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隣の芝生は……  作者: 志に異議アリ


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4/4

【楽】


人は、楽しそうな人間を見ると、幸せなのだと思う。


よく笑う。

よく喋る。

休日には出かける。

家族で写真を撮る。


それだけで、その家には悩みがないように見える。


高橋真由美は、そういう人だった。


「人生なんて、楽しまなきゃ損よ」


それが口癖だった。


夫の浩二。

高校生の息子、翔太。

中学生の娘、結衣。


四人家族で、休日にはよく出かけた。


外食。

旅行。

季節のイベント。

誕生日。

クリスマス。


家族写真も多かった。


真由美は、それをSNSに載せるのが好きだった。


《今日も家族で幸せ♡》


写真の中では、四人とも笑っている。


近所の人間も、あの家を幸せな家庭だと思っていた。


佳代のことを、真由美は少し苦手にしていた。


夫を亡くして三年。


いつ見ても一人で、いつ見ても静かだった。


「いつまで引きずるんだろうね」


以前、真由美は美奈子にそう言った。


「人生、一度きりなのに」


美奈子は曖昧に笑った。


佳代は聞いていなかった。


少なくとも、そのときは。


真由美には、悲しみにしがみつく人間の気持ちが理解できなかった。


悲しいなら、楽しいことをすればいい。


嫌なことがあったなら、笑えばいい。


家族なんだから、仲良くすればいい。


そうすれば、幸せになれる。


真由美は、本気でそう思っていた。


だから、翔太が学校から帰ってきて黙っていても、


「どうしたの?」


とは聞かなかった。


「疲れてるんでしょ。今日は美味しいもの食べよう」


結衣が泣いていても、


「そんな顔しないの」


と言った。


浩二が仕事の愚痴をこぼせば、


「またその話? せっかく家に帰ってきたんだから、楽しい話しようよ」


笑って終わらせた。


悲しい話は嫌いだった。


重い話も嫌いだった。


誰かの不機嫌も嫌いだった。


泣いている人間を見ると、胸の奥がざらついた。


せっかく楽しく生きようとしているのに。


どうして水を差すのか。


だから、家族が笑っていると安心した。


笑っていれば大丈夫。


真由美は、そう信じていた。


ある夜、結衣が言った。


「お母さん」


「なに?」


「今日、学校で……」


「うん?」


「……やっぱりいい」


「何よ。暗い顔して」


「なんでもない」


「じゃあ、笑って」


結衣は笑った。


ぎこちなく。


真由美も笑った。


「ほら。可愛いじゃん」


そのとき、浩二が箸を置いた。


「もういいだろ」


「何が?」


「無理に笑わせなくても」


真由美は笑ったまま夫を見た。


「無理になんかさせてないよ」


「させてるだろ」


「家族なんだから、明るくいたほうがいいじゃない」


「お前にとってはな」


その一言で、真由美の笑顔が止まった。


「……私が悪いの?」


浩二は答えなかった。


翔太も、結衣も、何も言わなかった。


真由美は三人の顔を見た。


誰も笑っていない。


そのことが、悲しかった。


けれど、それ以上に腹が立った。


「何なのよ」


声が震えた。


「みんなでそんな顔して。私が家族を幸せにしようとしてるのが、そんなに嫌なの?」


誰も答えなかった。


しばらくして、翔太が小さく言った。


「母さんはさ」


真由美が顔を上げる。


「俺たちが楽しいかどうかじゃなくて、母さんが安心したいだけじゃん」


その言葉に、真由美は何も言えなかった。


けれど翌朝には、いつものように笑っていた。


「昨日はちょっと疲れてたね」


誰も返事をしなかった。


「今日はどこか食べに行こうか」


「いい」


翔太が答えた。


「俺、友達と食べるから」


「結衣は?」


「部活」


「浩二さんは?」


「仕事」


真由美は笑った。


「そっか」


誰も責めなかった。


誰も怒らなかった。


それが、かえって怖かった。


その日の夕方。


ゴミを出しに外へ出ると、佳代がいた。


手には、小さな紙袋を持っている。


「お出かけですか?」


真由美が聞くと、佳代は少し笑った。


「ええ。友達と食事に」


真由美は意外そうな顔をした。


「楽しそうですね」


「ええ」


佳代は少し考えてから言った。


「たまには、楽しまないとね」


その言葉に、真由美は笑った。


「そうですよ。人生、一度きりなんだから」


佳代も笑った。


二人とも、相手の言葉の意味を知らなかった。


その夜。


久しぶりに、四人が揃って食卓についた。


真由美は料理を並べた。


「今日はみんな揃ったね」


浩二がビールを開ける。


翔太はスマホを伏せた。


結衣は箸を持った。


「ねえ」


真由美が言った。


「今日、学校どうだった?」


「普通」


「仕事は?」


「普通」


「部活は?」


「普通」


どれも、短い返事だった。


それでも真由美は笑った。


「じゃあ、今日も楽しかったね」


三人が顔を見合わせた。


ほんの一瞬だった。


けれど、誰も否定しなかった。


「うん」


翔太が言った。


「楽しかった」


「うん」


結衣も言った。


浩二も、


「そうだな」


と言った。


真由美は嬉しそうに笑った。


「やっぱり家族っていいね」


四人とも笑った。


その笑顔は、以前の写真と同じだった。


誰が見ても、幸せそうだった。


ただ、誰も本当のことを言わなかった。


浩二は、会社を辞めたいと思っている。


翔太は、学校でいじめられている。


結衣は、母親に何を話しても「そんな顔しないの」と言われることを知っている。


そして真由美は、その三人が何かを隠していることに、もう気づいていた。


それでも、聞かなかった。


聞いてしまえば、楽しくなくなる。


家族が幸せではないと知ってしまう。


だから、聞かない。


見ない。


考えない。


食卓には笑い声だけが残った。


悲しい家には、悲しい顔がある。


怒っている家には、怒鳴り声がある。


幸せな家には、笑い声がある。


では、楽しい家には――何があるのだろう。


誰も本当のことを言わない。


誰も本当のことを聞かない。


それでも、笑っている。


それが、楽しい家だった。



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