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私を殺した公女、いまは幼女  ――私以外に、負けるな。【連載版】  作者: 緋色の雨


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エピソード 1ー1

 これは……カビの匂い?

 遠くから聞こえるのは、子供の声かしら?

 どこか懐かしい……って、おかしい。

 私、死んだんじゃなかった?


 パチリと目を開くと、目の前に板張りの天井が見える。いつか、どこかで見た記憶が……あぁ、そっか。これ、孤児院の天井だ。

 ずいぶんと懐かしいけど、あの雨漏りの跡に見覚えが――っ。


 ……なに、これ?

 天井に向かって伸ばした手が小さい。

 いいえ、小さいのは手だけじゃないわ。身体全体が小さくなってる。まるで子供の頃に戻ったかのように……って、まさか? いや、こんな時こそ冷静に考えましょう。


 走馬灯にしては……意識がはっきりしすぎてるわね。

 そもそも、死にゆく寸前の幻なら、今後のことを考えても意味はないわ。


 だからひとまず、子供の頃に回帰したと仮定しましょう。

 なぜ? 分からない。どうやって? それも分からない。

 じゃあ、いまはいつ?


 身体は軽い――けど、筋肉はついてなくて、いかにも頼りなく感じる。つまり、組織で鍛える前ね。そしてこの手の大きさは……十一、二歳くらいかしら?

 孤児院にいたのは十一歳までだから、いまはちょうどその時期ね。


 そして、この孤児院は腐ってる。

 院長が子供を売り、私腹を肥やす。人身売買の温床になっている。

 子供の行く末は真っ暗だ。


 このままだと、回帰前と同じように、組織に売られることになる。

 組織は私に生きる方法を教えてくれた。戦い方、諜報のやり方、そして情報の扱い方。弱者として食われる側から、他者を食らう側になれたのは組織のおかげ。


 もっとも、それは慈悲じゃない。

 逆らえば殴られ、失敗すれば食事を抜かれ、役に立たなければ始末される。彼らは役に立つ道具を欲し、私は生き残るための技術を求めた。

 その利害関係が一致した結果でしかない。


 そして、その利害関係は――回帰することで失われた。

 私にはもはや、組織に返す義理も、恨みもない。


 つまり、私は自由だ。

 ここから逃げ出し、どんな人生だって選ぶことが出来る。


 だけど、私はヴィオラに負けた。


 幼少期に組織に売られ、工作員として育てられた。私の唯一の特技。その技術だけを頼りに生き抜いてきた。そのプライドをヴィオラに打ち砕かれた。


 私にとっての命懸けは、彼女にとっての娯楽でしかなかった。

 あの敗北を抱えたまま、自由に生きるなんて出来る?


 ――いいえ、出来ないわ。


 私はヴィオラを殺したいわけじゃない。

 地位を奪いたいわけでもない。

 だけど、負けたまま、すべてを忘れるなんて我慢できない。


 私が欲しいのは、ただ一つ。

 あの怪物が本気で組みあげた盤面を、私の一手でひっくり返して勝利すること。

 それを成し遂げたとき、私は初めて自由を謳歌することが出来る。


 まずは、彼女の懐に潜り込もう。彼女のもとで働き、彼女の信頼を得る。そうして彼女が私を信頼して用いたとき、私の裏切りという逆転の一手を突き付ける。

 二度目の人生のすべてを懸けて、ヴィオラに勝利する。


 ……あの子は、それでも楽しかったと笑うのかしら?

 あるいは、私が、私だけが、あのときのヴィオラのように、楽しかったと笑うのかしら?


 たしかめてみたい。

 一度そう思ったら、もう他にはなにも考えられない。


 ベッドから降り立ち、質素なワンピースに袖を通し、考えるのはこれからのこと。


 ヴィオラが暮らすアルヴェイン公国を目指す。

 ただ、ヴィオラの懐に入り込み、表舞台に上がるつもりなら、孤児院で育った私の痕跡は消しておく必要がある。まずは私の記録を書き換え、それから孤児院を脱出しよう。

 ……よし、方針は決まったわ。

 ――任務を遂行する。



 廊下を歩いていると、背後から声を掛けられた。

 振り返ると、赤毛の女の子が微笑んでいた。


 彼女は……あぁ、思い出した。

 ルームメイトのアイシャだ。

 私が寝坊したときは声を掛けてくれて、私の服がほつれたらいつの間にか繕ってくれたお人好し。組織に売られた後もその優しさを捨てられず、それが原因ですぐに死んでしまった。

 もう会うことはないと思っていたけど……そっか、いまはまだ、生きているのね。


「アイシャ、ちょうどよかった。ちょっと教えて欲しいことがあるの」

「ん? アルナが頼みなんてめずらしいね」


 アルナって、誰?

 ……あ、私か。

 ノクスは組織に与えられたコードネーム。この頃の私は、アルナと呼ばれていたんだった。


「たいしたことじゃないんだけど、院長先生はどこにいるのかなって」

「院長先生なら応接間だよ。今日は……その、お客さんが来てるみたい」

「……そう」


 この客というのは、子供を買いに来た顧客のことだ。このままだと今日も誰かが売られていき、人知れずこの世から消えることになる。あまりグズグズしている時間はなさそうだ。

 そう判断した私は、アイシャとの会話を早々に切り上げてその場を離れた。



「鍵は……当然掛かっているわよね」


アイシャと分かれた後、院長室の扉の前へとやってきた。

 周囲を確認し、用意したヘアピンを鍵穴に差し込む。いまの身体能力は頼りないけど、この程度の鍵なら関係ない。わずか数秒で鍵を開け、するりと部屋の中へと忍び込んだ。

 後ろ手で鍵を掛け、部屋の中を見回す。


 机の上にはインク壺や、上質の紙。

 周囲には高そうな調度品が取りそろえられている。


 ……院長室に入るのは初めてだけど、やっぱり贅沢をしているわね。子供の部屋にはなにもないのに、ここは裕福な家の一室と言っても通用する程に。


 ……不愉快ね。

 さっさと目的を果たしてしまいましょう。


 名簿はどこかしら?

 執務机の引き出しを上から順番に漁る。

 書類は……めぼしい物はないわね。

 裏帳簿はもちろん、子供を売買した記録なんかも見当たらない。

 どこか、別の場所にしまってあるのかしら?

 だとしたら――


 部屋を見回した私は、執務机の斜め後ろに絵画が掛けられていることに気付いた。でも、飾るにしては高さが不自然に低い。大きさ的にちょうど……と、当たりだ。

 絵画の後ろに隠し金庫が置かれていた。


 鍵は……ダイヤル式?

 これを正攻法で開けるのはちょっと時間が掛かる。

 だけど、どうせどこかにメモしてあるんでしょう?


 ――ほら、あった。

 金庫を用意しておきながら、鍵を同じ部屋に置く人って多いのよね。そこに貴重なものがあると教えるだけで、逆効果になると思うのだけど。


 まっ、私にとってはありがたい話よね――っと。

 鍵を開けると二冊のノート、それに布の巾着袋がしまわれていた。


 一冊目のノートは……裏帳簿ね。詳細の書かれていない、大きな収入がいくつもある。

 そしてもう一冊は、子供の名簿ね。

 定期的に子供が死亡したり、里親に引き取られたりしていることを示している。


 それ自体は不思議じゃない。でも二つを見比べれば……やっぱりね。大きな収入があったときと数日前後して、必ず子供が里親に引き取られたり、死亡したことになってるわ。

 これは子供を売った証拠ね。


 まずはこの名簿を開いて……と。院長先生の筆跡を真似て、自分の容姿や、拾われたときの状況など、プロフィールを改ざん、三日前に死亡したことにする。


 これで私が消えれば、本当に死んだか、どこかに売られたと判断されるでしょう。

 これで、孤児院育ちのアルナはこの世から消える。


 それじゃ、名簿を戻して――っ。

 足音? ここに入ってくるかしら? まずい、鍵を開ける音だっ。

 とっさに絵画で金庫を隠し、ソファの後ろに身を隠す。


 それとほぼ同時、音もなく扉が開いた。

 息を潜め、気配に意識を集中させる。


 ……重い足音。院長で間違いないわね。机の上でなにかしてる?

 あれは……さっきの暗証番号のメモ、マズい、金庫を開けるつもりね。絵画は戻したけど、中の金庫の鍵は開けっぱなしよ。

 絵画を少しでもずらされたら私の侵入がバレるじゃない!


 ――仕方ない。


 意識を集中して、指先に魔力を集める。

 この身体では、あまり大きな魔術は使えない。でもいまはそれで十分。狙い定めた魔力が、テーブルの上に置かれたインク壺に直撃。

 テーブルから転がり落ちた壺は割れ、絨毯の上に黒いインクをぶちまけた。


「ん? あぁっ、しまった! なんてこった。誰か……いや、この部屋に入れるのはマズいな。ぞうきんは……どこだったか」


 院長が部屋から出て行く。

 足音は……大丈夫、ちゃんと遠ざかってる。

 でも、急がないと、彼はすぐに戻ってくるわ。


 再び絵画をどけて、金庫の中身をあらためる。

 小さな巾着袋。中身は……あら、わりと貯め込んでいるわね。金貨がぎっしりじゃない。ちょうどいいから、逃走資金を確保しておきましょう。

 数枚の金貨を抜き出してポケットにしまい、残りは金庫の中に戻す。


 他にもなにかありそうだけど、確認している時間はない。

 名簿を金庫にしまって、帳簿はワンピースの下に隠す。最後に侵入した痕跡を部屋から消して、外に気配がないことを確認、するりと廊下に飛び出した。

 後は部屋の鍵を掛けて……よし。


「……任務完了」


 自然と零れた言葉に苦笑する。

 もう組織の人間じゃないのに、染みついたクセが抜けていない。でも、回帰前の技術が、私をヴィオラのもとへ届けてくれる。だから、まずは孤児院から抜け出そう。



 孤児院から逃げ出すために廊下を歩いていると、背後から足音が追いかけてきた。

 ……院長? いや、足音が軽い。これは子供のものね。

 敵意はなさそうだけど、足音はまっすぐ私に近付いてくる。

 目当ては……私?

 玄関の扉の前、クルリと振り返れば、駆け寄ってくるアイシャの姿が目に入った。私が急に振り返ったことに驚いたのか、アイシャは目を見張って足を止めた。


「アイシャ、どうかしたの?」

「え、あ、その……っ」


 様子がおかしいわ。

 よく見れば、その身がわずかに震えている。


「……もう一度聞くわ。アイシャ、なにがあったの?」

「院長先生が、呼んでるの。私と、アルナを」

「……呼ぶ? 院長室に?」


 おかしいわね。

 侵入がバレたにしては早すぎるわ。


「院長室じゃなくて、客間だよ」


 客間? たしかそこには顧客が……あぁ、そういうこと。

 回帰前、私とアイシャは同じ日、同じ組織に売られた。

 それが奇しくも今日だった、という訳ね。


 だとすれば、アイシャはこのまま死んでしまう。

 回帰前と同じように。


 その流れを絶つには、組織に入るのを止めるしかない。

 つまり、いますぐなんとかしなければ、アイシャの死は避けられない。


 ……それを説明する?

 いいえ、そんな暇はないわ。


 もたもたしていると、院長先生が探しに来る。院長だけが相手なら、いまの私でも切り抜ける自信はあるけれど、騒動を起こすと不測の事態に陥るかもしれない。

 まずはここから逃げ出すのが先決だ。

 そう思って踵を返すけれど、その袖をアイシャに掴まれた。


「……なに?」

「なにじゃないよ。院長先生が呼んでるんだよ」

「ええ、聞いたわ。だから逃げるのよ」

「そんなことしたら怒られるよ!」


 ――困ったわね。

 彼女はたしか、十三歳くらいよね。

 そんな子供が怯えるのは仕方ない。けど、彼女をあやしたり、説得している時間はない。それに、彼女と深く関わっては、名簿を改ざんして、自分が死んだことにした意味がなくなる。


 私はアイシャと違って、他人のために命を懸けるほどお人好しじゃない。だから、さっさと孤児院から逃げるのが正解だ。

 それが分かっているのに、アイシャが私の服を繕ってくれたことを思いだした。


 ……仕方ない。

 彼女を利用する方向に策を練り直そう。


 当面の作戦目標は、アルナが死んだふうに見せかけ、孤児院から脱出すること。

 そのうえで、アイシャを殺させない。


 後は、アイシャに一歩を踏み出す勇気があるかどうか。

 それすら出来ないなら見捨てる。だから、たしかめてみよう。


「アイシャ、貴女、死にたいの?」

「……え?」

「このまま院長先生の言うことを聞いて、無事に明日を迎えられると思っているの?」

「それは、思ってない、けど……」

「けど、じゃない。このままなら、終わるって分かってるんでしょ? なのに、どうして足掻こうとしないの? なにもしないなら、それは運命を受け入れているのと同じよ」

「じゃあどうしたらいいの!? 逃げたって、どこにも行くあてなんてないじゃない!」


 涙をこぼしながら私を睨み付けてくる。アイシャの瞳はまだ死んでいなかった。

 ……うん、いいわね。


 アイシャは分かってる。なんとかしなくちゃダメだって。

 分からないのは、その方法だけ。

 なら、この子は利用できる。


「アイシャ、治安局の場所は分かる?」

「……え?」

「治安局の場所よ。分かるか分からないか、早く答えて」

「えっと、大通りにある兵士が一杯いるところ?」

「分かってるじゃない。なら、そこに駆け込み、これを見せなさい」


 ワンピースの下に隠していた帳簿を取り出し、アイシャに押しつけた。


「え、え?」

「治安局の監査官……いえ、いまは補佐官ね。クラリス補佐官にそれを差し出せば、きっと全部いいようにしてくれるわ。だから、すぐに向かいなさい」


 回帰前の知り合い。彼女なら上手く処理してくれるはずだ。その確信を胸に扉を開けて、アイシャを孤児院の外へと押し出した。

 だけど扉を閉める寸前、アイシャがその扉の隙間に身体を割り込ませる。


「待って! アルナはどうするつもり!?」

「――院長先生が来てる。時間を稼ぐわ」

「そんなっ、出来ないよ。アルナも一緒に逃げようよ!」

「ダメよ。二人で逃げても捕まるわ。いいから先に行きなさい」

「でもっ!」

「アイシャ。貴女が渋れば渋るだけ、私が稼がなくちゃいけない時間が増えるの。私を助けたいと本気で思うなら、いますぐそれを持って治安局へ向かいなさい!」

「そうしたら、アルナも助かる?」

「ええ。だから早くいきなさい!」


 アイシャを押し出して扉を閉めた私は、その扉に唇を寄せた。


「――あっ、院長先生。どうかしたんですか? え、アイシャですか? さっき、部屋で着替えると言ってましたよ。……え、私? 分かりました、すぐにいきます」


 ――扉に向かって、一人で喋り続ける。

 実のところ、院長先生は現れていない。これは扉の向こうにいるアイシャに、私が院長先生を引き留めていると思わせるための演技だ。

 それを続けているとすぐに、外から走り去る足音が聞こえた。


 いい子ね。これで条件は整った。

 後は数分待つだけよ。



 ……そろそろアイシャは逃げ切れたかしら?

 これで、アイシャがいまの状況を治安局に伝えてくれる。後は少しだけ騒動を起こして、私が死んだかもしれないと、皆に思わせるだけ。

 頃合いだと、玄関の前でわざと大きな音を立てる。


 それに気付いた院長先生と、その商談相手、それに護衛とおぼしき男が様子を見にやってくる。私はそれを、玄関から外に出ようとする態勢で待ち受けた。


「アルナ、どこへ行くつもりだ!」

「――ひっ」


 怯えた振りをして、孤児院の外へと飛び出した。

 院長先生は……うん、追いかけてきているわね。ここまで計算通り。いくら子供に回帰したとはいえ、でっぷり太った院長先生に捕まったりはしない。

 だけど、彼の横から鍛えた男が飛び出してきた。

 顧客が連れていた護衛ね。


「逃がさねぇぞ、嬢ちゃん!」


 男は声を荒らげて追いかけてくる。

 実際に足が速い。彼を撒くのは難しそうだ。

 でも無理に撒く必要はないし、撒くつもりもない。


 そもそも、いまの彼に私を捕まえる気はない。

 こんな人目のある表通りでそんなことをすれば、たちまち憲兵が駆けつけてくる。だから彼の目的は、私を狩人のように追い立てて、逃げる気力を失わせること。

 あるいは、人気のないところへ逃げ込むように仕向け、人知れず捕まえることだ。


 そしてこの状況は、私にとって都合がいい。

 私が怪しい男に追われていたと、治安局に伝わる可能性が高まるから。

 だから彼の思惑に乗った振りを続け、街の外れにある橋の下へと逃げ込んだ。


「ようやく追い詰めたぞ」


 目の前には橋の下を流れる大河。そして背後には屈強な男。


「こ、来ないで!」


 胸の前で拳を握り、怯えた風に後ずさる。

 そうして向かうのは、堤防の縁。


「諦めて大人しくしな」

「や、やだ」


 ずるずると後ずさる。その足の裏で、堤防の縁にある急斜面を確認した。

 そして――


「あ、おい! それ以上は――」

「え? ――ひゃっ!?」


 堤防の縁で足を滑らせた振りをして、背中から大河に身を投げ出した。

 水が全身を包み、服が身体に纏わり付く。


「た、助け――ごぼっ」


 バシャバシャと水を叩いて溺れている振りをする。でも、組織で鍛えられていた私は服のまま泳ぐことくらいなんでもない――はずだったんだけど、思ったより水の流れが速いわね。

 もしかして、増水してる? 昨日、雨だったの?

 失敗した。

 回帰した私にとって、前日は十年くらい前のことだ。

 十年前の天気なんていちいち覚えていない。


 それでも、回帰前の私なら、この程度の流れは問題ない。でも、いまの私は十一歳の身体だ。ここにきて、回帰前といまの、身体能力の差、認識のずれが影響した。


 溺れてる振りをしてる場合じゃない。

 ――っ!?


 流木が迫っている。

 とっさに身体を捻る――が、肩にぶつかった。バランスを崩し、水の勢いに押し流される。


 ……痛い。

 マズいわね。痛みで意識を失いそう。流れに逆らって泳ぐのは無理ね。このまま流れに逆らわず、岸を目指さないと本当に溺れ死ぬわ。

 大丈夫、落ち着きましょう。

 限界を超えた状況だって、私ならなんとかできるわ。



「――はっ、はぁ。久しぶりに、組織の訓練を思い出したわ」


 クリアできなければ死ぬ。そんな課題をいくつもこなしてきた。

 その経験がギリギリのところで私を生かしてくれた。私はなんとか岸にたどり着く。


「……追っ手は? 大丈夫、そうね」


 五分くらい流されたかしら? 迫真の演技、どころか本当に溺れた。さすがに死んだと思ってくれたようだ。しばらく息を潜めていたけれど、追っ手が探しに来る気配はない。


 人が一人溺れたって言うのに薄情ね。

 いや、彼にとっては、購入前の商品が一つ、壊れた程度のことなんでしょうね。

 ……と、さすがに冷えてきたわ。


 いまが冬じゃなくてよかった。

 もし冬なら、さすがにこんな方法は選べなかったもの。


 岸から這い上がり、素早く人目のつかない橋の下へと移動。そこでワンピースを脱いで、硬く絞って水気を取った。

 枯れ木を集めて、指先に魔力を集める。パチリと火花が跳ねて、枯れ木から炎が上がった。その直後、上唇になにかが付着した。指で擦ると、指先が赤くなった。


 ……鼻血?

 たった二度、魔術を使っただけで鼻血が出るなんて……いまの身体は貧弱ね。しばらくは、魔術の行使を控えないと、マズいことになりそうだ。


 まぁでも、これで凍えることはないわ。後は……そうだ、金貨。

 ……よかった、ポケットに残ってる。

 これで当面の生活は大丈夫ね。


 私は身体の熱が逃げないように膝を抱え、服が乾くのを待ちながら今後について考える。


 これで、私は死んだ。最悪でも、人買いに連れていかれたと思われたはずだ。プロフィールも微妙に改ざんしたから、私にたどり着く人間はいないはずよ。


 これで第一段階は完了ね。

 次は、ヴィオラに接近するための計画を立てる。


 彼女が暮らすアルヴェイン公国は、エルディア王国に囲まれた小さな封国だ。エルディア王家の血を引く公王家が治めているので、国境を越える必要もない。

 いまの私でも、たどり着くことが出来る。


 問題は、どうやって彼女に近付くか、よね。いきなり部下になるのは無理だから、最初は……そうね。まずは見習いメイドとして潜り込むのが無難かしら?

 公王家のメイドともなれば、審査も厳しいはずだけど――ま、そっちはなんとかなるでしょ。


「くしゅんっ」


 ……ひとまず、今日の宿を探しましょうか。

 

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