第34話:失われていく世界
黒い影の恐怖から逃れるように、俺たちの旅は、これまで以上に過酷なものとなった。
街道を避け、森を抜け、岩がちな荒野をひたすらに進む。人との接触を完全に断ち、食料は、俺が狩りで得る獣や木の実だけが頼りだった。
そんな極限状態の中で、エリアの衰弱は、目に見えて進行していった。
彼女の視力は、ほとんど失われかけていた。
「……リアンさん、今、お日様は出ていますか……? なんだか、ずっと夜みたいで……」
晴れ渡った昼間ですら、彼女の世界は、深い霧に覆われた薄闇に閉ざされてしまっているようだった。
そして、ある日、聴覚にも、その兆候が現れ始めた。
「……え……? リアンさん、今、何か……?」
俺が話しかけても、彼女は何度も聞き返すようになった。鳥のさえずりも、風の音も、彼女の耳には、もう、遠い残響のようにしか届いていない。
世界が、少しずつ、彼女から遠ざかっていく。
その残酷な現実を、俺は、ただ無力に見つめていることしかできなかった。
言葉でのコミュニケーションが、次第に困難になっていく。
俺は、彼女との唯一の繋がりを失うまいと、必死だった。
「……エリア」
夜、洞窟で火を焚きながら、俺は、彼女の冷たい手を握り、その手のひらに、ゆっくりと指で文字を綴った。
『い・た・く・な・い・か』
エリアは、最初、きょとんとしていたが、やがて俺が何をしているのかを理解すると、その表情を、ぱっと輝かせた。
『だ・い・じょ・う・ぶ・で・す』
彼女は、おぼつかない手つきで、俺の手のひらに、返事を書いてきた。
その指先は、震えていて、力がない。
だが、その一文字一文字から、彼女の、懸命に生きようとする意志が、痛いほどに伝わってきた。
それから、手のひらの上の会話は、俺たちの、新しい日常になった。
俺は、彼女に見えない景色を、言葉にして綴った。
『い・ま・し・か・が・い・る』
『き・れ・い・な・は・な・が・さ・い・て・る』
エリアは、そのたびに、嬉しそうに微笑んだ。彼女は、俺の指を通して、失われゆく世界を、必死に感じ取ろうとしていた。
ある夜、彼女は、俺にこう綴ってきた。
『り・あ・ん・さ・ん・の・こ・え・が・き・き・た・い』
その言葉に、俺の胸は、締め付けられた。
俺は、彼女の耳元に口を寄せ、できる限り、大きな声で、ゆっくりと、彼女の名を呼んだ。
「……エ・リ・ア」
エリアは、必死に耳を澄ませ、やがて、聞こえたのか、聞こえなかったのか、分からないまま、ただ、幸せそうに、こくりと頷いた。
過酷な旅だった。
だが、不思議と、孤独ではなかった。
言葉を失い、五感を失っていく中で、俺とエリアの心は、むしろ、以前よりもずっと深く、固く、結びついていくのを感じていた。
肌を触れ合わせ、手のひらの文字を交わす。
その、原始的で、不器用なコミュニケーションだけが、俺たちが、まだ共にここにいるという、唯一の証だった。
だが、その穏やかな時間も、長くは続かなかった。
旅を始めて、二十五日が過ぎた頃。
エリアは、ついに、食事をほとんど喉に通らなくなった。
俺が狩ってきた獣の肉を、どんなに柔らかく煮込んでも、彼女は、それを飲み込む体力すら、失ってしまっていたのだ。
彼女の命を繋ぎ止めていたのは、もはや、俺が水筒で与える、わずかな水だけだった。
余命は、あと、五日……いや、それよりも、もっと短いかもしれない。
俺は、眠る彼女の顔を見下ろしながら、絶望的な気持ちで、地図を広げた。
故郷の海までは、まだ、この険しい山脈を越えなければならない。
今のエリアの状態で、果たして、間に合うのか。
その時だった。
俺の懐で、カサンドラが残してくれた羊皮紙が、ふわりと、温かい光を放った。
「……!」
それは、以前にも一度だけ感じた、聖なる力の輝き。
だが、今回は、ただ光るだけではなかった。
羊皮紙の上に、光の文字が、ひとりでに浮かび上がってきたのだ。
それは、カサンドラの声が、直接、俺の心に響いてくるかのような、不思議な感覚だった。
『――リアン。聞こえますか。……時間が、ありません』
『……黒い影……ゼーリオンが、あなたたちのすぐそこまで、迫っています』
俺は、息を呑んだ。
あの絶望的な脅威が、もう、すぐそこに。
『……でも、まだ、希望はあります。……ゼノンが、動きました』
『彼は、真の敵に気づき、今、あなたたちを助けるために、向かっています』
『……どうか、それまで、持ちこたえて……』
光の文字は、そこで、ふっと消えた。
カサンドラ……! 生きていたのか……!
そして、ゼノンが、俺たちを助けに……?
それは、信じがたい報せだった。
だが、安堵したのも束の間。
洞窟の外から、空気が凍るような、圧倒的な冷気が、流れ込んできた。
俺は、弾かれたように、入り口へと目を向ける。
そこに、一人の男が、音もなく、立っていた。
白銀の長髪。血のように赤い瞳。
そして、その全身から放たれる、すべてを無に還すかのような、絶望的な魔力。
「……見つけたぞ、勇者リアン。そして、我が父祖の魂を宿す、器よ」
その声は、悪夢そのものだった。
黒い影――ゼーリオンが、ついに、俺たちの目の前に、その姿を現したのだ。




