第七話 詐欺師の男
焼き肉屋のボックス席で、一組の男女が向かい合って座っている。
「気に入ったよ。とても気に入った」男は、女からプレゼントされたばかりのネクタイを手に持ちながら言った。
「良かった。ネクタイは人によって好みが違うから迷ったけど、これが一番似合うと思ったの」女は嬉しそうに言った。「田口さん、誕生日おめでとう。三十歳ね」
「ありがとう」男は笑顔で礼を言った。
しかし、彼は今日が誕生日ではなく、三十歳でもなかった。そして、田口というのは本名ではなかった。彼は、これまで何人もの人間を騙すことで生活費と遊ぶ金を稼いできた詐欺師だ。
――信じやすい女だ。それは思ったとおりだった……だが、これ以上この女を騙す気が湧いてこない……。
田口は笑顔を作ったまま、女の顔をじっと見つめている。
「何でも好きなものを頼んでね。今日は私の奢りだから」女はそう言うと、テーブル横のパネルを操作して焼き肉のメニューを表示した。
「焼き肉のにおいがつかないように、しまっておくよ」田口はそう言いながら、ネクタイを大事そうに鞄にしまった。
「この特上カルビなんてどう? 私食べたことないけど、美味しそう」女はメニューの中から高級なものを探して見ている。
――この女は俺にとってこれまでにない特別な女なのだろうか……。
田口は真面目な表情でぼんやりと女の顔を見た。
「特上ロースも魅力的よね?」女は尋ねたが、田口が何も答えないので、声を大きくした。 「田口さん、聞いてる? 特上カルビと特上ロースでいい?」
「ああ、良いよ」田口は再び笑顔を作って返事をした。
「それと、ビールで良い?」
「いいね」
女が店員を呼んで注文を伝えている間、田口は考えていた。
――俺のこれまでの十五年間の生き方を改めることはできるだろうか……。
田口は十八歳の時から、犯罪によって生計を立ててきた。万引きから始めたが、高収入を得るために間もなく詐欺を始めた。彼は恋愛を装って女に近づき、深い関係を持ってから金を騙し取るという方法を最も得意としていたが、男女を問わず商売の取引を装って金を騙し取る手法も身につけていた。
「乾杯!」女はビールのジョッキを持って、明るい声で言った。「どんどん食べてね」
「じゃあ、遠慮なく」田口はビールを一口飲んだ。
――俺の生まれてからの三十三年間の人生を、この女とならやり直すことができるのかもしれない……。
田口は酒乱の父親と病弱な母親の一人息子として育てられた。しかし、彼には両親に育てられたという記憶はほとんどない。二歳の時に母が亡くなり、三歳の時に父が刑務所に入ったからだ。
「今度、田口さんと一緒に温泉にでも行きたいなあ……」女は少しためらいがちに言いながら、田口の顔を見た。「でも、お金かかるから、もっと貯めてからにするね」
「近いうちに行こう」田口はそう言いながら、焼き肉を一切れつまんだ。
「えっ? 本当? 嬉しい!」女は大きな声で喜んだ。
――この女も、俺と同じように、子どもの頃に親に愛された記憶がないと言っていた……しかし、俺とは違い心が汚れていない……。
「お客さんに接するママの振舞や話し方を真似しながら、自分も頑張っているの。最近、少し人気が出てきて指名も増えてきたのよ」女は田口の顔を見ながらほほ笑んでいる。「だから、少しずつ貯金も増えてきたの」
「そうか、それは良かったな」田口は笑顔で女を見つめた。
「私、頑張るね」女は田口の顔をじっと見つめ返している。
田口は思わず熱い感情が込み上げてきそうになったが、焼きすぎて焦げた一切れの肉を箸でつまんで口に入れ、何度か噛んでからビールで喉に流し込んだ。
翌日の午後。
田口は山川牧場にやって来た。
「昨日はありがとうございました」田口は腰が低く、満面の笑顔で山川陽平に挨拶をした。
「今日はロボットの現物で説明してくれるんですよね」陽平も笑顔で答え、隣に立っている咲良も、田口に向かって会釈をした。
「その予定でしたが、最後のロボットが売れてしまい、在庫がなくなってしまいました」田口は陽平の顔見ながら、申し訳なさそうな表情で話し始めた。「大変申し訳ないのですが、今日はパンフレットと動画での説明になってしまいます」
「それならもう見ている。現物が入手出来たら改めて説明に来てくれ」陽平は急に不愉快そうな表情に変わった。
「本当に申し訳ございませんでした。そうさせていただきます」田口は深く頭を下げた。そして、再び顔を上げて言った。「次の現物がいつできるか、まだ予定が立っていませんので、改めてご連絡させていただきます」
「いずれにせよ、近いうちに作るのですよね?」
「実は、現行モデルは当社の最初の製品だったので、価格を低くして損も覚悟で販売してきたのですが、予想以上の人気で売れまして、今は社長が強気になっていまして……」田口は恐縮した様子で伏し目がちに言った。「現行モデルは生産停止として、新型モデルのロボットを開発することになっているんです」
「新型モデルはいつ頃できる?」
「一年後くらいではないかと……」
「価格も高くなるの?」
「はい、社長が強気になっているので、おそらく、二倍かそれ以上の価格になるのではないかと……」
「それは随分高いなあ。現行モデルの生産を追加であと一台お願いできませんか?」
「そうですねえ……社長の考え次第ですが、もし、強いご希望があれば、私から説得してみようと思います」
「是非、お願いします。とても気に入っていますし、価格も手ごろですから」
「はい、分かりました。戻って、至急社長と打ち合わせてみます」
田口は、陽平と咲良に深々と一礼すると、車に乗って帰っていった。
「新製品が出るのを待っていてもいいんじゃない?」咲良は、田口が乗った車が走り去るのを見送りながら陽平に言った。
「いや、今の製品で機能は十分足りるし、価格も随分と安いから、今がチャンスだと思う」
「そう……じゃあ、そうしましょうか」咲良は不安があったが、笑顔で答えた。
その日の夕方、田口から陽平に連絡があった。
「私が社長と交渉しました。山川様の強いご希望をお伝えしたところ、あと一台の追加生産が決定しました」
「そうですか、それはありがとうございます」陽平は明るい声で答えた。
「ただ、特別な注文生産ということになるので、代金は全額前払いということが条件なんです」
「全額ですか? それは随分と厳しいですね」
「社長はそれが条件だと言って譲らなかったものですから……もし無理ということなら、この話もなかったことにさせていただきます」
「分かりました」
「そうですか、ありがとうございます。振込先は後程メールでお送りします。明日の夕方までにお振込みをお願いします」
「分かりました」
電話を終えた後で、咲良が陽平に尋ねた。
「随分と性急に話が進んでいるみたいだけれど、陽平さんは実際にそのロボットの現物を見てないのでしょう? 実際に見ないで決めてしまって、本当に大丈夫なの?」
「ああ、心配ないよ」陽平は自信に満ちた顔で答えた。「あの最新式のブルドーザーを実際に使ってみて、予想していた以上に役立つことが分かって、僕ももう少し機械化に力を入れようと思っているんだ」
「そうなの……」
「さっちゃんは、ブルドーザーを自分で動かしたことがないから、素晴らしさが分からないかもしれないけれど、科学技術の力は大したもんだと思うよ」
「そ、そう……そうかもしれないわね」咲良は無意識に蜂に刺されたところを左手で撫でながら沈黙した。
――科学技術は人間を幸せにするとは限らない……。
咲良は、ブルドーザーの暴走事故のことに加え、巨大ドームの竣工式の際の惨事を思い出し、暗い気持ちになった。
「どうしたの? 大丈夫?」陽平は、咲良の暗い表情を見て心配して尋ねた。
「あっ、ええ……大丈夫。ちょっと昔の辛いことを思い出してしまって……」
「何のこと?」
「いえ、大したことじゃないわ。心配しないで」
「そう、だったらいいけど……」陽平は心配そうに咲良を見ている。
陽平は翌日、田口が指定した口座に代金の振込みを行い、田口に確認の電話をした。しかし、電話がつながらない。
「変だな……」
何度連絡してもつながらないので、陽平は心配になり、見本市を主催した団体に、パンフレットの写真を添付してメールを送り確認をした。すると、パンフレットに記載された会社は、見本市の出品会社のリストには載っていないという。
「えっ!」陽平は絶句した。
――まさか、詐欺なのか?
陽平は、すぐに警察に連絡し調べてもらったところ、電話番号も振込先口座も他人名義で登録されたものであるという。
陽平は激しく落ち込んだ。
「ちょっと便利なものに心を奪われ、その結果が詐欺の被害者だ。俺は馬鹿すぎて本当に嫌になる……」陽平は頭を抱えてうなだれている。
「あなたが悪いわけじゃない。悪いのはあの田口という詐欺師よ」咲良は必死に慰めるが、陽平はうなだれたまま何も言わずに黙り込んでいる。
二人は夕食も取らずに、ダイニングテーブルで深刻な表情で向かい合っている。
二人の話を玄関の寝床でじっと聞いていたワロンは、そっと立ち上がった。
玄関ドアのすぐ側に行き、目をつぶり再び伏せると、ワロンの体は液体のように溶けだし、ドアの隙間から外に流れ出ていく。ワロンの体全てが液体となって玄関ドアの外に流れ出ると、その液体は盛り上がり始め、ブルドーザーの事故の時に咲良の前に現れたキミワロン人と同じ姿になった。
キミワロン人が庭にゆっくりと歩み出て星空を見上げると、天空から球状の飛行体が降りてきた。
キミワロン人はその飛行体に乗り、飛び立っていった――。
田口は、陽平を騙して振り込ませた金を入れた鞄を見ながら、自分の部屋で一人で酒を飲んでいる。
「今回はさほどの大金ではなかったが、しばらくは暮らす金と遊ぶ金には困らないな」田口はそうつぶやきながら、鞄から何枚かの紙幣を取り出し、無造作に財布に入れた。
「明日は店で大盤振る舞いでもするか」田口は大きな声で独り言を言ってから、グラスの酒を一気に空けた。そして、ネクタイをもらった女にあててSNSでメッセージを送った。
〈明日は店にいるか?〉
しばらくすると返信が来た。
〈いるわよ。明日来てくれるの?〉
〈そのつもりだ。金が入ったから店が終わってから御馳走するよ〉
〈嬉しい! 待ってるわ〉
〈欲しいバッグもあったよな?〉
〈買ってくれるの?〉
〈近いうちにな〉
〈ありがとう!〉
〈ネクタイのお返しだ〉
〈でも、ネクタイよりずっと高いわよ。無理しなくていいからね〉
――可愛い奴だ……最初は単なる遊びのつもりだったが……。
田口は、鞄に入っている金を見ながら考えている。
――これだけあれば、もう少し広い部屋を借りて、あいつと一緒に暮らすことができるかもしれない……だが長くは続かないか……。
田口は、壁のハンガーにぶら下げてあるネクタイにちらっと目をやった。
その時、部屋のドアの鍵を回すような音が聞こえた。田口が驚いてドアに目をやると、鍵がかかっていたはずのドアがゆっくりと開き、外から見知らぬ男が入ってきた。
「誰だ、お前は!」田口は、無断で入ってきた男に向かって怒鳴った。
「山川陽平の代理の者だ」その男は慌てる様子もなく冷静な表情で言った。
「何だと!」田口はそう言うと、台所に駆け込み、包丁を持って戻ってきた。「誰だか知らないが、この部屋から出ていけ!」
部屋に入ってきた男は、怯える様子もなく、ニヤリと笑いながら言った。
「お前が騙し取った金を返してもらおう」
田口は、背筋が寒くなるような不気味さを感じたが、手に持った包丁を振りかざして大声で怒鳴った。
「この野郎、ふざけたこと言ってると殺すぞ!」
「返す気がないなら、もらっていく」男は全く動じる様子もなく低い声で言い、ゆっくりと部屋に上がり込んできた。
田口は包丁を持ったまま体が固まっていた。恐怖で動けないのではなく、何故か分からないが体に全く力が入らないのだ。
男は田口の横を通り過ぎて部屋の奥に行き、床に置いてある大金の入った鞄をつかんだ。そして、テーブルの上にあった財布から金を抜き取り、鞄に入れた。
「この野郎! 何をする!」田口は、体は動かないが、声は出すことができる。しかし、顔は恐怖の表情に変わりつつあった。
「この金は、私が山川陽平に返しておくから、お前は心配するな」男はそう言って部屋の入り口に向かって歩き出した。
そして、部屋から出て行く前に、ゆっくりと振り返って田口に向かって言った。
「お前にも愛している女性がいるのだろう?」
「いねえよ、そんなもの」
「愛している女性にメッセージを送っていたのではないのか?」
「何のことだ?」
「お前のやったことを知ったら、その女性は悲しむだろう」
「誰のことを言っているのか知らないが、余計なお世話だ!」
「お前も、たまには人の役に立つことをしたらいい。そうすれば、その女性もきっと喜ぶだろう」
「ふざけるな!」田口は固まったまま叫んだ。
「お前のような男でも、今、その力を必要としている人がいる」男はそう言うと鞄を持って部屋を出ていった。
男が部屋のドアを閉めると、田口はそのまま気を失って倒れた。
「もう少しだ。頑張れ!」
真夜中のがけ崩れの現場で、災害用の照明器具の明るい光に照らされた数名の男たちが、長くて太い鉄の棒を梃子にして大きな岩を動かそうとしている。
先ほど意識を失った田口は、気づくと、梃子を握って力を込めて岩を動かそうとしている数名の男たちの中の一人となっていた。
――ここはどこだ? 俺は何でこんなことしているんだ?
田口は心でつぶやきながら、他の男たちと力を合わせて大きな岩を動かそうとしている。
がけ崩れで崩壊した家の瓦礫の周囲で這いつくばって調べている救助隊員が叫んだ。
「土砂の下から子供の声が聞こえる。頑張れ!」
周囲に集まった人々は鬼のような形相で、梃子を握っている男たちに向かって叫んだ。
「頑張って! 子供の命を助けて!」
自分たちに浴びせられる必死の応援の叫び声を聞きながら、男たちは全身の力を振り絞って梃子を動かしている。しかし、岩は少しだけ傾きはするが、なかなか動かない。
――俺は楽をして金を稼ぎたいんだ、それなのに何だ、この状態は!
田口は心でそう叫びながらも、何とかして大きな岩を動かそうと懸命になって他の男たちと力を合わせている。
「それ、もう一度、一、二、三!」
数名の男たちが掛け声に合わせて渾身の力で梃子を押し下げた瞬間、大きな岩が転がり、その下の瓦礫に人が何とか潜り込めそうな小さな隙間が見えた。
その隙間に、救助隊が素早く潜り込んだ。
田口は、日ごろの運動不足のせいで、最後に渾身の力を入れた瞬間に腕の筋肉を傷めて激痛に襲われた。
「うっ!」田口は小さな声でそう叫ぶと、苦痛に顔を歪めながらその場にしゃがみこんだ。
「生きているぞ!」土砂と瓦礫の下から救助隊員の叫び声が聞こえた。
まもなく、救助隊員は小さな女の子を抱えて穴から這い出してきた。
「やった!」周囲から大きな歓声が上がった。
周囲の人間は皆、「良かった!」と叫んでいる。
田口も、腕の激しい痛みをこらえてうずくまりながら、「良かった……」と小さな声でつぶやいた。
女の子の母親は、救助隊員から女の子を受け取ると、「ありがとうございました!」と叫び、女の子をしっかりと抱きしめながら、安堵して顔を歪めて大声で泣いている。
田口は腕の激しい痛みをこらえながら、ゆっくりと立ち上がった。
「女の子が助かったのは良かった……だが、俺は他人のためにこんな苦労などするつもりはない。俺は人を騙してでも、楽な人生を送るのだ……」田口は、自分に言い聞かせるようにつぶやきながら現場を背にして歩き出した。
「本当にありがとうござました!」
田口の背後で女の子の母親が叫んでいる声が聞こえた。
振り返った田口は、女の子の母親が泣きながらわが子を抱きかかえている姿を見て、思わず一筋の涙を流した。
そして、再び背を向けて、そのまま立ち去って行った――。
玄関にいるはずのワロンの姿がないことに気づいた咲良は、暗くなっている家の外を探している。
「ワロン!」咲良は暗闇の牧草地に向かって何度も叫んだが、どこからも反応はない。
「ワロン!」咲良が何度目かに叫んだ時、牛舎の陰から男が現われた。
「あっ! あなたは……」咲良は、牛舎の外灯に照らされている男の顔を見て、息を呑んだ。
咲良の目の前に現れたのは、キミワロン人だった。
「咲良さん、陽平さんが騙し取られた金を取り返してきたよ」キミワロン人は、手に持った鞄を咲良に見せながら言った。
「本当ですか?」咲良は驚いた様子だ。「でも、どうやって取り返してくれたのですか?」
「犯人の部屋に行き、あの男が持っていた金の入った鞄をもらってきた。もちろん、あの男には金を陽平さんに返すと伝えてある。だから、心配はいらない」
「よく返してくれましたね? あの男は抵抗しませんでしたか?」
「いや、抵抗はしなかった」キミワロン人はそう言いながら、持っていた鞄を咲良の方に差し出した。「前にも言ったが、私がここに現れたことは決して他言しない、という約束を守ってほしい」
「約束は守ります」咲良はそう言うと、キミワロン人から鞄を受け取った。「ありがとうございます」咲良は鞄を抱えたまま深く頭を下げてから、キミワロン人の顔をもう一度見た。
「一つ聞きたいことがある」キミワロン人は、咲良の顔を見ながら言った。
「何ですか?」
「この詐欺師の男は一人の女を愛しているようだ。しかし、その女以外の人には愛という感情を全く持っていないようで、詐欺という卑劣なことを平気で繰り返している。地球人というのは、そういうものなのか?」
「彼のことはよく分かりませんが、そういう人もいるかもしれません」
「咲良さんも、陽平さんだけを愛して、他の人を愛することはないのか?」
「愛にもいろいろな意味があると思います。深く愛して一生を共に暮らしたいと思うのは、陽平さんだけです。他の人にも幸せになってもらいたい、という気持ちはありますが、それも広い意味では愛ということだと思います」
「陽平さんと他の人の違いは何なんだ?」
「うまく説明することができないのですが……自分にとって特別な人がいてほしい、ということなのかもしれません。陽平さんが私にとっては特別な人です」
「特別な人――という言葉は前にも聞いたが、それはどういう人なのだ?」
「それは……」咲良がそう言った瞬間、家の玄関の方から声が聞こえた。
「さっちゃん。どこにいる?」陽平が咲良を探して呼んでいる。
「私の存在は決して他言しないように」キミワロン人はそう言うと、牛舎の陰に走っていった。
咲良は鞄を抱えたまま小走りで玄関に向かうと、陽平が心配そうな顔で立っていた。
「どこにいた? 心配したよ」
「ワロンを探して家の周りを見ていたら、こんなものが牛舎の裏に落ちていたの」咲良はそう言って陽平に鞄を手渡した。
「現金が入っている!」陽平は鞄を開けて大きな声で叫んだ。
二人は一緒に玄関に入り、陽平が鞄の中の現金を数え始めた。
「僕が振り込んだ金額と同額が入っている。これは、一体どういうことだ!」陽平は再び叫んだ。
「詐欺師が悔い改めて返しに来たということかしら?」咲良も驚いた表情で見ている。
「そんなことはあり得ない」陽平は首を横に振りながら険しい表情で言った。「気味悪いから明日、警察に届けよう」
その時、玄関の外でワロンの吠える声が聞こえた。
「あっ! ワロン!」咲良がそう言って外に出ると、ワロンは咲良の姿を見て、尻尾を振っている。
「どこに行ってたの? 心配したわよ」
咲良がそう言うと、ワロンは咲良に駆け寄ってきた。
翌朝、陽平は鞄を持って警察に向かった。
咲良は、いつものように庭で水やりをしている。
餌を食べ終えたワロンが、いつものように咲良が手に持つホースに向かって飛び掛かってきた。
「だめよ! ワロン!」咲良はいつものように笑いながら叱っている。
「ワロンは、あの鞄を私に渡してくれた人を見た?」咲良はワロンに話しかけたが、ワロンは水を浴びながらはしゃぎまわっている。「それとも、あれはワロンだったの?」
ワロンは咲良の方を見て、ワン、と一声吠えた。
「そうだったのね。このことは、もちろん誰にも言わないわ」咲良はそう言って、ワロンにほほ笑みかけた。
――またしても姿を現して咲良を助けてしまった……今回は犬の姿に化けていることも気づかれてしまったのかもしれない……咲良が喜ぶ姿を見るのは嬉しいが、こんなことまでやって良かっただろうか……。
ワロンは咲良にじゃれつきながら考えていた。
――愛の意味を調査するためにはやむを得ないものだった、と考えるしかない。それにしても咲良が言う、特別な人――というのはどういう人のことだろうか……調査は思った以上に難しいものになりそうだ……。
ワロンは心の中でそうつぶやきながら、ブルブルッと体を震わせて全身の水を飛ばした。




