05.込められた想い
「うう、無理。絶対無理ぃ」
お手本にしてね、てリーゼお姉ちゃんに渡された紙。リーゼお姉ちゃんは言っていなかったけど、これお師匠様の字です。
生まれた国の字じゃないのに、こんなにきれいなんて。お師匠様って、ほんとに何でもできちゃうよね。できないことってあるのかな?
「私、こんなにきれいに書けないよぉ。リーゼお姉ちゃんのいじわる!」
「ははは、修行はもう始まってる、てことじゃねーの?」
ふてくされていたら、コン兄ちゃんにポンポン、て頭を叩かれました。
「修行?」
「いつかミラがこの店を継ぐかもしんねーだろ? 今からしっかり仕込んでいく、てことじゃね?」
契約内容をちゃんと確かめるのは、商売の基本中の基本。
今回、私はそれをちゃんとしなかった。だから困ったことになってるんだ、てコン兄ちゃんは言いました。
「えー、そんなの言われないとわかんないよぉ」
「痛い目を見ながら覚えろ、てことだな。リゼはほんわかしてるようで、師匠譲りのキッツイとこあるからな。これからこういうの、続くぜ」
「ええーっ」
お店を継ぐなんて、私、全然考えたことないのに。そもそもリーゼお姉ちゃんが店長になったばかりだよ。なんでそうなるわけ?
「リゼや俺に何かあったら、お前、一人になるからな」
「え?」
コン兄ちゃんが笑顔で、でもすごく真剣な目で言いました。
「一人で生きていく力を身につけろ、師匠にはそー言われてっだろ? 本当にどうしようもなくなったら助けてくれるだろうけど、ちょっと困ったぐらいじゃ、師匠は助けてくんねーぜ」
コン兄ちゃんの言う通りかも。お師匠様、助けて、て言っても「まずは自分で何とかしてみなさい」て絶対言いそう。
「だから、いろんなことを勉強して身につけていかなきゃいけねーんだ。わかったか?」
「うん……わかった」
「よっしゃ。んじゃ、泣き言言ってねーで、まずは練習だ」
これ使え、て言って、コン兄ちゃんが反故紙をたくさんくれました。
「え、いいの?」
紙、て高いよね? こんなにたくさん、いいの?
「引っ越しの時、売物包んで持ってきたやつだ。あんま紙質よくなくて使い道ねーから、使っていいぜ」
「コン兄ちゃん、ありがと! 私、がんばってみる!」
よし、と気合を入れて、筆と墨を用意しました。
お師匠様の字を見ながら、同じように書いてみます。
でも――全然だめ。
なんだか形が変。バランス悪い。お師匠様の字と比べたら、恥ずかしくなっちゃう。紙もあんまりよくないから、ざらざらしてひっかかるし。
何回も何回も書き直して、どうにか上手に書けたかな、と思ったけれど、お師匠様の字と比べると全然だめで。
あうう、難しいよぉ。
やっぱり私には無理なのかなあ。あ、墨がなくなった。また磨らないと――よし、磨れた。よし、もう一回。うーん、やっぱり二文字目の「槃」がうまくいかないなぁ。
「おーい、ミラ」
「わっ!」
いきなりコン兄ちゃんに声をかけられて、びっくりしました。
「び、びっくりしたぁ。コン兄ちゃん、なに?」
「なに、て……もう昼だぞ」
カラーン、コローン、とお昼を告げる鐘が聞こえてきました。
え、もうお昼?
私、そんなにやってたの?
なんだか急にお腹が空いてきて、ぐぅーっ、てお腹が鳴りました。
「ほーん、たいしたものだなあ」
コン兄ちゃんが、練習で書いた紙を見て感心してくれた。けど。
「えー、全然だよ。お師匠様みたいに書けないよぉ」
「いや、師匠と比べちゃだめだって。十分上手だぜ」
「そうかなぁ」
「つーかミラ、お前、休憩なしでぶっ続けで練習してたんだぞ。それこそフツー、できねーっつーの。紙ももうあんま残ってねえし」
うわ、ほんとだ。反故紙もうあんまり残ってない。もっと練習したいのに、足りるかなぁ。
「まだやる気か。ミラの根気は、もう才能だな」
でも、と。
コン兄ちゃんが、私の手を引いて立ち上がらせました。
「いったん休憩だ。昼飯食べるぞ。いい仕事をするコツは、適度に休憩することだぜ」
「うん」
台所に行くと、リーゼお姉ちゃんがお昼ご飯を用意して待っていてくれました。
パンとスープの、簡単なお昼ごはん。でもとってもおいしくて、スープお代わりしちゃった。働いた後のご飯はおいしい、てこういうことなんだね。
「あら、よく書けているじゃない」
お昼ご飯の後、リーゼお姉ちゃんも工房に来て、私が練習で書いた字を見てくれました。
「このまま看板に使ってもいいくらいよ。半日ですごいわね」
「で、でも、なんか違う感じで……」
二人がほめてくれるのは嬉しいんだけど、私としては、何か違う気がして。
でも何が違うのか、よくわからないんだよね。
「ふーん、そっか。なるほどなるほど、そういうことか」
「なぁに?」
「ミラは、文字の意味をちゃんと理解してから書きたいのかも、て思ったの」
文字の――意味?
首を傾げると、リーゼお姉ちゃんは「ちょっと待っててね」と工房を出ていき、手帳を持って戻ってきました。
「私もね、お店の名前の意味が分からなくて、お師匠様に聞いたの」
NIRVANA。
それは、苦しみの連鎖から解き放たれた平穏な世界。迷いが消え、本当の意味で自由な世界。
「ミラが住むこのお店は、そういう場所であってほしい、という想いが込められているそうよ」
「……意味深だな」
コン兄ちゃんがポツリとつぶやいた。
意味深? どういうことだろう?
「ミラ、そんな想いを込めてみて。大丈夫、とっても上手に書けてるわ。あとはミラの気持ちが込められれば、完成よ」
「うん」
何か違う、ていうのは、何か足りない、てことだったのかな?
よくわからないけど――私はもう一度墨を磨り、筆を手に取った。
「ええと……」
苦しみの連鎖から解き放たれた、平穏な世界。
迷いが消え、本当の意味で自由な世界。
それが涅槃。
「心を静めて、想いのままに、一気に書きなさい」
ふと、お師匠様の言葉を思い出しました。
あれ?
そういうこと、なのかな?
心を静めて――上手に書こうなんて迷いを、深呼吸で消して。
想いのままに――自由に、一気に書いてみる!
「おお」
「すごい」
気がついたら、書き終わっていた。コン兄ちゃんがとリーゼお姉ちゃんの声が聞こえて、目の前の紙を見たら、すごく素敵な字が書けていた。
「え、これ……私が書いたの?」
「そうよ。優しくて温かい、すごくミラらしい字ね。とってもいいわ」
「よっしゃミラ。本番いくぞ!」
コン兄ちゃんが、看板用の板を置いてくれた。
これに書くのは、使い慣れた筆と墨じゃなく、少し大きな筆と白いペンキ。慣れない道具で上手に書けるかな――なんて不安は全然なくて、私はワクワクしながら一気に筆を滑らせた。
涅槃。
NIRVANA。
同じ意味の、違う文字。その二つが書かれて、新しい看板になった。
「できた! 最高よ、ミラ!」
「よっしゃ、いい看板に仕上げてやるぜ。楽しみにしとけ」
コン兄ちゃんが、さっそく作業に取り掛かりました。それを横目に、私とリーゼお姉ちゃんはハイタッチです。
「お疲れ様。ミラ、約束通り、明日は服を作りに行きましょう」
「うん!」
新しい服を作ってもらえる。それはもちろん嬉しいけれど。
でも、なんだろう。
任されたお仕事をちゃんとやれた、そのことがとっても嬉しい、て思いました。




