【喜】
人は、他人の幸せには敏感だ。
楽しそうに笑っている。
家族で食卓を囲んでいる。
休日には一緒に出かけている。
それだけで、その家は幸せなのだと思う。
佐藤美奈子は、よく笑う女だった。
近所でも評判だった。
「佐藤さんのところ、仲いいわよね」
そう言われると、美奈子は嬉しそうに笑った。
夫の健司。
高校生の娘、彩。
三人家族。
特別裕福なわけではない。
大きな家でもない。
けれど、美奈子は自分たちを幸せな家族だと思っていた。
いや。
そう思っていたかった。
「ねえ、幸せだよね?」
夕食の途中で、美奈子はよく夫に聞いた。
「ん?」
「私たち」
健司は少し考えてから、
「まあ、幸せだろ」
と答える。
「でしょ?」
美奈子は笑う。
それを聞くと安心した。
幸せというのは、こうやって確認するものなのだと思っていた。
ある日、彩が学校から帰ってきた。
玄関を開ける音がして、
「ただいま」
という声がした。
いつもより小さい。
美奈子は台所から顔を出した。
「おかえり。どうしたの?」
「別に」
「学校で何かあった?」
「ない」
彩は靴を脱いだ。
「本当に?」
「うん」
そのまま部屋に行こうとする。
美奈子は後ろから声をかけた。
「嫌なことがあったなら、お母さんに言っていいんだよ」
彩は足を止めた。
しばらく黙ってから、
「言わない」
と言った。
「どうして?」
「お母さん、悲しくなるから」
美奈子は笑った。
「そんなことないよ」
「なるよ」
「ならないって」
「なるじゃん」
彩は振り返った。
「私が嫌だったこと話すと、お母さんまで暗くなるじゃん」
美奈子は言葉を失った。
彩は困ったように笑った。
「だから、いい」
そして自分の部屋に入った。
ドアが閉まる。
美奈子は、その場に立ったままだった。
しばらくして、小さく呟いた。
「……じゃあ、笑ってればいいじゃない」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
その夜。
健司が帰ってきた。
夕食を並べる。
美奈子はいつも通り話した。
今日スーパーで何が安かったとか。
近所の人がどうしたとか。
テレビで見た話とか。
健司は相槌を打つ。
彩は静かに食べている。
美奈子は笑った。
「ねえ、今日も幸せだね」
健司が顔を上げた。
「何だよ、急に」
「いいじゃん。幸せでしょ?」
「まあ……」
「まあ、じゃなくて」
美奈子は笑いながら言った。
「幸せ?」
健司は少し黙った。
「……そうだな」
「ほら」
美奈子は嬉しそうに笑った。
彩だけが、俯いていた。
それから、美奈子は近所の佳代をよく見るようになった。
夫を亡くして三年になる女性だった。
いつも一人。
静かで。
誰かと喧嘩することもない。
美奈子には、それが羨ましく見えた。
「一人って、楽そう」
そう思った。
家族の機嫌を気にする必要もない。
誰かが黙っていても、自分のせいだと思わなくていい。
自分の好きな時間に、自分の好きなことができる。
佳代はきっと、穏やかに暮らしている。
そう思っていた。
ある晩、彩が食卓で言った。
「お母さん」
「ん?」
「明日、友達と帰るから」
「どうして?」
「ちょっと寄るところある」
「何時になるの?」
「わからない」
美奈子の顔から笑顔が消えた。
「家族より友達のほうがいいんだ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「……もういい」
彩が箸を置いた。
美奈子も箸を置いた。
「何なの?」
声が少し大きくなった。
「私が何か悪いことした?」
「してないよ」
「じゃあ、何でそんな態度なの?」
彩は黙っている。
その沈黙が、美奈子には責められているように感じた。
「私だって頑張ってるのに」
誰も答えない。
「みんなが幸せになるようにしてるのに」
それでも、誰も答えない。
「どうして分かってくれないの?」
気づけば、美奈子は怒っていた。
怒っている自分を見て、少しだけ安心した。
怒る理由があるなら、自分は間違っていない。
家族を大切にしているからこそ、腹が立つ。
そう思えた。
その翌朝。
ゴミを出しに外へ出ると、佳代と会った。
「おはようございます」
「おはよう」
佳代が微笑む。
美奈子は、ふと思った。
この人はいいな。
誰にも振り回されなくて。
静かで。
自由で。
「一人って、楽ですよね」
何気なく言った。
佳代は少しだけ考えてから、
「……そうですね」
と答えた。
美奈子は笑った。
やっぱりそうだ。
自分も一人になったら、きっと楽になれる。
その日の夜。
健司はスマートフォンを見ていた。
美奈子は後ろから覗き込んだ。
「何見てるの?」
「別に」
健司は画面を伏せた。
その瞬間、美奈子の胸がざわついた。
「ねえ」
「ん?」
「私たち、幸せだよね?」
健司は答えなかった。
「ねえ?」
「……そうだな」
「幸せだよね?」
「そうだよ」
健司はそう言って、目を逸らした。
美奈子は笑った。
「よかった」
その夜。
健司が眠ったあと、美奈子は一人で台所に立っていた。
冷蔵庫の中には、明日の朝食の材料が並んでいる。
娘の好きなもの。
夫の好きなもの。
家族のために買ったもの。
それを見ながら、美奈子は思った。
私は幸せだ。
ちゃんと幸せ。
そう思えば、胸の奥のざらつきが少しだけ消えた。
そして、また笑った。
幸せな家庭というのは、案外、よく笑う。
だから誰も、その笑顔を疑わない。
少なくとも。
本人が、それを疑わないうちは。




