【楽】
人は、楽しそうな人間を見ると、幸せなのだと思う。
よく笑う。
よく喋る。
休日には出かける。
家族で写真を撮る。
それだけで、その家には悩みがないように見える。
高橋真由美は、そういう人だった。
「人生なんて、楽しまなきゃ損よ」
それが口癖だった。
夫の浩二。
高校生の息子、翔太。
中学生の娘、結衣。
四人家族で、休日にはよく出かけた。
外食。
旅行。
季節のイベント。
誕生日。
クリスマス。
家族写真も多かった。
真由美は、それをSNSに載せるのが好きだった。
《今日も家族で幸せ♡》
写真の中では、四人とも笑っている。
近所の人間も、あの家を幸せな家庭だと思っていた。
佳代のことを、真由美は少し苦手にしていた。
夫を亡くして三年。
いつ見ても一人で、いつ見ても静かだった。
「いつまで引きずるんだろうね」
以前、真由美は美奈子にそう言った。
「人生、一度きりなのに」
美奈子は曖昧に笑った。
佳代は聞いていなかった。
少なくとも、そのときは。
真由美には、悲しみにしがみつく人間の気持ちが理解できなかった。
悲しいなら、楽しいことをすればいい。
嫌なことがあったなら、笑えばいい。
家族なんだから、仲良くすればいい。
そうすれば、幸せになれる。
真由美は、本気でそう思っていた。
だから、翔太が学校から帰ってきて黙っていても、
「どうしたの?」
とは聞かなかった。
「疲れてるんでしょ。今日は美味しいもの食べよう」
結衣が泣いていても、
「そんな顔しないの」
と言った。
浩二が仕事の愚痴をこぼせば、
「またその話? せっかく家に帰ってきたんだから、楽しい話しようよ」
笑って終わらせた。
悲しい話は嫌いだった。
重い話も嫌いだった。
誰かの不機嫌も嫌いだった。
泣いている人間を見ると、胸の奥がざらついた。
せっかく楽しく生きようとしているのに。
どうして水を差すのか。
だから、家族が笑っていると安心した。
笑っていれば大丈夫。
真由美は、そう信じていた。
ある夜、結衣が言った。
「お母さん」
「なに?」
「今日、学校で……」
「うん?」
「……やっぱりいい」
「何よ。暗い顔して」
「なんでもない」
「じゃあ、笑って」
結衣は笑った。
ぎこちなく。
真由美も笑った。
「ほら。可愛いじゃん」
そのとき、浩二が箸を置いた。
「もういいだろ」
「何が?」
「無理に笑わせなくても」
真由美は笑ったまま夫を見た。
「無理になんかさせてないよ」
「させてるだろ」
「家族なんだから、明るくいたほうがいいじゃない」
「お前にとってはな」
その一言で、真由美の笑顔が止まった。
「……私が悪いの?」
浩二は答えなかった。
翔太も、結衣も、何も言わなかった。
真由美は三人の顔を見た。
誰も笑っていない。
そのことが、悲しかった。
けれど、それ以上に腹が立った。
「何なのよ」
声が震えた。
「みんなでそんな顔して。私が家族を幸せにしようとしてるのが、そんなに嫌なの?」
誰も答えなかった。
しばらくして、翔太が小さく言った。
「母さんはさ」
真由美が顔を上げる。
「俺たちが楽しいかどうかじゃなくて、母さんが安心したいだけじゃん」
その言葉に、真由美は何も言えなかった。
けれど翌朝には、いつものように笑っていた。
「昨日はちょっと疲れてたね」
誰も返事をしなかった。
「今日はどこか食べに行こうか」
「いい」
翔太が答えた。
「俺、友達と食べるから」
「結衣は?」
「部活」
「浩二さんは?」
「仕事」
真由美は笑った。
「そっか」
誰も責めなかった。
誰も怒らなかった。
それが、かえって怖かった。
その日の夕方。
ゴミを出しに外へ出ると、佳代がいた。
手には、小さな紙袋を持っている。
「お出かけですか?」
真由美が聞くと、佳代は少し笑った。
「ええ。友達と食事に」
真由美は意外そうな顔をした。
「楽しそうですね」
「ええ」
佳代は少し考えてから言った。
「たまには、楽しまないとね」
その言葉に、真由美は笑った。
「そうですよ。人生、一度きりなんだから」
佳代も笑った。
二人とも、相手の言葉の意味を知らなかった。
その夜。
久しぶりに、四人が揃って食卓についた。
真由美は料理を並べた。
「今日はみんな揃ったね」
浩二がビールを開ける。
翔太はスマホを伏せた。
結衣は箸を持った。
「ねえ」
真由美が言った。
「今日、学校どうだった?」
「普通」
「仕事は?」
「普通」
「部活は?」
「普通」
どれも、短い返事だった。
それでも真由美は笑った。
「じゃあ、今日も楽しかったね」
三人が顔を見合わせた。
ほんの一瞬だった。
けれど、誰も否定しなかった。
「うん」
翔太が言った。
「楽しかった」
「うん」
結衣も言った。
浩二も、
「そうだな」
と言った。
真由美は嬉しそうに笑った。
「やっぱり家族っていいね」
四人とも笑った。
その笑顔は、以前の写真と同じだった。
誰が見ても、幸せそうだった。
ただ、誰も本当のことを言わなかった。
浩二は、会社を辞めたいと思っている。
翔太は、学校でいじめられている。
結衣は、母親に何を話しても「そんな顔しないの」と言われることを知っている。
そして真由美は、その三人が何かを隠していることに、もう気づいていた。
それでも、聞かなかった。
聞いてしまえば、楽しくなくなる。
家族が幸せではないと知ってしまう。
だから、聞かない。
見ない。
考えない。
食卓には笑い声だけが残った。
悲しい家には、悲しい顔がある。
怒っている家には、怒鳴り声がある。
幸せな家には、笑い声がある。
では、楽しい家には――何があるのだろう。
誰も本当のことを言わない。
誰も本当のことを聞かない。
それでも、笑っている。
それが、楽しい家だった。




