【怒】
人は、自分が怒っている理由をよく知っているつもりでいる。
約束を破られたから。
嘘をつかれたから。
馬鹿にされたから。
裏切られたから。
だから怒っている。
そう思っている。
佐々木修一も、そういう男だった。
「俺は、筋が通らないことが嫌いなんだ」
それが口癖だった。
妻の由美は、もう何度も聞いていた。
朝、靴下を脱ぎっぱなしにした。
怒る。
夕飯の時間に帰ってこなかった。
怒る。
息子が宿題を忘れた。
怒る。
隣の家の駐車の仕方が少し気に入らない。
それにも怒った。
怒る理由はいくらでもあった。
だから修一は、自分を短気だとは思っていなかった。
むしろ、我慢強いほうだと思っていた。
「俺が何も言わなくなったら終わりだからな」
由美は、その言葉を聞くたびに黙った。
何が終わるのかは、聞かなかった。
ある日の夕方、修一は仕事から帰ってきた。
玄関を開けると、向かいの家から笑い声が聞こえた。
佐藤家だった。
美奈子の笑い声。
そのあとに、娘の声。
修一は靴を脱ぎながら顔をしかめた。
「毎日毎日、よく笑えるな」
由美が台所から顔を出した。
「何?」
「いや」
修一は鞄を置いた。
「隣、また騒いでる」
「そんなに大きくないじゃない」
「そういう問題じゃない」
由美は何も言わなかった。
修一はテレビをつけた。
しばらくして、また笑い声が聞こえた。
「……うるさいな」
「窓閉めたら?」
「そういうことじゃないって言ってるだろ」
由美は窓を閉めた。
修一は、それを見て少し満足した。
自分の言ったことが通った。
それだけのことだった。
その夜、息子の拓也が帰ってきた。
「ただいま」
「遅い」
「ごめん」
「何してた」
「友達と話してた」
「誰だ」
「……学校の友達」
「男か?」
拓也が黙った。
修一は眉をひそめた。
「何で答えない?」
「別に」
「別にじゃないだろ」
「父さんには関係ないじゃん」
修一は立ち上がった。
「何だ、その言い方」
拓也は黙った。
由美が間に入った。
「もういいじゃない。帰ってきたんだから」
「お前はいつもそうやって甘やかす」
「甘やかしてないよ」
「じゃあ何なんだよ」
「あなたが怒ってるだけでしょ」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
修一は妻を見た。
由美は目を逸らさなかった。
「俺が悪いって言いたいのか?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味だよ」
「……疲れたの」
その一言だけだった。
修一は黙った。
由美が疲れたと言ったことよりも、それを自分に言ったことが許せなかった。
俺だって疲れている。
俺だって我慢している。
俺だって家族のことを考えている。
そう思った。
なのに、誰も分かってくれない。
翌朝。
修一は一人で朝食を食べた。
妻も息子も、ほとんど口をきかなかった。
テレビから、天気予報が流れていた。
「今日は穏やかな一日となるでしょう」
修一は鼻で笑った。
穏やか。
そんなもの、家の中にあるわけがない。
出勤するため玄関を出ると、向かいの美奈子がいた。
「おはようございます」
美奈子は笑った。
修一は軽く頭を下げた。
「毎日楽しそうですね」
嫌味のつもりだった。
けれど美奈子は嬉しそうにした。
「はい。楽しいですよ」
修一は、なぜか腹が立った。
「そうですか」
「佐々木さんのお宅も、仲良さそうじゃないですか」
「……どこがですか」
美奈子は少し困ったように笑った。
「え?」
「仲良さそうに見えます?」
「はい……」
修一は笑った。
「見えるだけですよ」
そう言って歩き出した。
数歩進んだところで、振り返った。
美奈子はまだそこにいた。
笑顔だった。
修一はまた腹が立った。
ああいう人間が一番嫌いだ。
何も分かっていないくせに、幸せそうな顔をしている。
自分だけが幸せなら、それでいいのか。
そう思った。
その日の夜。
修一は帰宅すると、妻に言った。
「今日、向かいの佐藤さんと話した」
「そう」
「幸せそうだったよ」
由美は返事をしなかった。
「羨ましいか?」
「何が?」
「ああいう家」
由美はしばらく黙ってから言った。
「……あなたが思ってるほど、羨ましくないよ」
「何で?」
「分からない」
「じゃあ、何なら羨ましいんだよ」
由美は修一を見た。
「怒らない家」
修一は黙った。
それから笑った。
「俺が怒ってるのは、お前たちのためだろ」
由美も笑った。
悲しそうな笑い方だった。
「そうだね」
その夜、修一は一人で眠った。
妻は別の部屋で寝た。
息子は友達の家に泊まった。
家の中は静かだった。
修一は、ようやく静かになったと思った。
なのに眠れなかった。
時計の音が妙に大きく聞こえた。
隣の家から、笑い声がした。
修一は布団から起き上がった。
窓を開けた。
佐藤家の明かりが見えた。
家族三人で食卓を囲んでいる。
また笑っている。
修一は窓を閉めた。
「……くだらない」
そう呟いた。
けれど、その声には怒りよりも寂しさが混じっていた。
本人だけが、それに気づかなかった。
翌朝、修一が出勤しようと玄関を出ると、向かいの家の前に救急車が止まっていた。
美奈子が泣いていた。
修一は足を止めた。
昨日まで、あれほど羨ましいと思っていた家だった。
笑い声の絶えない家。
幸せそうな家。
何も問題がないように見えた家。
修一は初めて思った。
自分が知らないだけで、誰の家にも何かあるのかもしれない。
そして、ほんの一瞬だけ。
自分の家に帰りたいと思った。
その直後、修一は自分自身に腹を立てた。
そんなことを思った自分が、情けなかった。
人間は、不思議な生き物だ。
自分が欲しかったものを目の前にすると、今度はそれを憎み始める。
そして、失ってから初めて気づく。
本当に欲しかったものが、何だったのか。
修一は救急車を見つめながら、妻に電話をかけようとした。
けれど、やめた。
自分から謝るのは、負けたような気がした。
だから今日も、怒っている。
誰かに勝つためではない。
自分が寂しいと認めないために。




