第53話:ただいま
丘を下り、シオフキ村の入り口に立った時、俺の心臓は、旅立ちの日以来、感じたことのないほど、穏やかに、そして、少しだけ、速く、鼓動していた。
村は、五年前と、何も、変わっていなかった。
夕暮れの家々からは、魚を焼く、香ばしい匂いが漂い、子供たちが、一日の遊びを終えて、家路へと急ぐ声が聞こえる。
その、ありふれた、平和な光景が、今の俺には、何よりも、尊く、愛おしく、感じられた。
俺は、村の、一番、奥にある、一軒の、小さな家へと、向かった。
板張りの壁は、潮風に晒され、白くなっている。
窓辺には、色とりどりの、小さな花が、植木鉢に、飾られていた。
エリアの、家だ。
俺が、最後に、帰るべき場所。
家の前まで来ると、俺の足は、急に、動かなくなった。
本当に、入っても、いいのだろうか。
五年も、便り一つ、よこさなかった、俺を。
彼らは、まだ、受け入れてくれるだろうか。
今更、どの面を下げて、帰ってきた、などと、言われるのか。
様々な、不安が、俺の心を、よぎる。
俺が、扉の前で、逡巡していると、不意に、中から、話し声が聞こえてきた。
「……お父さん、今日は、風が、強いですね」
「……ああ。明日の、漁は、休みかのう」
懐かしい、声。
エリアの、母親と、父親の声だ。
二人とも、元気で、いてくれたのか。
その事実だけで、俺の胸が、熱くなった。
俺は、意を決して、木の扉を、そっと、ノックした。
コン、コン、と、乾いた音が、響く。
中の、話し声が、ぴたり、と、止んだ。
「……はい、どなた様ですかな?」
父親の、少し、訝しげな声。
ギィ、と、音を立てて、扉が、ゆっくりと、開かれた。
扉の向こうに、立っていたのは、五年前よりも、少しだけ、腰の曲がった、父親の姿だった。
彼は、目の前に立つ、薄汚れた、中年の旅人が、誰なのか、すぐには、分からなかったらしい。
怪訝な顔で、俺の顔を、じっと、見つめている。
「…………あの……どちら様、ですかな……?」
「…………」
俺は、何も、言えなかった。
何と、言えばいいのか、分からなかったのだ。
ただいま、と、言うべきか。
ご無沙汰しています、と、言うべきか。
言葉が、喉の奥で、つかえて、出てこない。
俺が、黙り込んでいると、家の奥から、母親が、ひょっこりと、顔を出した。
「お父さん、どなたです……って……」
彼女は、俺の顔を見た、瞬間。
その手に持っていた、布巾を、はらり、と、床に、落とした。
そして、その瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく、大きく、見開かれていく。
「…………あなた…………まさか…………」
彼女は、震える声で、言った。
「…………リアン、……さん……?」
その、懐かしい響きで、自分の名を呼ばれた瞬間。
俺の、心の堰が、完全に、決壊した。
「…………ただいま……戻りました……」
俺は、それだけ言うのが、精一杯だった。
気づけば、俺は、その場に、膝から、崩れ落ちていた。
五年間の、長い、長い旅の、疲れが。
背負い続けてきた、罪の、重さが。
今、一気に、噴き出してきたかのようだった。
「……ああ……! ああ……!」
母親が、駆け寄ってきて、俺の、泥だらけの体を、ぎゅっと、抱きしめた。
その腕は、細く、弱々しかったが、どんなものよりも、温かかった。
「……よく、ご無事で……! 本当に、よく……! ずっと、信じておりました……! あなたは、必ず、帰ってきてくださると……!」
父親もまた、俺の隣に、静かに、膝をつくと、その、節くれだった、大きな手で、俺の、肩を、何度も、何度も、叩いた。
彼の、日焼けした顔は、涙と、そして、喜びで、ぐしゃぐしゃになっていた。
「…………おかえり」
父親が、絞り出すように、そう言った。
「……おかえりなさい、リアン」
母親が、泣きじゃくりながら、続けた。
おかえり。
俺の、人生で、一度も、言われたことのなかった、その言葉。
その、あまりにも、温かい響きに、俺は、もう、耐えきれなかった。
俺は、二人の腕の中で、声を上げて、泣いた。
子供のように、ただ、ひたすらに。
旅の、終わりを。
そして、新しい、人生の、始まりを。
その、温もりの中で、確かに、感じながら。
俺は、帰ってきたのだ。
俺の、本当の、我が家へ。
エリアが、俺に、遺してくれた、最後の、贈り物へと。




