第55話(最終話):君のいた世界
さらに、幾星霜の時が、流れた。
俺の髪は、すっかり、雪のように、白くなった。
腰は曲がり、かつて、聖剣を振るった腕は、今では、漁に使う網ですら、重く感じるほどに、衰えてしまった。
お義父さんと、お義母さんは、数年前に、相次いで、穏やかな眠りについた。
二人とも、最期の瞬間まで、俺のことを、『自慢の息子だ』と、そう、言ってくれた。
俺は、二人の亡骸を、エリアが眠る、あの丘に、埋葬した。
今頃、三人で、海の見える、一番、高い場所から、俺のことを、見守ってくれているだろう。
俺は、今も、シオフキ村の、あの、小さな家で、一人、暮らしている。
漁に出ることは、もうなくなったが、村の若者たちに、漁のやり方を教えたり、破れた網を修繕したりして、のんびりと、余生を、過ごしていた。
村の子供たちは、俺のことを、「物知りのリアン爺さん」と呼んで、慕ってくれている。
俺が、かつて、最強の勇者だったことなど、もう、誰も知らない。
それで、よかった。
その日、俺は、いつものように、杖を突きながら、ゆっくりと、丘を登っていた。
足取りは、重い。
だが、この丘を登る時だけは、不思議と、心が、軽くなるのだ。
丘の頂上には、三つの、小さな墓が、寄り添うように、並んでいる。
俺は、その前に、静かに、腰を下ろした。
「……よう、みんな。……また、来たぞ」
俺は、そう言って、にこりと、笑った。
潮風が、墓石の前に供えられた、野の花を、優しく、揺らしている。
その中には、俺が、今朝、摘んできた、青い『希望の花』も、混じっていた。
俺は、懐から、古びて、ぼろぼろになった、一枚の地図を取り出した。
ゼノンが、遺してくれた、あの地図だ。
もう、インクは掠れ、ほとんど、何が書いてあるのかも、分からない。
だが、俺にとっては、どんな財宝よりも、大切な、宝物だった。
「……おかしな、ものだな」
俺は、独り言のように、呟いた。
「……俺は、ずっと、一人で、生きてきた、つもりだった。……だが、今、こうして、振り返ってみると、俺の周りには、いつも、誰かが、いてくれた」
感情を殺すように、育ててくれた、騎士団の教官たち。
共に、魔王討伐の旅をした、仲間たち。
俺たちを、助けてくれた、賢者や、街の人々。
そして、俺を、息子だと言ってくれた、温かい、家族。
「……お前たちのおかげで、俺は、ようやく、ただの、人間に、なれた気がするよ」
俺は、空を見上げた。
どこまでも、青く、澄み渡った、空。
カモメが、一羽、自由そうに、円を描いている。
ああ、なんて、美しい、世界なんだろう。
俺は、この世界を、守るために、戦った。
そして、この世界に、守られて、生きてきた。
「……エリア」
俺は、一番、小さな墓石に、そっと、手を触れた。
石は、陽の光を浴びて、温かい。
まるで、彼女の、肌の温もりのように。
「……そろそろ、俺も、そっちへ、行くかもしれん」
俺は、穏やかに、そう告げた。
「……そしたら、また、一緒に、旅をしよう。……今度は、もっと、ゆっくり、のんびりと、な。……お前が、見たがっていた、世界の、すべてを、見せてやる」
俺は、そう言うと、満足そうに、目を閉じた。
潮騒の音が、まるで、子守唄のように、聞こえる。
眠い。
少しだけ、眠ろうか。
この、温かい、陽だまりの中で。
俺の、意識が、遠のいていく。
その、最後の、瞬間に。
俺は、確かに、聞いた。
懐かしい、優しい、鈴を転がすような、声を。
『――お疲れ様でした、リアンさん。……ずっと、待っていましたよ』
俺の、口元に、穏やかな、笑みが、浮かんだ。
ああ、ようやく、会えるのか。
長かったな。
本当に、長い、旅だった。
彼の贖罪の旅は、終わった。
ここが、彼の帰る場所。
エリアという少女が、その命と引き換えに、彼に遺してくれた、最後の、そして、何よりも温かい贈り物だった。
かつて、最強の勇者と呼ばれた男は、愛する少女が眠る、海の見える丘で、世界で一番、幸せな、穏やかな、最期を、迎えたのだった。
彼の家の壁には、力を失った聖剣が、今も、静かに、飾られている。
それは、ただの、抜け殻ではない。
一人の、不器用な男が、一人の、儚い少女を、愛し、守り抜いた、その、壮絶で、そして、あまりにも、美しい物語を、後世へと、語り継ぐための、永遠の、道標として。
潮風だけが、その、静かな伝説を、いつまでも、いつまでも、優しく、撫で続けていた。
【了】




