第54話:潮風と聖剣
それからの日々は、まるで、夢の中にいるかのようだった。
俺は、エリアの両親――もう、お義父さん、お義母さんと呼んでも、いいのかもしれない――と共に、この、シオフキ村で、暮らし始めた。
俺の、新しい人生は、日の出と共に、始まる。
お義父さんと一緒に、小さな漁船に乗り込み、沖へ出る。
網を投げ、それを、力一杯、引き上げる。
勇者の力など、とうに失せた、ただの人間の腕力では、この仕事は、なかなかの重労働だった。
だが、額に汗して、働くという、その、当たり前の営みが、俺の、空っぽだった心を、少しずつ、満たしてくれた。
漁から戻ると、お義母さんの、温かい食事が、待っている。
食卓には、いつも、獲れたての魚と、そして、野菜のスープが、並んだ。
三人で、食卓を囲み、その日あった、他愛もない出来事を、話す。
「今日は、大漁だったな」
「リアンさんが、手伝ってくださるおかげですよ」
「……いや、俺は、まだ、足手まといなだけだ」
そんな、何気ない会話の一つ一つが、俺にとっては、宝物のように、感じられた。
村の人々も、最初は、よそ者の俺を、遠巻きに見ていたが、俺が、エリアの両親の、遠い親戚ということになり、そして、俺が、黙々と、誠実に働く姿を見て、次第に、心を開いてくれた。
「よう、リアン! 今日も、精が出るな!」
「ああ。お前こそ」
今では、浜辺を歩けば、誰もが、気さくに、声をかけてくれる。
俺は、生まれて初めて、『共同体』というものの中に、自分の居場所を、見つけたのだ。
俺の、部屋は、かつて、エリアが使っていた、小さな屋根裏部屋だった。
その部屋の壁に、俺は、一本の剣を、静かに、飾っている。
力を失った、聖剣〈アルティウス〉。
もはや、それは、武器ではない。
俺と、エリアの、壮絶な旅の記憶。
そして、仲間たちの、尊い犠牲の、象徴。
俺は、毎朝、その剣を、静かに、見上げることで、決して、忘れてはならない、大切な想いを、胸に、刻みつけるのだ。
季節が、また、いくつも、巡った。
俺が、この村に、帰ってきてから、さらに、十年という歳月が、流れていた。
俺の髪には、白いものが、混じり始め、顔には、深い皺が、刻まれている。
お義父さんと、お義母さんも、ずいぶんと、歳を取った。
だが、俺たちの、穏やかな日々は、何も、変わらなかった。
ある、晴れた日の、午後。
俺は、漁の仕事を終え、一人で、あの、海が見える丘を、訪れていた。
それは、俺の、日課になっていた。
仕事の合間に、ここに来て、エリアの墓の隣に、静かに座り、彼女が好きだった海を、ただ、ぼんやりと、眺める。
それは、俺にとって、何よりも、心が、安らぐ時間だった。
エリアの墓は、いつも、綺麗に、掃除されている。
今日も、誰かが供えたのだろう、色とりどりの、新しい野の花が、潮風に、優しく、揺れていた。
そして、その墓石の上には、俺が、五年前に置いていった、あの、青いガラスの髪飾りが、今も、変わらずに、陽の光を浴びて、きらきらと、輝いている。
俺は、その隣に、腰を下ろした。
潮風が、心地よい。
遠くで、カモメの鳴く声が、聞こえる。
なんて、平和な、世界なんだろう。
この、ありふれた、穏やかな日常こそが、彼女が、そして、仲間たちが、命を懸けて、守りたかったものなのだ。
「……エリア」
俺は、隣で、彼女が、座っているかのように、静かに、語りかけた。
「……俺は、今、とても、幸せだぞ」
その言葉は、俺の、偽らざる、本心だった。
失ったものは、あまりにも、大きい。
胸の痛みは、一生、消えることはないだろう。
だが、それでも、俺は、今、確かに、幸せだった。
帰る場所があり、家族がいて、そして、心の中には、かけがえのない、温かい記憶がある。
それだけで、人が、生きていくには、十分すぎるほどだった。
俺は、そっと、目を閉じた。
瞼の裏に、エリアの、最後の、笑顔が、浮かんでくる。
その笑顔は、もう、悲しくはない。
ただ、ひたすらに、優しくて、温かい。
俺は、これからも、ここで、生きていく。
彼女の記憶と、共に。
彼女が愛した、この、海の側で。
それが、俺が見つけた、俺だけの、答え。
俺だけの、生きる、意味。
潮風が、俺の、白髪混じりの髪を、優しく、撫でていった。
それは、まるで、彼女の、優しい指先が、俺を、労ってくれているかのようだった。




