第44話:空っぽの聖剣
エリアの両親の家での日々は、静かに、そして、ゆっくりと過ぎていった。
俺の体は、母親の手厚い看病のおかげで、驚くべき速さで回復していった。命を削った代償は大きく、勇者としての超人的な力は失われたが、少なくとも、日常生活を送るには、支障がないレベルにまで戻りつつあった。
だが、体の傷が癒える一方で、俺の心の傷は、一向に癒える気配がなかった。
目を閉じれば、エリアの最後の笑顔が、仲間たちの壮絶な最期が、鮮明に蘇ってくる。そのたびに、後悔と無力感が、俺の心を締め付けた。
俺が目覚めてから、一週間が過ぎた頃。
一人の男が、この小さな漁村を訪ねてきた。
王都騎士団の、団長だった。彼は、ゼノンの最後の戦いを生き延びた、数少ない生存者の一人だ。
俺は、家の前の浜辺で、彼と二人きりで、話をすることになった。
「……体の具合は、いかがですかな、リアン殿」
「……ああ。おかげさまで、もう、問題ない」
「それは、ようございました。……ゼノン様も、草葉の陰で、喜んでおられるでしょう」
団長は、そう言うと、深い敬礼をした。
そして、懐から、一本の剣を取り出した。
黄金の輝きを放つ、美しい剣。俺が、平原で手放したはずの、聖剣〈アルティウス〉だった。
「……これは、あなた様にお返しせねばと」
俺は、差し出された聖剣を、黙って、受け取った。
ずしり、と重い。
だが、その重さは、ただの、金属の重さだった。
かつて、この剣に宿っていた、温かく、神聖な力の脈動は、どこにも感じられない。
俺の魂を吸い上げ、その役目を終えた聖剣は、もはや、ただの美しいだけの、抜け殻となっていた。
それは、まるで、今の俺自身のようだった。
勇者の力を失い、守るべきものも失った、空っぽの抜け殻。
「……リアン殿」
団長は、意を決したように、口を開いた。
「……王都からの、決定事項を、お伝えせねばなりません」
「……何だ」
「……あなた様と、エリア様、そして、ゼノン様とカサンドラ様の功績は、この世界の平和を守るため、王国の最高機密として、歴史の闇に、葬られることになりました」
俺は、驚かなかった。
そうなるだろうと、薄々、感づいていたからだ。
勇者が魔王に与し、聖女が王国を裏切った。そんな事実が公になれば、世界は、計り知れない混乱に陥るだろう。
人々が、英雄たちへの信頼を失い、王国の権威は、失墜する。
それを避けるための、為政者としての、当然の判断だ。
「……公式の記録では、こうなります」
団長は、淡々と、続けた。
「――魔王は、突如として、自滅した。勇者リアンは、その戦いの最中、行方不明。聖女カサンドラは、魔王討伐の祈りのため、辺境の修道院へと、その身を移した。そして、魔法使いゼノンは、魔王の残党との戦いで、名誉の戦死を遂げた、と」
「……そうか」
「……不服かもしれませんが、これも、あなた様方が守った、平和のため。どうか、ご理解を……」
「……分かっている」
俺は、もう、英雄でも、勇者でもない。
歴史の表舞台から、完全に、消え去った存在。
それで、よかった。
俺に、英雄として、賞賛される資格など、もはや、どこにもないのだから。
「……最後に、一つだけ」
団長は、懐から、もう一つ、小さな布包みを取り出した。
「……これは、ゼノン様が、あなたに、と。……最後の戦いに向かう前、私に、託されたものです」
俺は、その包みを、受け取った。
中に入っていたのは、古びた、一枚の地図だった。
それは、俺たちが、かつて、三人で旅をしていた頃に使っていた、思い出の品。
地図の上には、ゼノンの、几帳面な文字で、俺たちが立ち寄った村や、戦った場所が、細かく、記されている。
そして、その地図の隅に、彼が、最後に書き加えたであろう、短い言葉が、添えられていた。
『――友の、最後の我儘くらい、聞いてやる』
その、不器用で、素直じゃない、いかにもあいつらしい言葉を見た瞬間、俺の目から、熱いものが、こみ上げてきた。
「……そうか。あいつ……」
団長は、そんな俺の姿を、静かに見つめていたが、やがて、再び、深く敬礼すると、静かに、その場を立ち去っていった。
浜辺には、俺一人だけが、残された。
俺は、力を失った聖剣と、友が残してくれた地図を、ただ、呆然と、握りしめていた。
失われたもの。
残されたもの。
その、あまりにも、大きな意味を、俺は、まだ、受け止めきれずにいた。
ただ、一つだけ、分かっていたことがある。
俺の、本当の旅は、ここから、始まるのだと。
彼らが、命を懸けて、俺に託してくれた、この未来を、どう生きていくのか。
その、答えを、見つけるための、長い、長い旅が。




