第五章 もう少しだけ
「アノンさん、こっちです!」
「……待て」
ファジーは俺の少し前を歩きながら、楽しそうに振り返る。
「次はあっちに行きましょう!」
「……そんなに急がなくても、祭りは逃げない」
「でも、時間は逃げますよ!」
「…………」
よく分からない理屈だった。
だが――
俺は、なぜか彼女について歩いていた。
屋台を見て。
人の流れを眺めて。
時々、ファジーの話を聞く。
そんなことを繰り返している。
「アノンさん、これ食べませんか?」
「いらない」
「美味しいですよ?」
「興味がない」
「じゃあ、一口だけ!」
「…………」
差し出された串焼きを見る。
「……一口だけだぞ」
「はい!」
串焼きを受け取り、口にする。
「……」
「どうですか?」
「……普通だ」
「えー!」
ファジーが頬を膨らませる。
「絶対美味しいのに!」
「そういうものか?」
「そういうものです!」
「……そうか」
もう一度、串焼きを見る。
確かに、不味くはない。
だが、これまで食事に何かを感じたことなどなかった。
腹が減れば食べる。
それだけだった。
なのに――
「……もう一口」
「え?」
「……食べる」
「ふふっ」
ファジーが笑った。
「気に入ったんですね!」
「……別に」
なぜか、少しだけ照れくさかった。
しばらく歩くと、大きな広場に出た。
中央には祭りのための舞台が設置されている。
音楽が鳴り、人々が集まっていた。
「すごいですね!」
ファジーが目を輝かせる。
「……そうだな」
「アノンさんは、こういうお祭りに来たことありますか?」
「……ない」
「一度も?」
「ああ」
「じゃあ、今日が初めてなんですね!」
「……そうなるな」
ファジーは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日は特別な日ですね!」
「……特別?」
「はい!」
俺は、その言葉を考える。
特別……。
今まで、そんなものを意識したことはなかった。
毎日が同じだった。
朝起きて。
仕事をして。
夜になれば眠る。
それだけ。
だが――今日は違う。
俺は今、誰かと一緒に祭りを歩いている。
それだけのことなのに。
「……悪くないな」
「え?」
「……なんでもない」
俺は目を逸らした。
しばらく歩いたところで、ファジーがふと足を止めた。
「……アノンさん」
「なんだ?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「ああ」
「どうして、そんなに何にも興味がないんですか?」
「…………」
突然の質問だった。
「別に……興味がないわけじゃない」
「でも、屋台を見ても何も言わないし、お祭りにも興味がなさそうです」
「…………」
「私が話していても、あまり驚いたり、喜んだりしませんよね?」
「……そうか?」
「はい」
ファジーは少しだけ考えるように首を傾げた。
「私と一緒にいても、楽しくないですか?」
答えが出なかった。
楽しい。
その言葉自体は知っている。
だが、自分がいつそれを感じたのかが分からない。
「……分からない」
気づけば、そう答えていた。
「分からない?」
「ああ……」
俺は、少しだけ視線を落とす。
「嬉しかったことも、悲しかったことも……よく分からない」
「…………」
「欲しいものもない」
「夢は?」
「……ない」
ファジーは何も言わなかった。
「誰かと一緒にいたいと思ったこともない」
「…………」
「誰かが死んでも、何も思わない。誰かが生きていても、何も思わない」
自分で口にしていても、何も感じなかった。
それが普通だと思っていた。
「……そうなんですね」
ファジーの声が、少しだけ寂しそうに聞こえた。
「でも――」
ファジーが俺を見る。
「アノンさんは、今ここにいますよね?」
「……ああ」
「私と一緒に、お祭りを歩いてます」
「…………」
「それって、少しだけでも楽しいんじゃないですか?」
「……かもな……」
「ふふっ」
ファジーが笑った。
「じゃあ、これからもたくさん教えてあげます!」
「……これからも?」
「はい!」
ファジーは、当たり前のことのように言った。
「楽しいことも、嬉しいことも、これから探しましょう」
「…………」
「夢だって、欲しいものだって、なくても困りません」
そして――
「見つけたくなったら、そのとき探せばいいんです」
「…………」
俺は何も答えられなかった。
そんな考え方をしたことがなかった。
何もないなら、何もないままでいい。
ずっと、そう思っていた。
何もないことこそが、安定なのだと。
なのに。
今は――ほんの少しだけ。
何かを探してみてもいいのかもしれない。
そう思えた。
そのときだった。
「危ない!」
誰かの叫び声が聞こえた。
俺は反射的に振り向いた。
屋台の近くで、子供が走り回っていた。
その先には、荷物を大量に積んだ台車。
人混みに押されたのか、台車が大きく傾いている。
「きゃっ!」
近くにいたファジーが、驚いて足を止めた。
台車がこちらへ向かってくる。
「…………!」
考えるより先に、身体が動いていた。
俺はファジーを抱き寄せ、自分の方へ引き寄せる。
次の瞬間――
ガシャァン!
台車が、さっきまでファジーが立っていた場所に倒れた。
「…………」
その場が静まり返った。
「……アノンさん?」
「…………」
俺は、ファジーを抱き寄せたままだった。
「あ……あの……アノンさん……もう大丈夫です……」
「ああ……すまない……」
「……アノンさんこそ怪我は!?」
「俺は問題ない」
ファジーが、少しだけ驚いた顔で俺を見る。
「……助けてくれたんですね」
「…………」
答えられなかった。
なぜ助けたのか。
そんなことを考える前に、身体が動いていた。
これまでなら――
誰かが死んでも、何も思わなかった。
誰かが傷ついても、興味などなかった。
なのに。
「……別に」
「ふふっ」
「何だ?」
「ありがとうございます」
「…………」
その言葉を聞いて、胸の奥が妙に熱くなった。
夕方。
祭りの人混みが、さらに増えていく。
ファジーは先ほどのことなど忘れたように、また屋台を見ながら歩いていた。
「アノンさん、あれ――」
その瞬間。
俺は、周囲の気配を感じ取った。
「…………」
殺気。
一瞬だけだったが、俺には分かる。
「……誰だ」
俺は今日、彼女を殺すためにここへ来た。
ならば――俺以外にも、彼女を狙う者がいても不思議ではない。
「…………」
懐に手を入れ、短剣に触れる。
今なら簡単だ。
人混みに紛れて、一瞬で終わらせられる。
ファジーは俺を信頼している。
背中を向けている。
絶好の機会だった。
「アノンさん?」
「……なんだ」
「どうかしました?」
「……いや」
ファジーが振り返る。
笑顔だった。
さっき、俺が助けた少女。
そして今、俺に笑いかけている少女。
――殺すべき相手。
「……」
短剣を握る手に、力が入る。
だが――
抜けなかった。
いや……きっと、抜かなかったんだ。
「じゃあ、次はあっちに行きましょう!」
「……ああ」
俺は短剣から手を離した。
なぜそうしたのか。
自分でも分からない。
ただ――
「……もう少しだけ」
俺は、小さく呟いた。
もう少しだけ、この時間を過ごしていたい。
そんなことを思ったのは――
初めてだった。




