第35話:絶対者の絶望
洞窟の入り口に立つ男――ゼーリオンは、まるで、そこにいることが当たり前であるかのように、静かに佇んでいた。
だが、その存在そのものが、周囲の空間を歪めていた。空気が凍てつき、洞窟の壁には霜が降り、焚き火の炎は青白く揺らめいて、今にも消えそうだ。
「……貴様が、ゼーリオンか」
俺は、眠るエリアを背後にかばいながら、聖剣を構えた。
全身の細胞が、警鐘を鳴らしている。
目の前の男は、危険だ。ギルヴァレスなど、比較にすらならない。
それは、生物としての格が、根本的に違うという、本能的な恐怖だった。
ゼーリオンは、俺の警戒を意にも介さず、その血のように赤い瞳で、俺の背後にいるエリアを、品定めするように見つめた。
「……ほう。随分と、器が摩耗しているな。魂の力が、漏れ出してしまっている。……これでは、我が力を注ぐ前に、壊れてしまうかもしれんな」
彼は、エリアのことを、まるで無機質な道具のように語る。
その態度に、俺の怒りが、沸点に達した。
「……エリアに、触れるな」
「フン。まだ吠えるか、勇者よ」
ゼーリオンは、初めて、その視線を俺に向けた。
「お前の名は、聞いている。我が計画の、唯一の障害。……だが、それも、ここで終わりだ」
彼が、そう呟いた瞬間だった。
俺は、攻撃の予備動作も、魔力の高まりも、何も感じ取れなかった。
ただ、気づいた時には、俺の目の前に、ゼーリオンの顔があった。
彼は、音もなく、空間を跳躍したのだ。
「――なっ!?」
反応が、間に合わない。
ゼーリオンの、細く、しかし鋼のように硬い指が、俺の首を、鷲掴みにした。
「ぐ……っ、あ……!」
凄まじい力で、気道が圧迫される。
俺は、そのまま、赤子の手をひねるように、軽々と持ち上げられた。
足が、宙に浮く。
聖剣を振るおうにも、腕に力が入らない。
「……これが、勇者か。聞いていたより、随分と、脆いではないか」
ゼーリオンは、心底つまらなそうに、俺を見下ろした。
その赤い瞳は、何の感情も映していない。まるで、路傍の石でも見るかのような、絶対的な無関心。
強い、とか、速い、とか、そういう次元の話ではなかった。
俺とゼーリオンの間には、決して覆すことのできない、絶対的な序列が存在していた。
それは、人間が、神に逆らえないのと、同じだった。
「……り……あ……ん……さ……」
背後で、エリアのか細い声が聞こえた。
彼女は、目を覚まし、目の前の光景に、絶望しているのだろう。
やめろ。見るな。
「ほう。まだ意識があったか、器よ」
ゼーリオンは、俺を掴んだまま、エリアへと視線を移した。
「ちょうどいい。見せてやろう。お前が信じる、そのちっぽけな希望が、いかに無力で、無価値であるかを」
そう言うと、ゼーリオンは、俺を掴んでいない方の手を、ゆっくりと、エリアに向けた。
その指先に、漆黒の魔力が、小さな点のようになって収束していく。
それは、俺が放った〈終焉の光芒〉にも似た、すべてを消滅させる、破壊の力。
だが、その密度も、純度も、俺の技とは、比べ物にならない。
「や……め……ろ……」
俺は、声を振り絞った。
「……やめて……ください……!」
エリアも、悲鳴のような声を上げる。
だが、ゼーリオンは、その懇願を、せせら笑うかのように、指を弾いた。
漆黒の点が、一直線に、エリアの心臓めがけて、放たれる。
――もう、だめだ。
俺の心が、完全に、折れた。
絶望が、俺のすべてを、塗りつぶしていく。
しかし。
その、漆黒の魔力が、エリアに届く、寸前だった。
ゴッ! と、横殴りの風が吹き荒れ、何かが、漆黒の魔力とエリアの間に、割り込んだ。
それは、巨大な、氷の壁だった。
漆黒の魔力は、氷の壁に突き刺さり、甲高い音を立てて、その場で消滅した。
「……何?」
ゼーリオンが、初めて、わずかに驚きの声を上げた。
俺も、エリアも、目の前で起きた、信じられない光景に、言葉を失っていた。
洞窟の外から、静かだが、強い意志を宿した声が、響き渡った。
「――間に合ったようですね」
そこに立っていたのは、漆黒のローブを身に纏った、一人の男。
手にした杖の先端からは、絶対零度の冷気が、立ち上っている。
その顔を、俺は、忘れるはずもない。
「……ゼノン……!」
かつての仲間。
そして、俺の行動を、誰よりも愚かだと断じた、リアリスト。
その男が、今、俺たちを救うために、絶対的な絶望の前に、立ちはだかっていた。




