【哀】
人は、悲しいときほど、自分の悲しみを大切にする。
忘れたくない。
薄れさせたくない。
あの人がいなくなったあとまで、何もなかったように生きたくない。
そう思う。
だから佳代は、悲しみを捨てなかった。
夫が死んで三年になる。
仏壇には、まだ毎朝お茶を供えている。
写真も変えていない。
少し若い頃の夫が、こちらを見て笑っている。
佳代は、その写真を見るたびに思う。
もう少し、いい写真があったはずなのに。
それでも変えない。
変えたら、本当に死んでしまうような気がするからだ。
近所の人たちは、佳代を気の毒な人だと思っていた。
夫を亡くして、一人になった可哀想な人。
実際、佳代は一人だった。
けれど、寂しいとはあまり思わなかった。
夫のものが、家の中にたくさん残っているからだ。
玄関には古い革靴。
洗面所には使いかけの歯ブラシ。
クローゼットには、もう着ることのないシャツ。
佳代は、それらを捨てられなかった。
シャツなど、もう何年も袖を通していない。
それでも洗濯だけはしている。
月に一度。
誰にも頼まれていないのに。
ある朝、向かいの佐藤家から笑い声が聞こえた。
美奈子の声だった。
佳代はカーテンの隙間から外を見た。
美奈子が娘と話している。
楽しそうだった。
佳代は、少しだけ羨ましくなった。
家族がいる。
一緒に笑う人がいる。
帰れば誰かがいる。
「いいわね……」
呟いてから、佳代は自分で笑った。
夫が生きていた頃も、毎日笑っていたわけではない。
むしろ、くだらないことで喧嘩をした。
靴下を脱ぎっぱなしにする。
新聞を読み終わっても畳まない。
電気を消さない。
佳代は何度も怒った。
夫は、そのたびに、
「はいはい」
と言った。
あの返事が嫌だった。
今でも嫌いだ。
だから、佳代は思う。
いなくなってよかった。
そう思った直後、胸が痛くなった。
「……ごめん」
誰に謝ったのかは、自分でも分からなかった。
その日の午後、ゴミを出しに行くと、佐々木修一がいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
修一は、どこか疲れた顔をしていた。
佳代は何となく聞いた。
「昨日、奥さんと喧嘩されてました?」
修一の顔が固くなった。
「聞こえました?」
「少しだけ」
「すみません」
「いえ」
佳代は笑った。
「うちなんか、喧嘩する相手もいませんから」
修一は何も言わなかった。
佳代も、それ以上言わなかった。
家に戻ってから、少し後悔した。
余計なことを言った。
あの人は怒っていた。
でも、怒れる相手がいる。
言い返してくれる人がいる。
帰れば、誰かがいる。
佳代は、そんなことを考えてしまった。
その夜、仏壇の前に座った。
夫の写真を見た。
「あなたがいた頃は、もっと静かだったわね」
返事はない。
「私、あなたに怒ってばっかりだった」
返事はない。
「もっと優しくすればよかった」
もちろん、返事はない。
佳代は写真を見つめた。
それから、少しだけ笑った。
「でも、あなたも悪かったからね」
誰もいない部屋で、佳代は笑った。
久しぶりに声を出して笑った。
そして、すぐに泣いた。
笑ったことが、裏切りのように思えた。
夫が死んで三年。
自分だけ笑っている。
それが、許せなかった。
翌日、佳代は町内会の集まりに出た。
そこで、近所の女性から言われた。
「佳代さん、そろそろ旅行とか行ったら?」
「旅行?」
「一人でも楽しいわよ」
佳代は曖昧に笑った。
「そうね」
帰宅すると、旅行会社のパンフレットが郵便受けに入っていた。
温泉旅行。
一泊二日。
佳代はそれをテーブルに置いた。
しばらく眺めた。
行ってみようかと思った。
知らない場所に行って。
美味しいものを食べて。
温泉に入って。
少しだけ、楽になって。
そう思った。
けれど、その夜。
パンフレットをゴミ箱に捨てた。
「そんなことしたら、忘れちゃうじゃない」
自分に言い聞かせるように呟いた。
何を忘れるのかは、分かっていた。
夫のことではない。
夫を失った自分のことだった。
悲しみがなくなったら、自分が何者なのか分からなくなる。
夫を愛していた証明もなくなる。
だから佳代は、悲しみを手放さなかった。
悲しいままでいることを、愛していることだと思った。
数日後。
向かいの佐藤家から、いつものように笑い声が聞こえた。
佳代は窓を開けた。
美奈子が娘と笑っている。
佳代は思った。
幸せそう。
でも、その笑顔の向こう側に何があるのか、佳代には見えない。
同じ頃、美奈子も窓越しに佳代を見ていた。
そして思っていた。
佳代さんは静かでいいな。
一人なら、誰にも気を遣わなくていい。
佳代は知らない。
美奈子が自分を羨んでいることを。
美奈子も知らない。
佳代が自分を羨んでいることを。
そして佳代は、また仏壇の前に座った。
写真の中の夫は、三年前と同じ顔で笑っている。
佳代はその顔を見て、言った。
「あなたがいなくなってから、私、ちゃんと悲しんでるよ」
それが何のための言葉なのか。
誰に証明しているのか。
佳代自身にも分からなかった。
ただ、その言葉を口にすると、少し安心した。
悲しんでいる限り、自分はまだ夫を愛している。
そう思えた。
人は、ときどき悲しみさえ失うことを恐れる。
悲しみが消えたら、幸せになれる。
そんな簡単なことを、知っているのに。
佳代は今日も、哀しいままでいた。




