
だが、そう言ったあと、アイザックはクククと楽しそうに喉を鳴らした。
「ああ、そうか。未来の夫に対して、自分の身を心配するなんておかしいからな。心配しないのも当然だ」
ミアの顎を掴んでいない方の手が、ミアの頬を撫でる。ミアはぎゅっと奥歯を噛みしめる。
「バカなことを言わないで! 私はアイザックとは結婚しないわ!」
「いつまで、そんな風に強気でいられるかな」
アイザックの手が、首筋から体のラインを撫でていく。ミアはぶるりと体を震わせると、身じろぎした。
「反応が初心だな。大丈夫、俺がかわいがってやるから」
ニヤニヤしたままのアイザックの手が、ドレスの裾からミアの太腿に直接触れる。逃れられない不快感に、ミアは顔を歪める。
「こんなことしている場合じゃないんじゃなくって」
それでもミアは冷静な声でアイザックに告げる。
「一体何が言いたいんだ?」
「グルグガン商会は、今日で終わりよ」
ミアがアイザックを睨むと、ニヤニヤと笑っていたアイザックが更におかしそうに声を立てて笑い出す。
「グルグガン商会が終わり? お前は勘違いしているようだな。いくら証拠を突き付けようと、サムフォード家の店の権利は戻ることは無いんだ」
「そんなことはないわ! こちらにはれっきとした証拠があるもの!」
ミアの強くなった声に、アイザックが呆れたように首を振る。
「証拠? それがどうしたんだ? たった一枚の紙切れなど、どうにでもできるんだ」
「流石、ニセモノの契約書を持ち込んだ人間だわ。考えていることが、本当にお粗末だわ!」
ミアの言葉に、アイザックが不快そうに顔を歪めた。
「その口、閉じた方が良いんじゃないかな」
ペロリ、とアイザックが自分の唇をなめる。そして、アイザックの唇が、ミアの唇を塞ぐ。
アイザックは舌でミアの唇を開こうとするが、ミアは必死に歯を食いしばる。ぬらぬらと気持ち悪い感覚が、ミアの唇を撫でていく。
いつまでたっても口を開こうとしないミアに、イラついたようにアイザックが唇を離す。
「強情だな」
それでも、ミアを馬鹿にしたような表情を崩すことは無い。
ミアはカッと目を見開く。
「今頃グルグガン商会は、王立騎士団に囲まれている頃だわ」
ミアの言葉に、アイザックが虚を突かれたような表情になった後、おかしそうに笑い出す。
「何を言うかと思えば、下らない」
アイザックはミアの言葉を信じている様子はない。ミアはまた口を開く。
「燃やした小屋の中にあった証拠は、既に王立騎士団が持っているのよ」
「何だと!」
アイザックが勢いよくミアの両肩をつかむ。ビクリと体を揺らしたミアは歯を食いしばる。
「その話は嘘だろう!」
「本当よ。キャルお姉さまの力を侮っていたのかしら?」
ミアはアイザックに向かって肩をすくめる動作を見せる。アイザックが目を細める。
「……ちっ、下らない嘘をつきやがって」
「この屋敷にも、王立騎士団は来るはずよ」
「なっ……嘘を言うな」
バシン、とミアの頬がぶたれる。ミアは痛みで一瞬顔を歪めた後、何でもなかったように表情を真顔に戻す。
「嘘ではないわ。今頃、あなたの父親は、王立騎士団に捕まっている頃よ」
「くそっ」
立ち上がったアイザックが、足早に扉に向かっていく。ガン、と勢いよく扉を開けたアイザックは、ミアの方を振り向く。
「お前の嘘を確認してくるだけだからな! 戻ってきたら、嘘ついた分、楽しませてもらうぞ!」
ギギー、ドン、と不協和音が部屋に響く。扉が閉まってしまうと、外の音は何も聴こえなくなった。
ミアは目を閉じると、小さく息を吐いた。さっきまでは震えなかった体が震え出す。それでも、アイザックに体を掴まれていた恐怖よりはマシだった。
「お姉ちゃん、すごいね」
年下の少年が、ミアの顔を覗き込む。ミアは何度か深呼吸をした後、微笑んで見せる。
「そんなことないわ」
「だって、ぼくらは、あの人に言い返すことなんてできないもん。沢山叩かれちゃうから」
少年の言葉に、ミアはギリッと奥歯を噛みしめる。
「ねえ、私はミア。あなたの名前は?」
ミアの質問に、少年が首をかしげる。
「僕の名前が知りたいの?」
「ええ。駄目かしら?」
少年が首を振る。
「ううん。ここじゃ、誰も僕らの名前を聞いてくれないから」
ミアは一瞬目を伏せて、ニコリと笑顔を少年に向けた。
「私はあなたの名前が知りたいわ。教えて?」
「僕は、ウェイだよ。お兄ちゃんがフィッツで、妹がレイラって言うんだ」
「そう。あなたはウェイっていうのね。みんないい名前ね」
ミアが微笑むと、ウェイがはにかむ。
「あと、狼がいて、ベルって言うんだけど……どこかに連れて行かれちゃったんだ」
ウェイの言葉に、ミアは、あ、と声を漏らす。昨日見た狼のことを思い出したからだ。どうにかやってこの場所をレインたちに知らせたいと思ったが、今ミアに知らせる方法などなかった。だが、次の瞬間、先ほど少年たちと交わした会話を思い出す。
「ねえ、ウェイたちは魔法が使えるのよね?」
ミアの問いかけに、ウェイが困ったように笑う。
「使えるけど……いつもじゃないんだ」
「いつもじゃない?」
ミアは不思議そうに首を傾げた。少なくとも、レインもキャロラインも、魔力が枯渇しなければ、魔法が使えなかったことなど見ることは無かったし、魔力が枯渇したとしても、一晩眠れば、魔法はまた使えるようになっていたからだ。
「そうだよ……僕らは、いつも魔法が使えるわけじゃないんだ」
「どうして? ……さっきの人に、使わないように言われてるの?」
「ううん……えーっと……やろうと思っても、いつもできるわけじゃなくて、よく失敗するんだ。だから、僕たちあの人に一杯怒られるの」
ウェイが眉を下げる。
「失敗するの?」
「うん」
「どうして?」
「どうしてって……」
ウェイが困ったように後ろを振り向く。
「お兄ちゃん。どうして魔法失敗するの?」
座り込んでレイラを撫でていたフィッツが顔を上げる。
「それは分かんないけど……。今日みたいに外に出る魔法は、滅多に成功しないし……でも、今日は成功したからぶたれなかったから、良かったよ」
「そうだね。クッキーも手に入ったしね」
フィッツの言葉に、うんうん、とウェイが頷く。
「クッキー?」
「お姉ちゃんの家にあったやつだよ」
嬉しそうに告げたウェイが、ミアの顔を見てすぐにバツが悪そうに目を伏せた。
「あのクッキー美味しいでしょう?」
ミアの言葉に、ウェイがおずおずと顔を上げた。フィッツも目を見開く。
「怒らないの?」
フィッツの言葉に、ミアは首を傾げる。
「どうして?」
「だって……盗むのは悪いことでしょう?」
声が小さくなるフィッツに、ミアは肩をすくめる。
「あのクッキーは、人に上げるためのものだから、大丈夫よ」
ミアの言葉に、ウェイがホッと息をつく。フィッツは不思議そうにミアを見ている。
「あのクッキー、またもらえる?」
ウェイの言葉に、ミアはクスリと笑う。
「気に入ったのなら、また上げるわ。……でも、家に帰らないと、上げれないんだけど……」
困った表情のミアに、ウェイもフィッツも困ったように眉を下げる。
「……お姉ちゃんは、家に帰りたいんだよね?」
フィッツの言葉に、ミアは頷く。
「ええ。帰りたいの」
ミアにじっと見られたウェイとフィッツは、二人顔を見合わせた。
「でも、僕ら……叩かれちゃうから……」
「どうして3人は逃げないの? 成功しないことが多いとはいえ、魔法が使えるんでしょう?」
ミアの言葉に、ウェイもフィッツも哀しそうに目を伏せる。
「僕らは、家もないし、親もいないから……行くところがないんだ。道端で死にそうになっているのを、この家の人に拾われたから……」
「そうなの……3人は孤児なのね? ……孤児院には行かなかったの?」
ミアの疑問に、フィッツが顔を歪める。どの都市にも孤児院というものがあって、フィッツたちのような孤児が暮らしている。
「僕らは……忌み嫌われていたから……孤児院に入れてもらえなくて……」
ミアが首を横にふる。
「魔法が使えるだけで忌み嫌われるなんて、そんなことあり得ないわ! 私のお兄様も、義理のお姉さまも二人とも魔法を使えるけれど、魔法が使えるからって、誰にも嫌われていないわ!」
フィッツが小さくため息を付く。
「王都はそうなのかもしれないけど……」
ミアが首を傾げる。
「あなたたち、どこの領地に住んでいたの?」
「ダイアン伯爵領だよ」
その名前に、ミアは小さく息を吐く。キャロライン達が、領民たちが苦しんでいるという話をしていたのを思い出したからだ。
「少なくとも、王都ではそういうことはないわ」
ミアが首を横にふると、ウェイとフィッツが困った表情で顔を見合わせた。
「どうしたの?」
ミアの問いかけに、二人が不安そうな目をミアに向ける。
「だって僕ら、悪いこと手伝ったから……きっと騎士に捕まっちゃうよね? だから、僕らはどこにも行けないんだ」
ミアはぎゅっと手を握りしめる。
「そんなことはないわ。だって、あなたたちは、逃げることもできないし、言うことを聞かなければ、叩かれてしまうんでしょう? それは、きっと騎士様が許してくれるわ」
ウェイとフィッツが眉を寄せたままミアをじっと見つめる。
「本当に?」
ミアは微笑むと頷いた。
「私が、力になるわ」
ウェイとフィッツが泣きそうな顔になる。
「お姉ちゃん、僕らのこと助けてくれるの?」
フィッツの声が震えている。
「ええ。勿論よ」
「僕ら……お姉ちゃんを攫ってくる手伝いをしたのに?」
ウェイも不安そうな視線をミアに向ける。
「それは、あの男に脅されて仕方がなかったのよ。だから、許すわ」
ホッと、ウェイとフィッツが息を吐く。ようやく2人の表情が緩む。
「でも、今は私が助けてもらわないといけないんだけれど」
ミアが眉を下げると、二人が不思議そうに首を傾げる。
「魔法を使って、ここから逃げましょう?」
ミアの言葉に、ウェイとフィッツがまた眉を下げた。
「……失敗してもいいわ。何度でもチャレンジすれば……」
ミアが言いかけた言葉に、フィッツが首を横にふる。
「僕らの魔法は、3人そろってようやく使えるんだ。でも、今はレイラが熱を出しているから、魔法は使えない。レイラが熱を出している間は、いつも魔法が使えないんだ」




