第九話 異星人調査班の女
宇宙省の異星人調査班で会議が始まった。
異星人調査班は、宇宙省の中でも一部の関係者しかその実態を知らない組織であり、異星人に関する情報を収集分析するのが役割だ。
「キミワロン星から地球に向けて電波が発信され、また、地球の大気圏外の場所からキミワロン星に向けて電波が発信されていることが分かった」真剣な表情の班長が、数名のメンバーに語り始めた。「これから、各国が連携して詳しい調査を行うことになった。日本では、我が異星人調査班でその任務を担当することになる」
メンバーの一人である石崎奈々(なな)は、班長の話をじっと聞いている。
「調査の方法は大きく二つ。一つは電波を解析して、発信源や内容を突き止めることだ。これは、我が調査班の電波探知チームが、火星基地の観測チームと連携して調査を行う」班長はここでいったん話しを切り、奈々の方に顔を向けて話を続けた。「もう一つは、地球上のどこかにキミワロン人が潜伏している可能性があり、その居場所を突き止めることだ。それが、石崎さん、あなたの役割だ」
「はい、承知しました」奈々は、緊張した表情で答えた。
「では、各自担当の仕事にとりかかってくれ。石崎さんには、追加の情報を伝えるのでここに残ってほしい」
他のメンバーが会議室を出た後で、班長が奈々に向かって話し始めた。
「キミワロン人の居場所を突き止めると言っても、地球上のすべての個所をしらみつぶしに調べるわけにはいかない。まずは、各国でキミワロン人と直接接触した経験のある人間の周辺の調査から始める」そう言うと、班長は壁に設置されている大型スクリーンに、顔写真と経歴が記載されたデータを表示させた。「日本では、今村賢一郎博士と、生活産業省の職員だった古賀咲良の二人だ」
奈々は画面を真剣に見つめている。
「今村博士は、今でも奥さんと二人暮らしで、研究者としての仕事を続けている。一方、古賀咲良は、役所を退職後、牧場の経営者である山川陽平の妻として暮らしている。この二人の身辺調査と、本人たちへの聞き取り調査を行ってもらいたい。キミワロン人は体の形を自由自在に変えることができるようだ。キミワロン人の存在につながりそうな情報がないか、徹底的に調べてくれ」
「承知しました」奈々は真面目な表情で答えた。
三日後、石崎奈々は、今村賢一郎博士が働く研究所を訪れ、名前と来訪目的を秘書に告げた。案内された応接室で待っていると、間もなく今村が部屋に入ってきた。
「本日はご多忙な中、お時間をいただきありがとうございます。宇宙省の石崎と申します」奈々は丁寧に頭を下げた。
「ああ、ご苦労様です」今村は、軽くうなずきながら気難しい表情で答えた。
二人は応接テーブルを挟んで向かい合って座った。
「今村先生が一年ほど前にキミワロン人と交流した際のお話を、改めてお聞かせいただけませんでしょうか」
「その話なら、当時、宇宙省の連中に詳しく話したよ。その内容は知っているだろう?」今村は、ぶっきらぼうに答えた。
「はい」
「それ以上話すことはないし、今は、もうだいぶ忘れているよ」
「そうですか……」
「じゃあ、もういいかな? 私も忙しいので」
「いえ、その後のお話も伺いたいのですが」
「その後というのは?」
「キミワロン人と別れた後のこの一年間の今村先生のことです」
「どうしてそんなことを知りたいの?」
「キミワロン人がやって来たことで、私たち地球人は大きな衝撃を受け、彼らのメッセージを聞いて様々な影響を受けている人も多いと思います。その中でも、今村先生のように直接キミワロン人と交流された方々は、より大きな影響を受けているのではないかと思います。その後の研究活動や日々の暮らしにどのような影響を与えたのかを教えていただきたいのです」
「そうか……」今村は少し考えてから話を始めた。「確かに、キミワロン人との交流は、私に大きな影響を与えた」
「といいますと?」
「地球人は科学技術の進化を誇っているが、キミワロン人の科学技術に比べれば子供のままごとのようなものだ。そして、地球人自体はほとんど進化していない。それに対して、キミワロン人は、科学技術を使って身体能力そのものを劇的に進化させ、生き方自体を根本的に変えている。私も、科学技術の進化のため人生の大半を捧げてきたが、キミワロン人のことを知って、人間の科学技術の進化には何の意味があるのか、と考えさせられてしまった。私はそれまでは研究第一で、妻の美鈴のことを後回しにしてきたが、今後は美鈴のことを第一に考えて人生を送る決心をした。そして、美鈴にもそう約束した」
「そうですか……」
今村博士は、ポケットから小型の装置を取り出し、妻の姿の立体映像を自分の隣に映し出した。
「妻の美鈴だ」今村は、笑顔で妻の姿を見た後、奈々に向かって言った。「これでいいかな?」
「はい、ありがとうございます」
「では、これで」
今村博士が妻の立体映像を消して立ち上がろうとしたのを見て、奈々は言った。
「すみません、もう少しだけ」
「まだ何か?」今村は腰を下ろして尋ねた。
「その後、キミワロン人との接触はありませんか?」
「いや、全くない」
「通信で何かメッセージが届くということもありませんか?」
「全くない。もし、そんなことがあれば嬉しいのだが……私は、もっと彼らのことを知りたかったのだ」
「周囲で何かおかしなことが起こった、というようなこともありませんか?」
「いや、全くないね」
「そうですか……」
「強いて言えば……」
「何でしょうか?」
「私がそう言われた」
「どういうことですか?」
「それまで美鈴のことをほったらかしにして研究ばかりに熱中していたが、今は美鈴のことをいつも思っている。毎朝出かけるときにはキスをして出かけ、美鈴が作ってくれた愛妻弁当を食べるときは、さきほどの美鈴の姿を見ながら食べている。昔は、家に帰るのも深夜になるか、帰らない日もあったが、今は、毎日夕方六時には家に帰っている。毎日、美鈴と夕食をとりながら、週末の楽しかったことや、次の週末の予定を話したりしている。風呂に一緒に入ることはないが、寝るときは同じベッドで手をつなぎながら眠る。こんな私を見て、おかしくなったのではないか、と美鈴は最初の頃は心配していた。しかし、今は、そんなことはない。美鈴も、大きく変わった私のことを心から愛してくれている」
のろけ話を真面目な顔でしている今村博士を、困ったような表情で見ていた奈々は、今村博士の話が終わるや否や言った。
「よく分かりました。今日はありがとうございました」奈々はそう言って、研究所を後にした。
奈々は宇宙省に戻って今村との面談の記録を作成した。
――今村博士の周辺には、キミワロン人につながるものは何もなさそうだわ。何か隠している様子もないし、そういうことができる性格でもなさそう。それにしても、あの年齢になっても奥様を深く愛しているなんて、素敵なことだし、とても羨ましい……。
奈々はそう考えながら、次のターゲットである山川咲良のことを調べ始めた。
一週間後。
石崎奈々は自動操縦の小型飛行艇に一人で乗り込み、東京を飛び立った。眼下には大型ドームが点在する東京圏が広がっている。
――東京は人々を引き付ける魔力を持っている……人間が築き上げた人工の魔力だ……その魔力は人を幸せにする力も大きいかもしれないけれど、それと同じくらい人を不幸にする力も大きい……。
奈々は目をつぶって夫の顔を思い出した。
――昔はあんな人ではなかった……もう昔に戻ることはできないのかもしれない……。
奈々が乗った飛行艇は、緑に囲まれた山川牧場の上空まで来るとスピードを落とし、ゆっくりと垂直に降下して着陸した。
山川牧場の応接室で、奈々は咲良に様々な質問を重ね、咲良は一つ一つに丁寧に答えている。咲良の隣では陽平が二人のやり取りをじっと聞いている。
「山川咲良さんは、キミワロン人との交流後、身の回りで何か変わったことはありませんでしたか?」
「いえ、特に何もありません。あの後は、この牧場でずっと暮らしていますが、忙しい毎日を過ごしています」
「そうですか……」
陽平は何も口を挟まずにずっと二人の話を聞いていたが、何かを思い出したような表情で声を上げた。
「そう言えば……」陽平は何かを言いかけて、咲良の顔を見て沈黙した。
「えっ? 何?」咲良は、少し驚いたような表情で陽平を見た。
「あの詐欺事件のことはどう思う?」
「どうって……」咲良は困ったような表情で言葉を詰まらせた。
「詐欺事件というのは? 何があったのですか?」奈々は陽平の方を見て尋ねた。
「僕が詐欺事件に巻き込まれたのですが……」陽平は咲良の困ったような表情を見て少しためらったが、話を続けた。「騙し取られた金が何故か無事に戻ってきたのです」
「それは良かったですね。その中で何かおかしなことがあったのですか?」
「戻ってきた現金は、鞄に入って牛舎の裏に置いてあったのです」
「それは不思議ですね。その鞄は誰が見つけたのですか?」
「私です!」咲良が咄嗟に答えた。
「そうですか。見つけた時の詳しい状況を教えてもらえますか?」
「ええと……」
言いよどんでいる咲良に代わって、陽平が言った。
「ワロンの姿が見えなくなって、咲良がワロンを探している最中に見つけたのです」
「ワロンというのは?」
「うちの犬です」咲良は短く答えた。
奈々は少し考えてから言った。
「ワロンという名前……どこか、キミワロンという名前に似ていますね」
「ええ、私がこちらにやって来た時に、ちょうど同じ時期に、迷い犬としてやって来たので、私がワロンと名付けました」
「迷い犬だったのですか?」
「ええ……」
「どこからやって来たのか、分からないままですか?」
「はい……」
「ワロンちゃんを見せていただいて良いですか?」
「はい……」
咲良は庭に出てワロンを呼ぶと、ワロンは家の裏から走り出てきた。
「これがワロンです」
「写真を撮っていいですか?」
「はい」
奈々はいろいろな角度からワロンの写真を撮った後、ワロンに近寄り体をなでた。何回かなでた後に、手に付いたワロンの毛をつまんで、持っていたビニール袋に入れた。
「ありがとうございました」奈々はそう言うと、小型飛行艇に乗って東京に向けて帰っていった。
奈々は宇宙省に戻り、ワロンの立体映像を映しながら、異星人調査班の班長に報告した。
「山川牧場には、どこから来たのか分からない迷い犬がいました。このワロンという犬に絡んだ少し不思議な出来事もあったといいます。この犬の体毛のサンプルを持ち帰ってきたので、分析調査に回します」
「そうか、分かった。キミワロン人が、このワロンという犬に化けているかもしれないということか……」班長は興味深そうにうなずいた。
「こんなまずいもの食えるか!」
「じゃあ、食べなきゃいいでしょ!」奈々は、自宅のダイニングルームで夫の暴言を受けて、我慢しきれなくなり叫んだ。
「何だと!」夫は怒鳴り返した。
「もう我慢できない!」奈々はそう叫ぶと、鞄一つを持って部屋を飛び出した。
電車で一時間ほどの所にある実家に着くと、奈々は母親に言った。
「もうこれ以上我慢できない。私、離婚します」奈々は少しやつれた顔をしているが、決意に満ちた表情だ。
「あなたがそう考えるなら、そうすれば良いわ。これまで随分と我慢してきたのだから……」母は、少し悲しそうな表情で奈々を見ている。「でも、上手く離婚の話を進めることはできそうなの?」
「相手は別れるつもりはないようだから、弁護士に間に入ってもらって進めようと思うわ」
「そうかい。仕事も忙しいのに、大変だね」
「何とか頑張る。これを乗り越えられれば、私の人生もまた新しく始めることができると思うから」
「じゃあ頑張ってね。でも、無理して体を壊さないようにしてね」
「ありがとう……」奈々は母の前で気が緩んだのか、少し涙を滲ませた。
翌日、奈々が宇宙省の部屋で仕事をしていると、分析官が入ってきて声をかけた。
「石崎さん、分析結果が出ました」
奈々は分析結果が記載された資料をパソコンの画面で確認した。
「犬の体毛から採取した遺伝子情報を解析した結果、ゴールデンレトリーバーとダックスフンドのミックスだということが判明しました」
分析官がそう言うと、奈々は少し残念そうに尋ねた。
「何もおかしなところはなかった、ということ?」
「そうです」
「でも、ゴールデンとダックスのミックスが、迷い犬として牧場にやって来るなんて、普通に考えたらおかしくない?」
「そうですねえ。ちょっと不自然かもしれませんね」
「じゃあ、もう一度あの牧場に行ってくる。やっぱり、あの犬は気になるの。私の直感だけれど」
奈々はすぐに山川牧場に電話をした。
「もう一度お伺いさせていただけますか?」奈々は、咲良に再訪することの了解を求めた。
「何かおかしなことがあったのですか?」咲良は心配そうな声で尋ねた。
「いえ、今のところ特におかしなことはありませんが、追加調査が必要だということになったのです」
「どのような調査ですか?」
「それはそちらに伺った際に説明します」
「はい、分かりました」咲良は承諾した。
石崎奈々との電話を終え、咲良は、玄関で寝そべっているワロンに話しかけた。
「また、宇宙省の石崎さんが来るそうよ。ワロンに興味があるみたい」
ワロンは眠そうに目をつぶっている。
その日の夜、奈々は実家から電話で夫と話をしている。
「お前の勝手な理由での離婚は、俺は絶対に認めない」夫はかなり苛立った声だ。
「もうこれ以上一緒に暮らしても、お互いに何も得られるものがないでしょう?」奈々はできるだけ冷静に話そうと努めている。
「お前は俺に何か隠し事でもあるのか?」
「何を言ってるの! 何もないわよ!」奈々はあらぬ疑いをかけられて感情的になった。
「じゃあ、何故、別れると言い出すんだ!」
「あなたの暴言や暴力に、これ以上我慢できないからよ!」
「俺が何をしたと言うんだ! ふざけるな!」
「その乱暴な言動が、つくづく嫌になったのよ!」
「俺一人でこの家で暮らせというのか!」
「ロボット家政婦でも雇えばいいんじゃない?」
「この野郎、勝手なことを言っていると、ただじゃおかないぞ!」
「もう二人だけで話し合うのはやめましょう……弁護士を間に入れて冷静に話し合いましょう」
「勝手なことを言うな!」
奈々は、その後もしばらく夫と感情的な押し問答の長電話をし、深夜遅くに疲れ切ってベッドに入った。
翌日、再び山川牧場を訪れた石崎奈々は、咲良に向かって言った。
「ワロンちゃんを、私にしばらく預けていただけませんでしょうか」
「何故ですか?」咲良は驚いた表情で尋ねた。
「詳しく調べさせていただきたいのです」
「何もおかしなところはないと言っていたではありませんか? 実際にワロンは何もおかしなところはありません」咲良は毅然とした態度で言い返した。
「そうかもしれませんが、そうであることを確認させていただけませんか?」
「それは困ります」
「何故ですか?」
「私にとって、いつも側にいて心を癒してくれる相棒だからです」
「長い期間はかかりません。一週間程度でお返しします」
「それでも困ります」咲良は一歩も譲る気はない。
「そうですか。もし任意で協力いただけない場合は、法的な手続きで強制的に連れていくことになります」奈々は厳しい表情で咲良を見つめた。「そうなると、最低でも一か月、長ければ半年くらいは、お預かりすることになります」
「そんな……」咲良は動揺して視線が揺れている。
「任意で協力いただいた方が、咲良さんのためにも、ワロンちゃんのためにも良いと思います」奈々は少し表情を和らげ、穏やかな声で言った。
「分かりました……では一週間だけ、お預けします」咲良は、苦しそうな表情で小さな声で答えた。
奈々は、用意していた大型犬用のケージにワロンを入れて、心配そうに見送る咲良に別れを告げ、自動操縦の飛行艇に乗って東京へ帰っていった。
奈々は、実家に戻り、玄関にワロンの入ったケージを置いた。
「お母さん、今日はもう遅いので、今夜一晩だけ、この犬を玄関に置かせてね。明日、宇宙省に連れて行くから」
「ええ、良いわよ。それにしても、可愛いワンちゃんね。何を調べるの?」
「ちょっと不思議なワンちゃんなので、変わったことがないか、詳しく調べることにしているの」
「そう、分かったわ。私は、これから合唱サークルの懇親会があるから、夕食は一人でお願いね」
「分かった」
「ところで、離婚の話は上手く進められそうなの?」
「何とか上手くやるわ。心配しないで」
「あなたは子供の頃から頑張り屋さんだったから、信頼しているけれど……無理しないでね」
「ありがとう」奈々はそう言って少しだけほほ笑んだ。
母が出かけた後、奈々が一人で夕食をとっていると、インターホンが鳴った。
「お届け物です」インターホンから男の声が聞こえるが、画面では男の顔がはっきり見えない。
奈々が用心しながら玄関のドアを少しだけ開けると、突然ドアが外側から強く引っ張られて全開になった。そして、目の前に怒りの表情を浮かべた夫が立っていた。
「何!」奈々は叫んだ。
「話がある」夫はそう言うと、奈々を強引に玄関に押し込んで、ドアを閉め鍵をかけた。
「乱暴なことをすると、警察を呼ぶわよ!」奈々は夫を睨みながら大声で言った。
「そんなことはさせない」夫はそう言うと、持っていた鞄から大型ナイフを取り出した。「二人で冷静に話し合おう」夫の目は血走っている。
「そんなもの持っていて、冷静に話し合えるわけないじゃない!」奈々は後ずさりしながら叫んだ。
「俺に喧嘩を売る気か!」夫は手に持ったナイフを振り上げた。
「やめて!」奈々は階段を駆け上がって、自分の部屋に逃げ込み、中からドアが開かないように力一杯押さえた。
「おい、開けろ!」
奈々は必死にドアを押さえているが、夫がドアの外からドンドンと叩いて、ドアが壊れそうなくらい振動している。
その時、奈々の背後からすっと腕が伸びてきて、ドアを押さえた。
奈々は驚いて振り返ると、見知らぬ男が立っている。
奈々は叫びそうになったが、男は人差し指を口に当てて、何も言うな、という仕草をした。そして、クロゼットを指さし、「中に隠れて」と小さな声でささやいた。
奈々は、クロゼットに駆け込んだ。
「おい、開けろ!」夫が叫びながら部屋のドアを激しく叩き続ける音がしている。
奈々はクロゼットの中に身を潜めて、じっと外の音を聞いている。
「分かったわ。入って」
クロゼットの外で、女の声がした。奈々とそっくりの声だ。
そして、部屋のドアが開く音が聞こえた。
「この野郎、俺を馬鹿にしやがって!」
夫の絶叫する声を聞いて、奈々はクロゼットの中で恐怖で身を縮めた――。
部屋のドアを開けた奈々の夫は、目の前で黙ったまま立っている妻の姿を見て怒鳴った。
「なんとか言え!」
しかし、妻は冷たい表情で夫の顔をじっと見たまま何も言わない。
「俺を馬鹿にしたようなその表情はなんだ!」
それでも妻は何も言わない。
「この野郎! もう我慢できない!」夫はナイフを振り上げた。「お前を殺して、俺も死ぬ」
妻は怯える様子もなく冷たい表情で夫を見ている。
「覚悟はできているか。なんとか言え!」夫は目を大きく見開き、鬼のような形相で妻を睨みつけた。
「好きにしたらいいわ」妻は冷静にそう言った。
「この野郎!」夫は大声で怒鳴り、持っていたナイフで妻を切りつけた。
「きゃあ!」
妻は大きな悲鳴を上げたが、夫は何度も切りつけ、妻は床に倒れた。
血を流し倒れて動かなくなった妻を、夫はしばらく茫然と見ていたが、はっと我に返ったようにナイフを投げ捨て、階段を駆け下りて、玄関から逃げ出した――。
クロゼットの中で身を縮めていた奈々は、自分の声とそっくりの女の声の悲鳴が聞こえて身が凍る思いをした。その後、誰かが階段を駆け下りる音を聞ききながら、息をこらしていた。
しばらくして、奈々はクロゼットのドアをそっと少しだけ開けた。開けたドアの隙間から部屋を見ると、何事もなかったようにいつものとおりであり、部屋のドアも閉まっている。
奈々はクロゼットのドアをもう少しだけ開けてそっと出てみると、部屋の中には先ほどの見知らぬ男が立っていた。
「もう安全です」男は笑顔で、穏やかな口調で奈々に声をかけた。
「あなたは誰?」奈々は緊張で声がかすれている。
「あなたが探しているキミワロン人です」男は笑顔のままだ。
「えっ? どうしてここに?」奈々は驚きと恐怖の入り混じった表情で男を見た。
「あなたが殺されそうになっていたので、助けようと思いました」キミワロン人は、穏やかな口調で話しかけた。「あの男は、あなたを殺したと思い込んで逃げていきました。ですから、もう安全です」
奈々は先ほどの恐怖を思い出し、顔を歪めて沈黙した。その奈々の様子を、キミワロン人は何も言わずに優しい笑顔で見ている。
「何が何だか全然分からない……私の頭がどうかなってしまったのかしら……」奈々は頭を抱えながらつぶやいた。
「無理もありません。愛している夫から殺されそうになったわけですから、気持ちが動転しているでしょう」
「あんな男なんか、愛していません」
「でも、あなたの夫ですよね?」
「昔は愛していました……でも、今は違います」
「そうですか……」
奈々は突然泣き出した。
「どうしましたか?」キミワロン人は、奈々が泣き出した理由が分からず困惑した表情を浮かべた。
奈々は、床にうずくまって大声を上げて泣いている。
キミワロン人は、泣き崩れる奈々を残して、そっと部屋を出て行った。
しばらくして泣き止んだ奈々は、閉まっていた部屋のドアをそっと少しだけ開け、ドアの隙間から外を覗いたが、誰もいない。それから、奈々は部屋を出て階段をゆっくりと降り、玄関まで行くと、玄関のドアは閉まっており鍵もかかっている。玄関に置かれたケージの中では、ワロンが目をつぶって眠っている。
「一体、何があったの!」奈々は、訳が分からなくなって叫んだ。
その時、玄関の鍵を回す音が聞こえ、奈々はドキッとして息を呑んだ。
「ただいま」
ドアを開けて入ってきたのは、母だった。
「外に誰かいなかった?」奈々は、恐怖の表情で母に尋ねた。
「別に誰もいなかったわよ。どうして?」
「いえ……」あまりにも不思議なことがあったので、奈々は母に説明することができずに、沈黙した。
「どうしたの? 目が赤いわね。泣いていたの?」
「うん……」奈々はそう言うと、母にしがみついて再び大声を上げて泣き始めた。
ケージの中のワロンが、目を開けて二人を見ている。
――石崎奈々は、昔は愛していた夫を今は愛していないようだ……あの男は、今も石崎奈々を愛しているようにも見えたが、彼女を殺そうとした……昔はお互いに愛し合い、相手を特別な人だと考えていたはずだが、何故、今は完全にすれ違っているのだろうか……。
ワロンはケージの中でそう考えながら、静かに目を閉じた。
翌朝。
奈々は、昨夜はほとんど眠ることができず、明け方近くにようやくうつらうつらした程度であった。
「じゃあ、行ってきます……」奈々は、寝不足のぼんやりとした頭のまま、玄関に置いてあるワロンの入っているケージを引っ張り、出かけようとした。
その時、奈々の携帯電話が鳴った。
警察からの電話で、夫が自宅の部屋で自殺していると言う。
「ご主人は自分の両親に電話をして、妻を殺したから自分も死ぬ、と言っていたそうです。ご主人との間で、昨夜、何かトラブルはありましたか?」
「いえ……」奈々は、夫が自殺したという事実を聞いても、昨夜のことのショックから立ち直っていないため、驚きも表さずに小さな声で答えた。
「昨夜、ご主人はそちらに来ましたか?」
「いえ……」奈々は、昨夜の出来事に関しては頭が混乱していて、何も言うことができない。
「これから事情をお聞きしたいので、そちらにお伺いしてよろしいですか?」
「はい……では、会社に休む連絡をして、ここでお待ちします」
奈々は、自宅で待っている間、昨日の夜の出来事について、頭の中を整理しようとしていた。しかし、何が起こったのか、自分で説明できる自信は全くなかった。
奈々は、ワロンのことが気になり、玄関でケージの中を覗いた。
ワロンは伏せたまま、奈々の方をじっと見ている。
その時、ワロンが少し体をずらした。すると、そこには、大型ナイフがあった。
――あっ! これは!
奈々は、そのナイフは昨夜夫が手にしていたものであることがすぐに分かった。
ワロンは再び体をずらすと、ナイフは隠れた。
「ワロン、あなたはキミワロン人なの?」奈々は静かにワロンに向かって尋ねた。
しかし、ワロンは奈々の呼びかけには何の反応もせず、静かに目を閉じた。
しばらくして警察がやって来た。
「昨夜、何かありませんでしたか?」
「いえ、特に何もありませんでした……」
奈々は警察からいろいろと事情を聞かれたが、夫がやって来たことや、殺されそうになったことなどは、一切話さなかった。話したとしても、その痕跡が何も残っていないので、信じてもらえないだろう、と思ったからだ。
もちろん、キミワロン人のことや、ワロンの体の下にあったナイフのことも、一切話さなかった。
警察が帰った後で、奈々はワロンをケージから出した。しかし、さきほど確かに見えたはずのナイフはどこにも見えなかった。
「あなたが私を助けてくれたの?」奈々は、玄関の床に静かに伏せているワロンを見て尋ねた。
ワロンは少しだけ目を開けて、奈々を見た。
「あなたがキミワロン人で、いつの間にか私の部屋に入って来て私の姿に変身して、私の身代わりになって、私の命を救ってくれた……そう考えると、昨日のことは、何とか説明ができるかもしれない……」奈々は、ワロンを見ながら話しかけた。
ワロンは伏せたまま、じっと奈々を見つめている。
「そうなの?」
ワロンは、少し尻尾を振った。
「でも、どうして? どうして私のことを救ってくれたの?」奈々は、そっとワロンの頭に手を乗せた。
ワロンはゆっくりと立ち上がり、力強く尻尾を振り始めた。
奈々はワロンの顔をじっと見て、ワロンの首に手を回し、力強く抱きしめた。
「本当に恐ろしかったの……」奈々は、ワロンを抱きしめたままつぶやいた。「ワロン、私の命を救ってくれてありがとう……」奈々の目から涙が流れてきた。そして、奈々は、こぼれる涙をぬぐおうともせず、ワロンを強く抱きしめ続けた。
ワロンは、じっと立ったまま、尻尾を振っている。
石崎奈々は、翌日、ワロンを連れて宇宙省に行った。
「この犬が山川牧場から連れてきたワロンです」
奈々がそう伝えると、調査官が答えた。
「では、徹底的に調べてみます」
ワロンが調査されている間、奈々は仕事に手がつかなかった。
夕方遅く、調査官がケージに入ったワロンと共にやって来て、奈々に言った。
「様々な方法で徹底的に調べましたが、おかしなところは全くありませんでした」調査官はそう言うと、ケージに入ったワロンを見た。「正真正銘の犬です」
「そうですか……」
奈々は、半ば予想していたことだったので驚かなかった。
――人間の科学技術で解明できるような怪しい痕跡は、何もないということなのね……。
奈々は、ワロンの目をじっと見つめた。
ワロンも、奈々の目を静かに見つめ返している。
翌日、奈々はワロンを連れて山川牧場を訪れた。
「ありがとうございました。何もおかしなところはなく、ワロンちゃんは、正真正銘の犬であることが証明されました」奈々は、咲良に向かって穏やかな口調で言った。
「良かった!」咲良は嬉しそうに叫んだ。
「ワロン!」咲良が呼ぶと、ワロンは咲良に飛びかかって、咲良の顔中を舐めまわし始めた。
奈々はほほ笑みながら、ワロンが嬉しそうに咲良にじゃれついている姿をしばらくじっと見ていた。
「ワロンちゃんは、本当に素敵なワンちゃんですね」奈々は、大きな声で咲良に話しかけた。
「ええ、そうなの。あなたもそう思います?」咲良は笑顔で奈々を見た。
「はい」奈々も満面の笑顔だ。「心からそう思います」
奈々は、笑顔のまましばらく沈黙した後、咲良に言った。「では、これで失礼します。ワロンちゃんが、いつまでも元気でいるといいですね」
「そうですね。私もそう願っています」
奈々は、ゆっくりとワロンに近づき、しゃがんでから、ワロンを抱きしめた。
――ワロン、どうもありがとう。私が今こうしてここにいられるのは、ワロンのおかげよ。
奈々は心で礼を言った。
奈々は立ち上がり、咲良の目を見た。そして、二人は、無言でほほ笑み合った。
二人の様子を見ていたワロンは心の中でつぶやいた。
――石崎奈々にとっての新しい特別な人が、すぐにでも現れることを願いたい。それにしても、地球人たちの愛というのは絡み合った糸のようだ。解きほぐすことは簡単でなく、無理に力を入れて引っ張ると千切れてしまうように……このように扱いにくい愛というものを、何故地球人たちは大切にするのだろうか……。




