エピソード 4ー3
これは、私の一番古い記憶だ。
優しい匂いと、ドレスの布越しに伝わる温もりが私を包み込んでいる。それだけで幸せになれる安全な場所。だけど、その温もりはすぐに消えてしまった。
『ルシアン、この子をお願いね』
『なにをおっしゃるのですか、奥様もお逃げください!』
優しい女性の声と、悲痛な男の声が響いている。
『……ダメよ。連中の狙いは私。この子の存在はまだ知られていない。私といたら、この子が逃げ切れなくなってしまうわ』
『一緒に逃げるべきです! この子を一人にするつもりですか!?』
『……そうね、私はダメな母親ね』
『いえっ、違います。私が言いたいのは――』
男がなおも言いつのろうとする。
けれど、彼女は儚げに笑った。
『心配してくれてありがとう。でも、この子には幸せになって欲しいの。だから、お願い。この子を安全な場所に逃がしてあげて。それが、私の最後の願いよ』
『……っ』
男が苦渋に満ちた顔で、私の身柄を受け取った。
幼い頃の私は、そのやり取りの意味がまったく理解できなかった。
でも、いまの私は違う。
このままだと、母親とはもう二度と会えないということを知っている。
――一人にしないで。
必死に手を伸ばそうとする。
だけど、どれだけ強く願っても、過去の記憶は書き換わらない。彼女は優しく微笑むと、首に掛けていたルビーのネックレスを外し、私の手に握らせた。
『私がお母様より受け継いだものよ。いつか、きっと迎えに行くからね』
大好きだった母の笑顔。
そして――
『愛しているわ』
それが私の覚えている、一番古くて新しい、母の記憶だ。
「……ここは?」
ぼんやりと目を開くと、馴染みのない客間の内装が目に映った。
あぁそうだ。
私は取り調べと称して、この部屋に軟禁されているんだった。そのまま待たされすぎて、ソファに座ってうたた寝をしていたようね。
状況を思い出し、やるべきことを再確認する。
これからベアトリスと協定を結び、ヴィオラの騎士の任命権を取り戻す。そのために必要な条件は――と考えていると、ほどなくしてベアトリスが客間に姿を現した。
彼女は護衛と侍女を引き連れて部屋に入ってきた。
「お待たせしてしまったかしら?」
「……そうですね。ずっと貴女と話してみたいと思っていましたから」
ベアトリスは少し虚を突かれたような顔をして、それからふっと笑みを零した。
「既に、こちらの思惑に気付いているようね」
「ええ。本当は、ヴィオラ公女殿下と内密の話をお望みだったのですよね? だから、私を排除しようとした。第一王子派の工作員かもしれないと、思っていたから」
「……その通りよ。でも、先の一件で、その可能性はないと判断したの」
私がレオンハルトを救ったからね。
「では、さきほどの一件は、第一王子派の仕業だとお考えなのですね」
「私はそう考えているわ。でなければ、私の使用人になりすました工作員が、わざわざヴィオラ公女殿下のまえで、レオンハルトを暗殺しようとするはずがないもの」
それはそうよね。
あの状況で暗殺が成功していたら、ヴィオラは第二王子派の敵になっていた。そんなこと、ヴィオラは望んでおらず、第一公妃派の人間にとっても好ましいことではない。
第一公妃派が纏まりを欠いているいまはなおさらだ。
だけど、あの暗殺者はヴィオラへの攻撃を躊躇った。つまり、レオンハルトを亡き者にしたうえで、ヴィオラを生かしておきたい勢力。
そこから導き出される勢力は、第一王子派だけだ。
つまり、あれはヴィオラを公王に押し上げ、第二王子派と敵対させるための策。
「こちらからも質問をよろしいでしょうか?」
「先日、ヴィオラ公女殿下が襲撃された件ね。誓って言うけれど、私の命令ではないわ。私がおこなったのは、彼女を離宮に追いやったことだけよ」
「では、ナタリアが嘘の教育をしたことについてはいかがでしょう?」
「それもナタリアの勇み足よ」
勇み足、か。
「完全に無関係、とは言わないのですね」
「そうね、私に責任がないとは言わないわ。けれど、私にとっても不本意な話なの」
決してあり得ない話ではない。
ただ、事実だと確信するには情報が足りていない。
「まだ信じられないという顔ね。でも、ヴィオラを離宮に追いやった時点で私の目的は果たされていた。過剰に追い詰めれば、相手から手痛い反撃を受けることもあるでしょう? そんな危険を冒す理由がないの」
「その考え方は理解できます」
追い詰めすぎると、ネズミが猫を噛むこともある。
政敵を生かさず殺さず、飼い殺しにするのは基本戦術の一つだ。
「それに、私は……そしていまは亡きエレオノーラも、アルヴェイン公王陛下の中立を望むという考えに賛同しているの。その政治バランスを崩すような真似はしないわ」
これは私が想定する可能性のうちの一つ。
それを彼女の行動から考えていた。
「つまり、ベアトリス第二公妃殿下にとって、第二王子派は後ろ盾であると同時に、潜在的な敵にもなり得る、ということですね?」
「ええ。ヴィオラ公女殿下にとって、第一王子派がそうであるように、ね」
――前提条件が揃った。
「ベアトリス第二公妃殿下。ヴィオラ公女殿下の侍女である私と、レオンハルト公子殿下の母親である貴女は、決して味方にはなれません。ですが……」
「そうね。アルヴェイン公王家の敵が相手なら、手を組むこともやぶさかではないわ」
ベアトリスは扇で口元を隠してわずかに笑った。
いいわね。彼女は必要なら敵とも共闘できるタイプの人間だ。
感情よりも、利害で判断できる人間は読みやすい。
「では、お茶会の席の顛末を決めましょう」
後継者争いは継続。
その裏で、第一、第二王子派の謀略を打ち破るために共闘する。そのために、どのような結末を用意するべきか。私は口元に指を添え、具体的な内容を考える。
第一、第二王子派は、ヴィオラとレオンハルトが派手に後継者争いをすることを望んでいる。
だから、裏取引をしたなんて気付かれるわけにはいかない。それを踏まえると、ベアトリスと必要以上に距離を詰めるべきじゃない。表向きは、関係を悪化させるくらいが理想だ。
それに、ベアトリスとは共通の敵に対して共闘するだけ。
後継者争いにおいては、あくまで敵だ。
「お茶会の席で警備上の問題が発生し、それによってお茶会は中止となったと、公表するのはいかがですか?」
そうすれば、第一、第二王子派を欺き、ヴィオラとベアトリスの関係も悪化したと思い込ませることが出来る。妙案でしょうと笑うと、ベアトリスは口元を引きつらせた。
「あら、それはダメよ。お茶会の席で騒ぎがあったなど、私の手腕が疑われてしまうじゃない。どうせなら、口の悪い侍女が私を怒らせた、というのはどうかしら?」
ベアトリスが言い返してくる。
私を相手に舌戦を仕掛けようなんて、面白いじゃない。
「口の悪い侍女なんてどこにいるのですか? それに、お茶会で騒動が起きたのは事実ではありませんか。それをすべて隠そうとするのは、無理があるのではありませんか?」
確認するまでもない。ヴィオラが警戒態勢で離宮へ戻ったところを目撃した者は必ずいる。それを隠そうとすると、逆に妙な憶測が広がりかねない。
「かもしれないわね。でも、襲われたのがレオンハルトだなんて噂が立てば、ヴィオラ公女殿下も困るのではなくて?」
「たしかに困りますが……その暗殺者が、ベアトリス第二公妃のメイドだった。なんて噂が立つよりはマシではありませんか? ましてや、ヴィオラ公女殿下が護ったなんて、ねぇ?」
より困るのは貴女。それを指摘すると、ベアトリスは笑みを凍り付かせた。
それから無言で私を睨み付けてくる。
これ以上は交渉が決裂するかもしれないと、私は少し妥協――する振りをして、本来の要望を口にする。
「では、お茶会の席で安全上の懸念が生じ、ヴィオラ公女殿下は念のために席を立ったと、その程度の表現に留めるのはいかがですか?」
これならば、ヴィオラが念のために席を立っただけ。決して、お茶会を中止にするくらいの不備があったわけではない、という言い訳が立つ。
それを聞いたベアトリスは小さく頷いた。
それこそが、私の思惑通り、ということには気付かずに。
「いいわ、それで手を打ちましょう」
後ろに控えていた侍女に、すぐに噂を流すように命じた。ベアトリスは私の方へと視線を戻し、それから複雑そうな笑みを浮かべる。
「貴女と話していると、エレオノーラのことを思い出すわ」
「……ヴィオラ公女殿下の母親、ですか?」
「ライバルだったのよ、私たち」
どこか懐かしそうに笑う。
だけど次の瞬間には、そっと目を伏せた。
「――もっとも、あの子はそんなふうに思っていなかったかもしれないけどね」
「ベアトリス第二公妃殿下が、そのように思うほどの相手だったのですか?」
まだ関わって間もないけれど、彼女の政治手腕は目を見張るものがある。なのに、そのベアトリスが一方的にライバル視する。それは、エレオノーラが優秀な証拠だ。
「それまで負けたことがなかった私は、初めて彼女に負けた。それが悔しくて、私は何度も彼女に挑んだ。なのに、あの子、友達が出来て嬉しい、なんて笑うのよ。こっちは必死に勝とうとしているのに。まったく、嫌になるわ」
「――っ」
脳裏に浮かんだのは、回帰前のヴィオラのセリフ。
さすが、親子ね。
「ね? 一方的にライバル視して、馬鹿みたいでしょ?」
彼女は自嘲するけれど、私は笑うことが出来なかった。
「それで、貴女は最後に、エレオノーラ第一公妃殿下に勝利したのですか?」
エレオノーラを暗殺したのか? と聞いた。
なのに――
「次こそは。そう思っていたのだけど、ね」
彼女はただ悲しげに首を横に振った。
「友人、だったのですか?」
「どうかしら? 私が勝利することもあれば、もしかしたら。そんなふうに思ったこともあったわ。でも、あの子は私を置いて逝ってしまったから」
もう知ることは出来ないと、ベアトリスは寂しげに笑った。
「じゃあ……好き、だったんですか?」
「……嫌いよ。私を残して、先に行くような薄情者は」
彼女はわずかに視線を落とし、それ以上は答えなかった。
ベアトリスは、エレオノーラに勝利した未来を知ることが出来なかった。
じゃあ、私と、ヴィオラはどうなんだろう?
いつか、私がヴィオラに勝利して、その先は?
……いや、ベアトリスの話に引っ張られすぎね。
そもそも、いまのヴィオラは私の敵じゃない。
彼女に勝利する方法を考えるより先に、彼女を最強に育てることを考えなくちゃね。
それに、騎士の任命権を取り戻すことと、使用人の雇用の件。
解決のめどは立ったけど、やるべきことは多い。
そして最大の問題。
後継者争いと、エルディア王国の思惑について。後継者にふさわしくなれるようにヴィオラを育てつつ、エルディア王国の思惑を撥ね除ける必要がある。
そんなことを考えていると、不意に扉がノックされた。
やってきたのは執事らしき男。彼はベアトリスに向かって報告をする。
「ベアトリス第二公妃殿下、離宮からノクス様の迎えがお越しになりました」
「すぐにお返しすると伝えなさい」
ベアトリスはそう言った後、「催促に来るなんて、貴女、よほど気に入られているのね」と笑った。それから席を立ち、扉の前へと移動する。
だけど部屋の外へ出る寸前、彼女はクルリと振り返った。
「息子とヴィオラを護ってくれて、ありがとう」
彼女は穏やかな笑みを残し、案内役の執事と入れ替わりで姿を消した。
こうして、私は無事に離宮へと帰還した。
エントランスホールを歩いていると、銀色の塊が飛んでくる。それがヴィオラの長い髪だと気付くと同時、彼女に抱きつかれた。
「ノクスぅ!」
「――んぐっ」
頭突きを食らった。苦情を口にしようとして――だけど口を閉じた。ヴィオラが私の胸の中で泣いているのに気付いたから。
彼女を押しのけようとしていた、自分の手をぼんやりと眺める。
いつか、この手で彼女を突き放すときが来る。
でも、いまはそのときじゃない。
だから――
「ヴィオラ公女殿下、ただいま戻りました」
その愛らしい小動物の頭を優しく撫でながら、これからのことに考えを巡らせた。




