第三十三章 そして、愛の賛歌へ……③
【前回までのあらすじ】アンジェ(川野)がラント国に滞在して二週間。第二王子フェルゼンは彼女と影のように寄り添う黒狼に複雑な不快感を抱く。周囲から冷遇されるアンジェ(川野)。政務に追われながらもフェルゼンは、彼女の「ピアノを弾きたい」という願いを叶えるため、亡き妹のピアノがある部屋へと案内する。そこでアンジェ(川野)がピアノを弾き始めると、彼女の手は男の手へと変化し・・・
「次は……愛の賛歌……この王宮のすべての方へ……」
次に、彼女の指先から、静謐な空気を震わせて響き渡っていくのは、この世のものとは思えないほど美しい旋律。
鍵盤の全てを使って弾かれるような、その曲は強く、優しく、沈黙していた部屋に新たな命の灯火を与えるようだった。
繊細でありながら、聴く者の魂を直接揺さぶっていく。
時に燃える火のように熱く圧倒的でありながら、、時に氷のように冷ややかな情熱をはらむ曲調の演奏に、フェルゼンの頬へ涙が伝わっていく。
彼は言葉を失った。
銀髪の美しい少女が、これほどまでの才能を隠し持っていたとは夢にも思わなかったからだ。
そこへ、小さく控えめなノックが数回。
アンジェ(川野)はずっとピアノを弾き続けている。
フェルゼンがそっと扉を開けると、侍従長が恭しく頭を下げた。
「フェルゼン様。突然……失礼いたします」
侍従長からはアンジェ(川野)の手は見えていないが、彼もまた、アンジェ(川野)のピアノの演奏に驚愕の表情を浮かべている。
「フェルゼン様、陛下ならびにグレイシア王妃閣下より、おことづけがございます。……アンジェ様の弾かれているピアノの調べにお心を打たれていらっしゃるご様子。ぜひ、もっとよく聞こえるようにしてほしいと仰せです。どうか、扉と窓をすべて開け放って頂けないでしょうか」
「ああ、わかったよ、侍従長……見事だろう、俺の未来の花嫁は……」
侍従長は言葉を選ぼうとしたものの、ピアノの演奏に聴き惚れている様子で、
「はい……さようでございます」
と、答えてから、アンジェ(川野)がまだ正式に花嫁に決まっていないことにハッと気づき、頭を下げて扉から出て行こうとすると、扉の前には、多くの使用人が、アンジェ(川野)のピアノの方を覗くように見ていた。
フェルゼンは、静かに窓へ近寄り、自ら重厚な窓を次々に開け放った。
ふと窓の外を見ると、そこに大勢の観客がいることに気付いた。
王宮で働く人々……庭掃除をしている掃除夫、洗濯物を運んでいる下女、厳しい顔で歩いていた衛兵たち……。
すべての人間が、その手を止め、この部屋を見上げ、部屋から聴こえてくる調べに心を奪われたように聴きいっていた。
いつのまにか王宮のすべての部屋の窓もテラスも開け放たれている。
調理人たちは手を止め、ドレスを縫う針子も手を止めて、皆、それぞれが、魂を震わせながら聴きいっていた。
廊下の使用人たちは、今まで冷ややかに見ていた銀髪の少女を、畏敬の念を持ち見つめている。
アンジェ(川野)が曲を弾き終わった瞬間、フェルゼンは叫んだ。
「アンジェ、頼む、今の曲を、しばらく弾き続けてほしい……」
うふふ、と笑ったアンジェ(川野)は、再び、リストの「愛の賛歌」を弾き始めた。
曲が終わるたび、フェルゼンからアンコールがかかり、1時間同じ曲を弾き続けた。
アンジェが顔を上げる。
「……この曲を弾き終えたら、最後に私が初めて弾くことが出来た思い出の曲を弾いてもいいですか、フェルゼン様」
「うん、聴きたいね。その曲は? 」
「エリーゼのために。ある作曲家が最愛のエリーゼに贈った曲なんです」
「そう。君の好きな曲なら、きっと俺も好きだと思う」
ふふっと笑い、アンジェ(川野)は恋心の濃淡の旋律が美しい、エリーゼのために、を弾き始めた。
アンジェ(川野)の前に、再びスクリーンが現れ、若き日のベートーヴェン、画家、金髪のエリーゼと以前と同じ映像が流れ始めた。
アンジェ(川野)がピアノを弾いている1時間少々の間、王宮からはすべての音が消えていた。
フェルゼンはアンジェ(川野)がピアノを弾く光景に、いつもの美しく愛らしさに抱く気持ちとは別の胸の高鳴りを覚えた。
父や母だけではない、王宮のすべての人間が、銀髪の少女の美しい旋律の魔法で癒されていることだろう。
やはり、彼女は自分が信じた通り、かけがえのない素晴らしい女性だ。
彼女に触れたくてたまらない気持ちを留めてまで、無理強いをせず『お試しの婚約者』でいて良かった、と。
生涯の伴侶が、こんなにも気高く美しく、それに誇らしい。
俺がこの手で、彼女の愛も才能も守り抜こう、と決意した。
(俺はアンジェと結ばれるために生まれてきたんだ……これで父ツオーク王も認めざるを得ないだろう。俺が彼女をどれほど愛しているか。彼女がどれほどこの国にふさわしいか。彼女はきっと、この国の民にも歓迎されることだろう……)
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