エピソード 3ー8 アイシャの後悔
孤児院の子供は一人残らず売られていく運命だ。
その後、どうなるかは考えたくもない。
少なくとも、売られた者たちから、その後の便りが届いたことは一度だってない。
だから、院長先生に呼び出されたとき、アイシャは世界の終わりを迎えたような気持ちになった。自分は誰かに売られて、そしていまよりも酷い環境に入れられる。
それが分かっていながら、抗おうとは思わなかった。
いや、抗い方を知らなかった。
それがアイシャの生き様で、彼女の人生はそのまま人知れず終わりを迎えるはずだった。
だが、アルナに背中を押されたアイシャは治安局に逃げ込んだ。そこで運良くクラリス補佐官に保護され、証拠を引き渡すことで孤児院にも立ち入り調査が入る。
多くの証拠、証言から人身売買が明らかになり、孤児院の院長は逮捕されることになった。
子供たちの多くが保護され、仮の住まいで保護される。
アイシャもその一人である。
けれど、そこにアルナの姿はなかった。
保護してくれた人にそれを訴えると、いまは行方不明で捜索中だと聞かされた。
『私を助けたいと本気で思うなら、いますぐそれを持って治安局へ向かいなさい』
脳裏をよぎったのは、アルナが告げた一言。もしかしたら、自分が躊躇ったからアルナが行方不明になったかもしれない。そんな罪悪感に苛まれる。
そんなある日の昼下がり。
アイシャは来客があると応接間に呼び出された。
応接間と聞いて顔面を蒼白にする。
だけど、アルナの件だと聞いて勇気を振り絞った。重い足を引きずりながら応接間に向かうと、あの日アイシャを救った、ブロンドヘアのお姉さん、クラリス補佐官が待っていた。
ソファに座る彼女。
そしてその奥には、その部下とおぼしき女性の姿が見えた。その光景が、院長たちとだぶって見えて、アイシャは自分の腕をギュッと抱きしめる。
「ごめんなさいね、急に呼び出したりして。……って、顔色が悪いわね、どうかしたの?」
「すみません。院長に呼び出されたことを思い出してしまって」
「――っ。ごめんなさい、配慮が足りなかったわ。場所を移しましょう」
「いいえ!」
アイシャは拳を握りしめ、首を横に振った。
あの日、自分が躊躇ったから、アルナが行方不明になった。
(頑張れ、私!)
失敗は繰り返さない。
もう二度と、後悔したくないから。
そんな感情に突き動かされて、アイシャはクラリス補佐官の顔を真正面から見据える。
「大丈夫です。それより、アルナのことで話があるんですよね。聞かせてください」
「……そう。じゃあそこに座って。貴女に聞きたいことがあるの」
クラリス補佐官の勧めに従って、ローテーブルの手前側にあるソファに座る。
「本当はお茶菓子でもと思ったんだけど……そういう気分じゃなさそうね」
クラリス補佐官が手振りで部下とおぼしき人に合図を送る。
すると、その部下は静かに応接間から出て行った。
部屋にはクラリス補佐官とアイシャだけが残される。
「それじゃ、さっそくだけど、アルナのことを聞かせてちょうだい」
「かまいませんが、なにをしゃべればいいんですか?」
「全部よ。彼女のことで、知っていることは全部」
要求がふわっとしすぎている。
それでも、アイシャは思いつくままのことをしゃべる。
アルナという名前。年齢は十一歳くらいで、身長は145cmくらい。黒髪はしっとりとしたストレートロングで、瞳は冷たい青色であること。
「性格は冷たく感じるかもしれないけど、本当はすごく優しいんです。あの日も、私を逃がすために院長たちの足止めをしてくれて、私は逃げられたけど、そのせいでアルナは……」
行方不明になったと唇を噛む。
涙が溢れそうになるけれど、それは太股の上に置いた両手をギュッと握って堪えた。
「アイシャ。その話、間違いないかしら?」
「それは、どういう意味、ですか」
「キミはさきほど、くらいという言葉を二度、使った。その情報の確度を知りたいの」
「かくど?」
「あら、ごめんなさい。どれだけ合っているか、という意味よ」
「……すみません」
言葉をよく知らないことに恥じらう。
「いえ、私の方こそごめんなさい。それで、どれくらい正しいの?」
「年齢は、くらいとしか言えません。身長は私よりだいぶ小さいくて……これくらい。なので、そんなに大きくは違ってないと思います」
「じゃあ、黒髪と、青い瞳は?」
「それは――」
脳裏に浮かぶのは、アイシャの背中を押したアルナの姿。
あの光景は、いまも鮮明にアイシャの脳裏に焼き付いている。
「間違いありません」
「本当に?」
クラリス補佐官は追及を止めず、ローテーブルの上に一枚の書類を置いた。
「――これは、孤児院にあった名簿の写しよ。アルナ、十二歳。青い髪と、黒い瞳と書いてある。だからもう一度聞くわ、本当に、黒髪に、青い瞳なの?」
クラリス補佐官の鋭い視線がアイシャに向けられた。
それでも、アイシャは静かに頷いた。
「間違っているのはその名簿です。だって、私は覚えています。風になびく黒い髪が素敵だと思ったことも、氷のように冷たい青い瞳が、思いのほか優しかったことも」
「……そう。エピソード記憶として、覚えているのね」
クラリス補佐官は小さく呟き、思案顔になった。
「……あの、それがどうかしたんですか?」
「ごめんなさい。それに答える前にもう一つ教えて欲しいの。貴女は、アルナが逃がしてくれたと言ったわよね。彼女が院長先生を引き留めたと」
クラリス補佐官がアイシャを見つめる。その視線に動揺しつつ、アイシャは「そうですが、それがなにか?」と首を傾げた。
「じゃあ、そのときの会話は聞こえた?」
「はい。アルナが、院長先生に話しかけているのを聞きました」
「それは、院長先生の声も聞いた?」
「え、それはもちろん……あれ?」
頷こうとして、記憶にないことに思い至る。
「ごめんなさい。それは覚えていません」
アイシャは慌てた。
断言できなかったことで、自分の話を信じてもらえなくなるかもしれないと思ったから。
でも、実際には逆だった。
分からないことを分からないと言ったからこそ、その他の情報の信憑性が増したのだ。
「大丈夫、分かっているわ。大丈夫、貴女はちゃんと聞きたいことを教えてくれたから」
「……本当、ですか?」
不安げに瞳を揺らす。
アイシャに向かい、クラリス補佐官は優しく微笑んだ。
「恐らくだけど、アルナは無事よ」
「本当ですか!?」
「ええ、行方までは分からないけど、追っ手から逃げ延びているみたい」
「……よかった。どこかで、生きているんだ。アルナが」
あの日、アイシャは躊躇って、大切な友人を失った。
そのことは二度と取り戻せないと、そう覚悟していた。
だけど、そうじゃない。まだ出来ることがあるのだと、そう思った。
こんなとき、アルナならどうする?
アルナなら、きっと……
「クラリスさん、どうしたら治安局で働けますか?」
クラリス補佐官は目を見張って、それから小さく息を吐いた。
「いますぐは無理よ。でも、たくさん勉強すれば、治安局で働くことは可能よ」
「そう、ですか……」
いまは無理。それがとても歯がゆい。
でも、あのときもっと早く決断していたら、なんて後悔はもう二度としたくない。だから、いつかアルナに恩を返すために、いま出来ることをする。
(だって、アルナなら、きっとそうするはずだから)
この日、アイシャは密かに誓いを立てた。このことを切っ掛けに、アイシャは大きく成長し、やがてはノクスと出会うことになるのだが――それはまだ、もう少し先の話である。
ところ変わって治安局の局長室。
聞き取りを終えたクラリス補佐官は、報告のために局長を訪ねた。執務机の向こう側に座る初老の男はクラリス補佐官に気付くとペンを止め、静かに顔を上げた。
「どうであった? 調査の結果は」
「黒です。やはり何者かが、プロフィールの改ざんをおこなっていました」
「やはり、か」
治安局は既に、孤児院から逃げたアルナが川に落ちたという情報を掴んでいる。多くの目撃情報の他に、顧客の護衛だった男からも証言をとった。
だが、その後の目撃情報はない。
だから最初は、孤児院は解体、院長は逮捕、アルナは行方不明として処理、という形で幕を下ろす予定だった。隠し金庫の奥に隠された、あるペンダントを見つけるまでは。
貴族でもおいそれと手に入れられないような深紅のルビーが填められたペンダント。そして裏の台座には、触れ合う二枚の羽が刻まれていた。それは、フローリア侯爵家が秘密裏に探している、とある女性の所持品とされるペンダントと同じデザインだった。
それゆえに、クラリス補佐官はペンダントの入手経路を探すために院長の尋問をおこなった。その結果、そのペンダントの持ち主がアルナだったと発覚した。
もっとも、フローリア侯爵家は十二年前からずっと、その女性を探している。当時ですら十代後半で、いまは三十前後になる。アルナでは年齢が合わない。
それでも、ペンダントの件がある以上は、なかったことにはできない。
治安局は威信に懸けて再調査をおこなった。その結果、書類上と、周囲の者たちに確認した、アルナのプロフィールが違っていることが明らかになった。
プロフィールが改ざんされていることに気付いたクラリス補佐官は戦慄した。
治安局が足取りを追っていたのは、書類に記載された容姿の少女だったから。
街中での逃走劇は目撃者が多く、その主役がアルナだと明らかだった。
だから、容姿の詳細を確認しなかったのだ。
そこで、治安局が聞き取り調査を再開すると、川に落ちた後にも目撃情報を得ることができた。
明らかになにかある。
そう思っての今日の聞き取り調査。そこで、アイシャは気になることを言った。アルナが、アイシャを逃がすために院長を足止めした、と。
それは、院長たちから聞いた内容と異なっている。
アイシャの思い違いという可能性はあり得る。
だが、もしかしたら――と、クラリス補佐官は考えた。
「局長、フローリア侯爵家が探している女性、何者なのでしょう?」
ぽつりと呟くと、局長は書類に視線を落とした。
だが、彼はペンを動かすことなく、おもむろに口を開く。
「これは独り言だが……十二年前の同時期に、二つ家から死亡通知が出されている。一人はフローリア侯爵家の令嬢で、もう一人はガルヴェイン侯爵家傍系の男だ」
第一、第二王子派を代表するような侯爵家だ。
「その二人、実は恋仲だったという噂があってな」
「恋仲、ですか? 対立する派閥に属する家柄ですよね?」
「そう。だから、根拠のない噂だ。だが、その二人の死が同時期に発表された。にもかかわらず、フローリア侯爵家は、その死んだはずの娘を十二年間も探し続けている」
二人は駆け落ちをして行方をくらませた。
そんな可能性がクラリス補佐官の脳裏をよぎった。
「なら、アルナという娘は……」
エルディア王国を代表する二大派閥の、有力な貴族の血を引く娘かもしれない。
もしも、そんな存在がこの世に生まれているのだとしたら――両派閥を繋ぐ絆にも、争いの火種にもなり得るだろう。その可能性を理解して、クラリス補佐官は息を呑んだ。
「クラリス補佐官、これは忠告だ。この世界で長く続けたいのなら、あまり深入りはするな」
「肝に、銘じます」
神妙な顔で答える。
だけど心の中では、きっと深入りすることになるだろうことを予感していた。




