第33話:迫る絶望と黒い影
ルナリアの街を襲った黒い影の恐怖は、まるで実体を持った冷気のように、俺たちの背中にまとわりついていた。
俺は、エリアを背負い、がむしゃらに走った。
どこへ向かうという明確な当てもない。ただ、あの底知れない悪意から、一刻も早く、一歩でも遠くへ逃れることだけを考えて。
数時間後、俺は街道から外れた森の中に身を隠し、ようやく足を止めた。
全身から汗が噴き出し、心臓が警鐘のように激しく鳴り響いている。禁じ手を使った傷が、再び開いたかのように熱く痛んだ。
「……リアンさん……大丈夫……?」
背中から、エリアの弱々しい声が聞こえる。
彼女は、俺の尋常ではない様子に、何かが起きていることを察しているのだろう。
「……ああ、問題ない」
俺は、荒い息を整えながら嘘をついた。彼女に、余計な心配をかけさせるわけにはいかない。
俺は、おそるおそる、ルナリアの街があった方角を振り返った。
空を覆っていた不吉な黒い雲は、いつの間にか消えていた。
だが、それが、嵐が過ぎ去ったことを意味するのではないと、俺の本能が告げている。
あれは、ただ、その目的を達し、静かに去っていっただけなのだ。
一体、何だったんだ、あれは。
ギルヴァレスのような、魔族特有の荒々しい魔力とは違う。
もっと冷たく、静かで、それでいて、魂の芯まで凍てつかせるような、絶対的な虚無の力。
俺がこれまで対峙してきた、どんな魔物や魔族とも、次元が違う。
俺の脳裏に、ギルヴァレスの最後の言葉が蘇った。
『見つけたのだ! 我が主の偉大なる魂を受け継ぐに相応しい、最強の魔族をな!』
まさか、あの気配の主が、その『後継者』だというのか。
だとしたら、あまりにも、規格外すぎる。先代魔王ですら、あれほどの絶望的な気配は放っていなかった。
俺が、得体の知れない恐怖に思考を奪われていると、街道の方から、数人の人影が、よろよろとこちらへ向かってくるのが見えた。
商人風の男、若い夫婦、そして、老婆。
誰もが、衣服は汚れ、その顔には深い絶望と恐怖の色を浮かべていた。
彼らは、ルナリアから逃げてきた生存者らしかった。
俺は、衝動的に、彼らに声をかけようとした。
街で、何が起きたのか。
だが、その足を、エリアが、俺の服の裾を引いて、そっと止めた。
「……ダメです、リアンさん」
「……なぜだ」
「……あの人たちに見られたら、私たちが街にいたことが、分かってしまうから……。そうしたら、あの人たちまで、また、酷い目に……」
エリアの言う通りだった。
俺たちが、あの街に立ち寄った。その事実こそが、あの惨劇を引き起こした原因なのだ。
生存者たちに顔を見られれば、新たな追跡の手がかりを与えることになりかねない。
俺は、唇を噛みしめ、茂みの中に身を潜めた。
生存者たちは、俺たちに気づくことなく、すぐそばを通り過ぎていく。
彼らの、途切れ途切れの会話が、風に乗って、俺の耳に届いた。
「……ひどい……街が、全部、氷漬けに……」
「ああ……一瞬だった……。黒い髪の、悪魔のような男が、空に浮かんで……指を鳴らしただけで……」
「ああ、神様……なぜ、我々がこんな目に……」
氷漬け……?
男が、一人……?
その言葉は、俺の背筋を凍らせるのに、十分だった。
あの広範囲に及ぶ破壊を、たった一人の魔族が、一瞬で引き起こしたというのか。
信じがたいが、事実なのだろう。
生存者たちの嗚咽が、遠ざかっていく。
俺は、彼らの姿が見えなくなるまで、ただ、動けずにいた。
まただ。
また、俺のせいで、罪のない人々が犠牲になった。
廃教会の前で会った、あの少年の憎悪に満ちた瞳が、脳裏に蘇る。
『お前らのせいで、お父さんもお母さんも……!』
俺とエリアが旅を続ける限り、この悲劇は、延々と繰り返されるのだ。
俺は、本当に、正しいことをしているのだろうか。
エリア一人を生かすために、一体、いくつの命を犠牲にすれば、気が済むのだろうか。
「……リアンさん」
俺の心の葛藤を見透かすかのように、エリアが、俺の手に、そっと自分の手を重ねてきた。
その手は、驚くほど冷たい。だが、その温もりのなさが、逆に、彼女がまだ、確かに生きているという事実を、俺に伝えていた。
「……行きましょう」
彼女は、何も言わなかった。
ただ、その紫色の瞳で、まっすぐに俺を見つめているだけだった。
その瞳は、言っていた。
『私たちは、もう、進むしかないのだ』と。
俺は、深く、息を吸い込んだ。
迷っている暇はない。
あの黒い影は、確実に、俺たちを追ってくる。
今はただ、逃げなければ。
この、か細い命の灯火を、守り抜くために。
俺は、再びエリアを背負うと、南へと向かって、歩き出した。
背後に広がる絶望から、目を背けるように。




