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隣の芝生は……  作者: 志に異議アリ


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3/4

【哀】


人は、悲しいときほど、自分の悲しみを大切にする。


忘れたくない。


薄れさせたくない。


あの人がいなくなったあとまで、何もなかったように生きたくない。


そう思う。


だから佳代は、悲しみを捨てなかった。


夫が死んで三年になる。


仏壇には、まだ毎朝お茶を供えている。


写真も変えていない。


少し若い頃の夫が、こちらを見て笑っている。


佳代は、その写真を見るたびに思う。


もう少し、いい写真があったはずなのに。


それでも変えない。


変えたら、本当に死んでしまうような気がするからだ。


近所の人たちは、佳代を気の毒な人だと思っていた。


夫を亡くして、一人になった可哀想な人。


実際、佳代は一人だった。


けれど、寂しいとはあまり思わなかった。


夫のものが、家の中にたくさん残っているからだ。


玄関には古い革靴。


洗面所には使いかけの歯ブラシ。


クローゼットには、もう着ることのないシャツ。


佳代は、それらを捨てられなかった。


シャツなど、もう何年も袖を通していない。


それでも洗濯だけはしている。


月に一度。


誰にも頼まれていないのに。


ある朝、向かいの佐藤家から笑い声が聞こえた。


美奈子の声だった。


佳代はカーテンの隙間から外を見た。


美奈子が娘と話している。


楽しそうだった。


佳代は、少しだけ羨ましくなった。


家族がいる。


一緒に笑う人がいる。


帰れば誰かがいる。


「いいわね……」


呟いてから、佳代は自分で笑った。


夫が生きていた頃も、毎日笑っていたわけではない。


むしろ、くだらないことで喧嘩をした。


靴下を脱ぎっぱなしにする。


新聞を読み終わっても畳まない。


電気を消さない。


佳代は何度も怒った。


夫は、そのたびに、


「はいはい」


と言った。


あの返事が嫌だった。


今でも嫌いだ。


だから、佳代は思う。


いなくなってよかった。


そう思った直後、胸が痛くなった。


「……ごめん」


誰に謝ったのかは、自分でも分からなかった。


その日の午後、ゴミを出しに行くと、佐々木修一がいた。


「おはようございます」


「おはようございます」


修一は、どこか疲れた顔をしていた。


佳代は何となく聞いた。


「昨日、奥さんと喧嘩されてました?」


修一の顔が固くなった。


「聞こえました?」


「少しだけ」


「すみません」


「いえ」


佳代は笑った。


「うちなんか、喧嘩する相手もいませんから」


修一は何も言わなかった。


佳代も、それ以上言わなかった。


家に戻ってから、少し後悔した。


余計なことを言った。


あの人は怒っていた。


でも、怒れる相手がいる。


言い返してくれる人がいる。


帰れば、誰かがいる。


佳代は、そんなことを考えてしまった。


その夜、仏壇の前に座った。


夫の写真を見た。


「あなたがいた頃は、もっと静かだったわね」


返事はない。


「私、あなたに怒ってばっかりだった」


返事はない。


「もっと優しくすればよかった」


もちろん、返事はない。


佳代は写真を見つめた。


それから、少しだけ笑った。


「でも、あなたも悪かったからね」


誰もいない部屋で、佳代は笑った。


久しぶりに声を出して笑った。


そして、すぐに泣いた。


笑ったことが、裏切りのように思えた。


夫が死んで三年。


自分だけ笑っている。


それが、許せなかった。


翌日、佳代は町内会の集まりに出た。


そこで、近所の女性から言われた。


「佳代さん、そろそろ旅行とか行ったら?」


「旅行?」


「一人でも楽しいわよ」


佳代は曖昧に笑った。


「そうね」


帰宅すると、旅行会社のパンフレットが郵便受けに入っていた。


温泉旅行。


一泊二日。


佳代はそれをテーブルに置いた。


しばらく眺めた。


行ってみようかと思った。


知らない場所に行って。


美味しいものを食べて。


温泉に入って。


少しだけ、楽になって。


そう思った。


けれど、その夜。


パンフレットをゴミ箱に捨てた。


「そんなことしたら、忘れちゃうじゃない」


自分に言い聞かせるように呟いた。


何を忘れるのかは、分かっていた。


夫のことではない。


夫を失った自分のことだった。


悲しみがなくなったら、自分が何者なのか分からなくなる。


夫を愛していた証明もなくなる。


だから佳代は、悲しみを手放さなかった。


悲しいままでいることを、愛していることだと思った。


数日後。


向かいの佐藤家から、いつものように笑い声が聞こえた。


佳代は窓を開けた。


美奈子が娘と笑っている。


佳代は思った。


幸せそう。


でも、その笑顔の向こう側に何があるのか、佳代には見えない。


同じ頃、美奈子も窓越しに佳代を見ていた。


そして思っていた。


佳代さんは静かでいいな。


一人なら、誰にも気を遣わなくていい。


佳代は知らない。


美奈子が自分を羨んでいることを。


美奈子も知らない。


佳代が自分を羨んでいることを。


そして佳代は、また仏壇の前に座った。


写真の中の夫は、三年前と同じ顔で笑っている。


佳代はその顔を見て、言った。


「あなたがいなくなってから、私、ちゃんと悲しんでるよ」


それが何のための言葉なのか。


誰に証明しているのか。


佳代自身にも分からなかった。


ただ、その言葉を口にすると、少し安心した。


悲しんでいる限り、自分はまだ夫を愛している。


そう思えた。


人は、ときどき悲しみさえ失うことを恐れる。


悲しみが消えたら、幸せになれる。


そんな簡単なことを、知っているのに。


佳代は今日も、哀しいままでいた。



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