第二十一章 ゼロスタート
王宮を出た後。
王都の街を――
アノンとファジーは並んで歩いていた。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
ファジーは時々、隣を歩くアノンを見る。
「…………」
何かを考えているようだった。
「アノンさん」
「なんだ?」
「少し、聞いてもいいですか?」
「ああ」
「アノンさんって……」
ファジーは少し迷う。
「どうして、アノンという名前なんですか?」
「…………」
アノンの足が止まった。
「……名前の由来か?」
「はい」
「アノンは本当の名前じゃない」
「え?」
ファジーが目を丸くする。
「そもそも俺には、名前がないんだ」
「…………」
アノンは淡々と話す。
「だから、自分で決めた」
「どうして、アノンなんですか?」
「unknown」
「アンノウン……?」
「ああ」
アノンは前を見る。
「意味は――未知だ」
「…………」
「自分が何者なのか分からない」
少しだけ間を置く。
「何がしたいのかも分からない」
「…………」
「夢もない」
そして――
「欲しいものもない」
ファジーは黙って聞いていた。
「誰かが死んでも、何も思わなかった」
「誰かが生きていても、何も思わなかった」
アノンは自嘲するように笑う。
「だから俺はアノンになった」
「何もない自分には――」
「…………」
「それくらいが、ちょうどよかった」
ファジーはしばらく黙っていた……。
「私は、そうは思いません」
「…………」
アノンがファジーを見る。
「アノンさんには、ちゃんとあります」
「何が?」
「たくさんあります」
ファジーは微笑む。
「嬉しいと思ったことも」
「…………」
「楽しいと思ったことも」
「…………」
「誰かを助けたいと思ったことも」
アノンの表情が僅かに変わる。
「そして――」
ファジーはアノンを見る。
「私を守りたいと思ってくれたことも」
「…………」
アノンは何も言わなかった。
「だから」
ファジーは少しだけ考える。
「アノンさんは、何もない人じゃありません」
「…………」
「むしろ――」
ファジーは笑った。
「これから、いろんなものを見つけていく人なんじゃないでしょうか」
「…………」
胸の奥が――少しだけ熱くなる。
そんな感覚は、今まで知らなかった。
「だから……」
ファジーが立ち止まる。
「私から、一つお願いがあります」
「お願い?」
「はい」
ファジーはアノンの前に立つ。
「私が新しい名前を――つけてもいいですか?」
アノンは少し驚いた。
「俺に?」
「はい」
「なぜ?」
「アノンさんが、これから変わっていく人だからです」
「…………」
ファジーは少し考える。
「最初は何もない」
「でも、そこから始まるんです」
そして――
「ゼロ」
「…………」
「どうでしょう?」
アノンは、その言葉を繰り返す。
「ゼロ……」
「はい」
「何もないって意味だろ」
「そうですね」
ファジーは頷く。
「でも――」
優しく微笑む。
「ゼロは、始まりでもあります」
「…………」
「今は何もないからこそ」
「これから、何でも始められる」
アノンは黙っていた。
ゼロ。
何もない。
それは――今までの自分と同じだ。
けれど。
今までとは違う。
「…………」
アノンは自分の胸に手を当てる。
そこには――確かに何かがある。
ファジーを守りたいと思った。
傷ついてほしくないと思った。
もっと一緒にいたいと思った。
もっと――知りたいと思った。
「…………悪くない」
アノンが呟く。
「え?」
「新しい俺の名前だ」
ファジーの顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
「では――」
ファジーは嬉しそうに笑う。
「今日から、ゼロさんですね」
「…………」
アノンは少しだけ考える。
「ゼロ……」
その名前を――
初めて、自分以外の誰かから与えられた。
「……ゼロ」
もう一度、口にする。
不思議だった。
ただ名前を変えただけなのに。
胸の奥が――少しだけ温かい。
「ありがとう」
ファジーが目を丸くする。
「はい!」
「どういたしまして」
そして……二人は再び歩き始める。
その頃――王宮。
「ゼロ……?」
マクロが窓の外を見ながら呟いていた。
「アノンが名前を変えた?」
「はい」
側近が答える。
「ファジー嬢が新しい名を彼に与えたようです」
「…………」
マクロは目を閉じる。
未来を見る。
そこには――今までとは違う男がいた。
名前のない男。
何も持たなかった男。
その男が――一つの名を手に入れている。
「……ゼロ」
マクロは小さく笑う。
「面白い名前だ」
そして――
「未来が、また変わった」
王都――深夜。
ファジーと別れた後。
一人になったゼロは、空を見上げていた。
「…………」
今まで。
自分には何もなかった。
名前も。
夢も。
欲しいものも。
守りたいものも。
――何も。
けれど。
「…………」
ゼロは小さく笑う。
「一つくらい――」
胸に手を当てる。
「持っていてもいいのかもしれないな」
その顔には――今までにはなかった、確かな感情が浮かんでいた。




