第三十三章 そして、愛の賛歌へ……④
【前回までのあらすじ】アンジェ(川野)がラント国に滞在して二週間。第二王子フェルゼンは彼女と影のように寄り添う黒狼に複雑な不快感を抱く。周囲から冷遇されるアンジェ(川野)。政務に追われながらもフェルゼンは、彼女の「ピアノを弾きたい」という願いを叶えるため、亡き妹のピアノがある部屋へと案内する。そこでアンジェ(川野)がピアノを弾き始めると、彼女の手は男の手へと変化し・・・
アンジェ(川野)が弾くピアノの調べは、開け放たれた窓を通り抜け、彼女の部屋の外テラスへも届いていた。
黒狼ギルバートは、数十年ぶりに聴くピアノの音を一音も漏らさず聴き入っていた。
瞼を閉じると12才の少年時代の情景が鮮やかに蘇る。
ニナ……王宮の一室、そこは将来、ルーク王妃の婚約者として用意されたニナ・シエル・クラレンス伯爵令嬢の部屋だった。
部屋の真ん中には白いグランドピアノが置かれ、弟ルークとともに、ギルバートはニナのピアノの演奏を愉しみに聞いていた。
その日は、父王ツォークが第一王子のルークを連れて、領地の視察へ訪れていて、ニナの部屋にいたのは、10歳のニナと12歳のギルバートだけだった。
亜麻色の髪の少女ニナが奏でる曲は、いつも清らかで美しい。
彼女はピアノを弾き終わると、必ずギルバートの顔を覗き込み、
「ギル兄さま、どうでしたか? 」と聴いてきた。
「……俺じゃなく、それはルークに言えよ」
と言うと、ニナは寂しそうにコクリと頷いていた。
ギルバートは気づいていた。ニナが婚約者のルークではなく、自分に好意を抱いていることを。
ギルバートの身分は安定していない。
そのため、彼は目立つようなことは避けていた。
それでも王宮内では”連れ子”と陰口をたたかれる。
義弟より下の第二王子の立場だが、母が父ツオーク王との間に男子をもうけたら、父王と血の繋がらない自分は第三王子へと降格する。
ニナがそんな自分に好意を向けるのは自殺行為で、誰も幸せにならない。
ニナに恋心があっても結ばれることはないし、恋の成就を考えることは、再婚した母を苦しめ、父王と国をも裏切る行為だと信じてやまなかった。
ニナはピアノを弾き終えると、静かに立ち上がりギルバートの前に立った。
「ギル兄さま……あの……手を出してください……」
ニナに言われるまま、ギルバートは、右の手の平を差し出した。
ニナは、自分の人差し指で、彼の掌に何かを描いた。
曲線の何か、ゆっくりと一本の線を引くようにして描かれたのは、「ハート」の形だった。
真っ赤な顔で俯いているニナの指を、ギルバートはわざとパシッと払いのける。
身体をぴくっと振るわせ、ニナが見上げた。
「……俺は、おまえのことなんて好きじゃないんだ」
心にもない言葉を投げかける。
みるみるうちに、ニナの瞳に涙がたまり、ハラハラと涙がこぼれていく。
ギルバートは、ポケットから無造作にハンカチを取り出すと、ニナの手にハンカチを握らせた。
「……ニナ、今日のことは誰にも言うな。俺も言わないから……」
ニナは返事もなく、泣きじゃくっていた。
あの当時はそれが正しいと信じて疑わなかったが、そんな嘘を言う必要もなかった。
時が経てば、自然とルークと愛し合っていったからだ。
自分を納得させるために押し殺した本当の気持ち、胸の痛みが、ピアノの演奏で心の中に満ちて来る。
(ニナの部屋がある方から、アンジェの匂いがする……いまピアノを弾いているのはアンジェか……)
黒狼ギルバートは、重い溜息をつくように鼻を鳴らすと、テラスの床に深く身体を伏せる。
義弟のフェルゼンの態度は忌々しいが、それももう少しの辛抱だと、彼は自分に言い聞かせた。
次の満月の夜は必ず……俺の妻となるアンジェを、俺の腕の中で強く抱きしめ、愛を誓う、今度は自分の気持ちに偽りなく……。
ピアノの演奏は続いている。アンジェ(川野)が、その指先から惜しみなく奏でる平穏の旋律は、聴く者すべての心に立つ小波を穏やかに鎮め、奥底までも清らかに透き通らせていく。ラント国の王宮にいるすべての人々の心が春の雪解けのように優しく包み込まれた。
その調べに浸る人々は、影のように忍び寄る殺意が、すぐ背後まで迫っていることに誰も気づかなかった。
次回は8/1に投稿させて頂きますので、よろしくお願いいたしますm(*_ _)m




