第10話 食卓
雪解け水が畑の畝を伝い始めた朝、ブラント印の瓶詰めが王都で売り切れたという知らせが届いた。
フリッツが手紙を持ってきた。アンナからだ。
「王都の高級食材市場に卸した分、全量完売。追加注文が三件入っています。『ブラント印の酢漬けは宮廷料理人の間でも話題になっている』とのこと。おめでとう、イレーネさん!」
手紙を読み終えて、窓の外を見た。
三ヶ月前は雑草だらけだった土地が、今は整然とした畝を作っている。この春に植えた根菜が、夏には収穫できる。
ブラント男爵領の再興。母の土地が、また息を吹き返す。
「お嬢様」
フリッツが穏やかな声で言った。
「男爵様がお呼びです」
父の部屋に行くと、エーリヒは窓辺に座っていた。病床から起き上がれる日が増えている。
「王都から評価されたそうだな」
「はい、父上」
「……母上が聞いたら、喜んだだろうな」
父の目が少し潤んでいた。
「イレーネ。お前がこの土地に帰ってきてくれて、私は——」
「父上。謝らないでくださいね」
「……ありがとう、と言おうとしたんだが」
笑った。久しぶりに、声を出して笑った。
◇
午後、マルタから手紙が届いた。
今度の手紙は短かった。
「奥方様。子爵様は毎日、あの献立表を読み返しておいでです。朝も晩も、十二冊の背表紙を並べ直して、厨房に来られます。同じ味にはなりません。リゼット様は先月お発ちになりました。『こんな落ちぶれた領地にはいられない。保存食と田舎者の使用人しかないこの屋敷に、なぜ来てしまったのかしら』と仰せでした」
(——あの人は最後まで、あの屋敷を支えていた人たちの価値がわからなかったのね)
手紙を膝の上に置いた。
胸が痛まないと言えば嘘になる。十年間一緒にいた人だ。その人が毎日、私の献立表を読み返している。
リゼットも去った。夫を取り、正妻の座を狙い、全てを手に入れるはずだった人が、結局この領地に根を張る覚悟はなかった。
マルタへの返事を書いた。
「マルタへ。長い間、ありがとう。あなたは私の十年間の厨房の家族でした。もし、いつかあの屋敷を出る日が来たら、ブラントの厨房に来てください。ここには、あなたの居場所があります」
封をして、フリッツに託した。
これが最後の手紙になる。もう振り返らない。
◇
夕方。畑の端で苗の手入れをしていると、足音が聞こえた。
クラウスだった。
領主会議の後、毎日は来なくなった。あの日の証言で、一部の貴族から睨まれたと聞いている。それでも週に一度は必ず来る。
今日は手ぶらだった。水桶もない。外套の襟元を直しながら、畑の入口に立っている。
「クラウス殿」
「……ああ」
いつもより声が硬い。緊張しているのだろうか。この人が緊張するのは珍しい。
畑に入ってきた。苗の間を歩いて、私の隣に立った。
「話がある」
「どうぞ」
「——いや、その」
言い淀んだ。
領主会議で子爵を相手に堂々と証言した人が、今は言葉を選べずにいる。
「あなたの作る食卓に」
声が震えていた。低い声が、さらに低くなって、最後はほとんど聞き取れないほどだった。
「毎日、座らせてほしい」
畑の風が吹いた。二月の風。まだ冷たいが、どこかに春の予感が混じっている。
この人は今、不器用に、精一杯の言葉で、私に求婚している。
食卓。料理。献立。
私の全てを否定した言葉たちが、この人の口から出ると、まるで違うものに変わる。
「家事くらい誰でもできる」と言った人がいた。
「あなたの作る食卓に座らせてほしい」と言う人がいる。
十年間、一度も言ってもらえなかった言葉——あなたの作るものに、価値がある。あなたのそばにいたい。
目が熱くなった。泣かなかった。もう泣くのは終わりにしたから。
代わりに、笑った。
「では、明日の献立を考えなくてはなりませんね」
クラウスの顔が、一瞬だけ呆けた。それから——ほんの少しだけ——口元が緩んだ。
この人の笑顔を見たのは、初めてだった。
◇
春の気配が漂うブラント男爵領の畑で、二人並んで苗を植えた。
四ヶ月前に教わった通りに。ただ今度は、隣にいる人の手が触れても、もう怖くない。
「今夜は何が食べたいですか」
「——何でもいい」
「それが一番困るのですけれど」
「……蕪の、あの酢漬け」
「かしこまりました」
同じ言葉を、違う温度で言った。
十年分の献立を書き残した夜、私はまだ知らなかった。
本当の食卓は、味だけでは作れないのだと。
誰と食べるか。誰のために作るか。そして——誰が「おいしい」と言ってくれるか。
「……それと」
クラウスが、まだ赤い耳のまま付け足した。
「酢漬けだけじゃなく、スープも」
「欲張りですね」
「——お前の作るものなら、全部食べる」
不器用な人だ。プロポーズの直後に、追加注文。
笑いが止まらなかった。




