第43話:残された者たち
どれほどの時間が、経ったのだろうか。
俺の意識は、深く、暗い海の底を、漂っていた。
温かくて、心地よい、静寂の世界。
もう、このままでいい。
戦うことも、苦しむことも、悲しむこともない、この安らぎの中に、永遠に溶けてしまいたい。
――リアンさん。
不意に、誰かが、俺の名を呼んだ。
エリアの声だ。
いや、違う。もっと、澄み切っていて、優しい響き。
――リアン。
今度は、別の声がした。
懐かしい、仲間たちの声。
ゼノンの、皮肉っぽい声。
カサンドラの、柔らかな声。
――まだ、眠っているのですか。
――しょうがない人ですね、あなたは。
彼らが、俺の手を、引いている。
暗い海の底から、眩しい光が差す、水面へと、俺を引き上げようとしている。
「……やめろ……。俺は、もう……」
俺は、抵抗しようとした。
だが、彼らの力は、あまりにも、温かくて、抗うことができない。
――生きてください。
最後に、エリアの声が、はっきりと、聞こえた。
――私の分まで。そして、あなた自身の、ために。
その言葉に、背中を押されるように、俺の意識は、ゆっくりと、浮上していった。
ハッと、俺は、目を覚ました。
最初に目に入ったのは、見慣れない、木の天井。
潮の香りと、薬草の匂いが、混じり合った、独特の空気。
俺は、簡素なベッドの上に、寝かされていた。
「……ここは……」
掠れた声で呟くと、すぐそばで、人の気配がした。
「……気がつかれましたか」
声のした方へ、ゆっくりと首を向ける。
そこにいたのは、初老の、日焼けした顔の男と、その隣で、心配そうにこちらを覗き込む、白髪の女性だった。
二人の顔には、深い悲しみと、そして、どこか、温かい慈愛の色が、浮かんでいた。
「……あなたは……」
「……エリアの、父です」
男は、静かに、そう名乗った。
「そして、私が、母親です」
女性が、涙声で、言葉を続けた。
エリアの、両親……?
どういうことだ。俺は、あの平原で、命を……。
「……王都の騎士の方々が、あなた方を見つけて、ここまで運んでくださいました」
母親が、途切れ途切れに、説明してくれた。
騎士たちが……? ゼノンの、部下たちか。
「……騎士団長様から、すべて、お聞きしました。……あなた様と、ゼノン様という方が、この世界を、救ってくださったのだと……」
父親の言葉で、俺は、すべてを悟った。
ゼノンは、自らが消える、その最後の瞬間に、残った部下たちに、俺たちの保護を、託したのだ。
あいつは、最後まで、友としての、役目を果たしてくれた。
「……そうか……」
俺の頬を、一筋の涙が、伝った。
友の、あまりにも、大きな犠牲。
その重さに、胸が、張り裂けそうだった。
俺は、そこで、はっと、気づいた。
「……エリアは……! エリアは、どうなった!?」
俺は、勢いよく、体を起こそうとした。
だが、全身に、激痛が走り、ベッドの上へと、再び、倒れ込む。
俺の体は、まだ、ほとんど、動かなかった。
命を失わなかったのが、奇跡のような状態だった。聖剣に魂を捧げた代償で、俺は、勇者の力の大半を失い、ただの、傷だらけの人間になっていた。
俺の問いに、エリアの両親は、顔を伏せ、ただ、静かに、涙を流すだけだった。
その、沈黙が、何よりも、残酷な答えを、俺に、告げていた。
「……娘は……」
やがて、母親が、絞り出すような声で、言った。
「……三日前、に……。私と、この人の腕の中で……静かに、息を、引き取りました……」
俺の、頭の中が、真っ白になった。
三日前……? 俺は、そんなに、眠っていたのか……?
エリアの、最期に、立ち会うことすら、できなかったのか。
「……娘は、とても、穏やかな顔を、しておりました」
父親が、涙をこらえながら、続けた。
「……まるで、長い、長い旅から帰ってきて、安心して、眠りについたかのような……。……最後に、一言だけ……『ありがとう』と、そう、呟いて……」
ありがとう……。
その言葉は、誰に、向けられたものだったのだろうか。
俺にか。両親にか。それとも、彼女が出会った、すべての人々にか。
「……あなた様が、リアン様ですね」
母親が、俺の手を、そっと、握りしめた。
「……騎士団長様から、すべて、お聞きしました。……あなたが、どれほど、この子のために、尽くしてくださったか。……あなたが、この子を、救ってくださったのだと」
「……違う……」
俺は、首を振った。
「……俺は、救えなかった……。約束を、果たせなかった……。海を、見せてやることすら……!」
嗚咽が、喉から、こみ上げてくる。
後悔と、自責の念が、俺の心を、完全に、打ち砕いた。
「……いいえ」
父親が、静かに、言った。
「……あなたは、娘を、救ってくれました。……この子が、一番、帰りたかった場所へ、還してくれた。……一番、会いたかった、我々の元へ……」
「…………」
「……だから、もう、ご自分を、お責めなさらないでください。……あなたも、娘にとっては、かけがえのない、家族なのですから」
その、温かい言葉に、俺の涙腺は、完全に、決壊した。
俺は、子供のように、声を上げて、泣いた。
失われた、あまりにも大きなもののために。
そして、残された、あまりにも、温かいもののために。
俺たちの、長くて、短い旅は、こうして、本当に、終わりを告げたのだった。




