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隣の芝生は……  作者: 志に異議アリ


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2/4

【怒】


人は、自分が怒っている理由をよく知っているつもりでいる。


約束を破られたから。


嘘をつかれたから。


馬鹿にされたから。


裏切られたから。


だから怒っている。


そう思っている。


佐々木修一も、そういう男だった。


「俺は、筋が通らないことが嫌いなんだ」


それが口癖だった。


妻の由美は、もう何度も聞いていた。


朝、靴下を脱ぎっぱなしにした。


怒る。


夕飯の時間に帰ってこなかった。


怒る。


息子が宿題を忘れた。


怒る。


隣の家の駐車の仕方が少し気に入らない。


それにも怒った。


怒る理由はいくらでもあった。


だから修一は、自分を短気だとは思っていなかった。


むしろ、我慢強いほうだと思っていた。


「俺が何も言わなくなったら終わりだからな」


由美は、その言葉を聞くたびに黙った。


何が終わるのかは、聞かなかった。


ある日の夕方、修一は仕事から帰ってきた。


玄関を開けると、向かいの家から笑い声が聞こえた。


佐藤家だった。


美奈子の笑い声。


そのあとに、娘の声。


修一は靴を脱ぎながら顔をしかめた。


「毎日毎日、よく笑えるな」


由美が台所から顔を出した。


「何?」


「いや」


修一は鞄を置いた。


「隣、また騒いでる」


「そんなに大きくないじゃない」


「そういう問題じゃない」


由美は何も言わなかった。


修一はテレビをつけた。


しばらくして、また笑い声が聞こえた。


「……うるさいな」


「窓閉めたら?」


「そういうことじゃないって言ってるだろ」


由美は窓を閉めた。


修一は、それを見て少し満足した。


自分の言ったことが通った。


それだけのことだった。


その夜、息子の拓也が帰ってきた。


「ただいま」


「遅い」


「ごめん」


「何してた」


「友達と話してた」


「誰だ」


「……学校の友達」


「男か?」


拓也が黙った。


修一は眉をひそめた。


「何で答えない?」


「別に」


「別にじゃないだろ」


「父さんには関係ないじゃん」


修一は立ち上がった。


「何だ、その言い方」


拓也は黙った。


由美が間に入った。


「もういいじゃない。帰ってきたんだから」


「お前はいつもそうやって甘やかす」


「甘やかしてないよ」


「じゃあ何なんだよ」


「あなたが怒ってるだけでしょ」


その言葉で、部屋の空気が変わった。


修一は妻を見た。


由美は目を逸らさなかった。


「俺が悪いって言いたいのか?」


「そういう意味じゃない」


「じゃあどういう意味だよ」


「……疲れたの」


その一言だけだった。


修一は黙った。


由美が疲れたと言ったことよりも、それを自分に言ったことが許せなかった。


俺だって疲れている。


俺だって我慢している。


俺だって家族のことを考えている。


そう思った。


なのに、誰も分かってくれない。


翌朝。


修一は一人で朝食を食べた。


妻も息子も、ほとんど口をきかなかった。


テレビから、天気予報が流れていた。


「今日は穏やかな一日となるでしょう」


修一は鼻で笑った。


穏やか。


そんなもの、家の中にあるわけがない。


出勤するため玄関を出ると、向かいの美奈子がいた。


「おはようございます」


美奈子は笑った。


修一は軽く頭を下げた。


「毎日楽しそうですね」


嫌味のつもりだった。


けれど美奈子は嬉しそうにした。


「はい。楽しいですよ」


修一は、なぜか腹が立った。


「そうですか」


「佐々木さんのお宅も、仲良さそうじゃないですか」


「……どこがですか」


美奈子は少し困ったように笑った。


「え?」


「仲良さそうに見えます?」


「はい……」


修一は笑った。


「見えるだけですよ」


そう言って歩き出した。


数歩進んだところで、振り返った。


美奈子はまだそこにいた。


笑顔だった。


修一はまた腹が立った。


ああいう人間が一番嫌いだ。


何も分かっていないくせに、幸せそうな顔をしている。


自分だけが幸せなら、それでいいのか。


そう思った。


その日の夜。


修一は帰宅すると、妻に言った。


「今日、向かいの佐藤さんと話した」


「そう」


「幸せそうだったよ」


由美は返事をしなかった。


「羨ましいか?」


「何が?」


「ああいう家」


由美はしばらく黙ってから言った。


「……あなたが思ってるほど、羨ましくないよ」


「何で?」


「分からない」


「じゃあ、何なら羨ましいんだよ」


由美は修一を見た。


「怒らない家」


修一は黙った。


それから笑った。


「俺が怒ってるのは、お前たちのためだろ」


由美も笑った。


悲しそうな笑い方だった。


「そうだね」


その夜、修一は一人で眠った。


妻は別の部屋で寝た。


息子は友達の家に泊まった。


家の中は静かだった。


修一は、ようやく静かになったと思った。


なのに眠れなかった。


時計の音が妙に大きく聞こえた。


隣の家から、笑い声がした。


修一は布団から起き上がった。


窓を開けた。


佐藤家の明かりが見えた。


家族三人で食卓を囲んでいる。


また笑っている。


修一は窓を閉めた。


「……くだらない」


そう呟いた。


けれど、その声には怒りよりも寂しさが混じっていた。


本人だけが、それに気づかなかった。


翌朝、修一が出勤しようと玄関を出ると、向かいの家の前に救急車が止まっていた。


美奈子が泣いていた。


修一は足を止めた。


昨日まで、あれほど羨ましいと思っていた家だった。


笑い声の絶えない家。


幸せそうな家。


何も問題がないように見えた家。


修一は初めて思った。


自分が知らないだけで、誰の家にも何かあるのかもしれない。


そして、ほんの一瞬だけ。


自分の家に帰りたいと思った。


その直後、修一は自分自身に腹を立てた。


そんなことを思った自分が、情けなかった。


人間は、不思議な生き物だ。


自分が欲しかったものを目の前にすると、今度はそれを憎み始める。


そして、失ってから初めて気づく。


本当に欲しかったものが、何だったのか。


修一は救急車を見つめながら、妻に電話をかけようとした。


けれど、やめた。


自分から謝るのは、負けたような気がした。


だから今日も、怒っている。


誰かに勝つためではない。


自分が寂しいと認めないために。



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